勉強するのが正しい。
正しい情報に基づかねば、正しい判断は出来ない。尤もなようで実は違うのだと思ってたりする私でございます。
正しい情報がない時に、とにかく前に進まなければいけない時や、どこまで考えを巡らせても不明であったり、もっと基本に立ち返り見つめなおす、或いは「学習に拠らない方法」に固執するということが、個人の中で起こっている場合は、もう救いようはないのでしょうか??
私は、上記の「愛すべき無駄な努力をしているすべての人々」に、「正しい情報」を使い訴えかけるには、どのように、何をやれば良いのか、などということを長い時間考え続けている・・・つもりなのですが、その答えの一つが、実は「正しい情報を振りかざす形にしてはいけない」というものでした。
「正しい情報が伝えたいのに、出すに出せない」或いは「出すと却って見てももらえない場合がある」-
折角の正しい情報が、「そうであるかぎり」見てもらえない・・・そういう人々が意外と多いと私は踏んでいて、ならばどういう形がいいのか、ということをネット配信で訴えていたつもりなのですが、やり方が不適切である、との指摘を受け続けており、いよいよ答えを出さないといけないのかなと言っていいくらいの期間(約一年)が過ぎてしまいました。
論理だっても居ないし、専ら「感情」だけで判断しがちな人々に対応しようとしていたわけですが、そのことがあらぬ誤解を呼びすぎてしまったようで、もうこの、今までの放送スタイルは取るに取れなくなってしまいました。と思っています。続けてしまったら、指摘していただいている方に流石に無礼というものです。
元来、私が「話しかけてみたい」と思っていた層は、はっきり言って「賢くない人々」です。賢くない人々ではありますが、一番多い人口層です。じゃ、落ち太郎は自分のことを賢いと思ってて、上から目線なのかヽ(`Д´)ノプンプン? というと、「そうではない」のは、私の放送を見ていただいているすべての人が「そうではない、むしろバカだw」 というのは周知の事実だと思います。つまり、こんな私だからこそ「正しい情報などを学習する大切さを、その対象に説く」のには、我ながら「ちょうどいい」のではないのかと考えていました。なぜならば、私の知っている「賢い人々」は「バカ」というだけで「話をする対象ではない」といって、遠ざけてしまいますから。
私には謎と思えるほどの「選り好み」を図りすぎていて、賛同者やそれらを募るための「呼び水」としての「賑わい」を企図しないという、このことは流石に本末転倒していると思います。
この時点でよく意見が対立するのは「バカにおもねっても意味は無い」或いは「バカを引き寄せたら元の木阿弥だ」というような指摘を受けるのですが、ここで問題なのは「その風景を見ている第三者」です。果たして、賢者なら必ず「バカを処断する」風景を、正しく咀嚼してくれるものなのでしょうか? 「バカを殴ってたの見てスカッとしたぜ!」というようなこととしてしか理解してくれなかったタイプの「違うバカ」を引き寄せたりしてはいないのでしょうか?
「説明不要なレベルの愚か者【などに】説明するのは無駄であり徒労である」果たしてそうでありましょうか?
いわゆるお花畑レベルの「彼らは何故そう考えるのか」ということを話すことが、そんなにいけないことなのでしょうか?
いろいろと「賢者層」と「そうではない層」との架け橋になればと思い、試みていましたが、負の再配布だということで、何も伝えることは出来なかったようです。
なにも、「正しい情報」を見せないようにしていたつもりは全く無く、むしろ「振りかざすことによって辟易とされるのを避けていた」だけなのですが、無駄だったようです。
無駄だったのです。
正しい情報がない時に、とにかく前に進まなければいけない時や、どこまで考えを巡らせても不明であったり、もっと基本に立ち返り見つめなおす、或いは「学習に拠らない方法」に固執するということが、個人の中で起こっている場合は、もう救いようはないのでしょうか??
私は、上記の「愛すべき無駄な努力をしているすべての人々」に、「正しい情報」を使い訴えかけるには、どのように、何をやれば良いのか、などということを長い時間考え続けている・・・つもりなのですが、その答えの一つが、実は「正しい情報を振りかざす形にしてはいけない」というものでした。
「正しい情報が伝えたいのに、出すに出せない」或いは「出すと却って見てももらえない場合がある」-
折角の正しい情報が、「そうであるかぎり」見てもらえない・・・そういう人々が意外と多いと私は踏んでいて、ならばどういう形がいいのか、ということをネット配信で訴えていたつもりなのですが、やり方が不適切である、との指摘を受け続けており、いよいよ答えを出さないといけないのかなと言っていいくらいの期間(約一年)が過ぎてしまいました。
論理だっても居ないし、専ら「感情」だけで判断しがちな人々に対応しようとしていたわけですが、そのことがあらぬ誤解を呼びすぎてしまったようで、もうこの、今までの放送スタイルは取るに取れなくなってしまいました。と思っています。続けてしまったら、指摘していただいている方に流石に無礼というものです。
元来、私が「話しかけてみたい」と思っていた層は、はっきり言って「賢くない人々」です。賢くない人々ではありますが、一番多い人口層です。じゃ、落ち太郎は自分のことを賢いと思ってて、上から目線なのかヽ(`Д´)ノプンプン? というと、「そうではない」のは、私の放送を見ていただいているすべての人が「そうではない、むしろバカだw」 というのは周知の事実だと思います。つまり、こんな私だからこそ「正しい情報などを学習する大切さを、その対象に説く」のには、我ながら「ちょうどいい」のではないのかと考えていました。なぜならば、私の知っている「賢い人々」は「バカ」というだけで「話をする対象ではない」といって、遠ざけてしまいますから。
私には謎と思えるほどの「選り好み」を図りすぎていて、賛同者やそれらを募るための「呼び水」としての「賑わい」を企図しないという、このことは流石に本末転倒していると思います。
この時点でよく意見が対立するのは「バカにおもねっても意味は無い」或いは「バカを引き寄せたら元の木阿弥だ」というような指摘を受けるのですが、ここで問題なのは「その風景を見ている第三者」です。果たして、賢者なら必ず「バカを処断する」風景を、正しく咀嚼してくれるものなのでしょうか? 「バカを殴ってたの見てスカッとしたぜ!」というようなこととしてしか理解してくれなかったタイプの「違うバカ」を引き寄せたりしてはいないのでしょうか?
「説明不要なレベルの愚か者【などに】説明するのは無駄であり徒労である」果たしてそうでありましょうか?
いわゆるお花畑レベルの「彼らは何故そう考えるのか」ということを話すことが、そんなにいけないことなのでしょうか?
いろいろと「賢者層」と「そうではない層」との架け橋になればと思い、試みていましたが、負の再配布だということで、何も伝えることは出来なかったようです。
なにも、「正しい情報」を見せないようにしていたつもりは全く無く、むしろ「振りかざすことによって辟易とされるのを避けていた」だけなのですが、無駄だったようです。
無駄だったのです。