今回は古銭から離れて少し、旅の話を。

私、実は旅行も大好きでして、年末に横須賀と鎌倉に行ってまいりました。今回はその話をしてみます。

横須賀には私の行ってみたかった、「記念艦三笠」がありまして、そちらにまずはいきました。


高速を抜けてついた先にはすごく大きい三笠が待ち構えていました。


そして内部に入っていこうとしたら、まさかの「休館」 
また次にリベンジをしようと思います。
前方から見たら迫力がすごいです。

この記念艦三笠ですが、いろんな歴史があるそうです。
ロシア皇帝は、不利な戦況を挽回するため、明治37年10月、ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする第2太平洋艦隊を、次いで翌年2月15日、第3太平洋艦隊をバルト海のリバウ海軍基地から極東に派遣しました。(第2、第3太平洋艦隊の総称がバルチック艦隊です)
東郷平八郎連合艦隊司令長官は、バルチック艦隊は必ず対馬海峡を通過してウラジオストクに向かうと判断し、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結させ、猛訓練を続けながら待ち構えました。明治38年5月27日早朝、仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦隊見ゆ」との警報を受信した連合艦隊は直ちに出撃、対馬沖でバルチック艦隊を迎撃し、5月27、28の両日にわたって激しい戦闘を繰り広げ、ロシア艦隊を撃破、降伏させました。
昭和20年8月、大東亜(太平洋)戦争に敗れた我が国に連合軍が進駐し、日本を弱体化するための占領政策を進め、ソ連代表は記念艦「三笠」を解体するよう強硬に要求しました。
軍事技術の急速な進歩に伴い新鋭戦艦の建造競争が激化したため、大正11(1922)年にワシントン海軍軍縮条約が締結され日・米・英・仏・伊の主力艦保有数を制限することになりました。
ワシントン海軍軍縮条約に調印した我が国は、艦齢の古い「三笠」も軍艦籍から除き廃棄することを決定しました。しかし日露戦争の勝利に貢献した戦艦「三笠」は国の独立を守った誇りの象徴として永久に残すべきとの声が内外で高まったため条約調印各国の同意を得た上で閣議において記念艦として保存することが決定されました。
「三笠」は関東大震災の影響で艦底に破孔が生じ浸水したため横須賀港外で擱座していましたが、大正14(1925)年10月に満潮を利用して曳船により岩場を掘削した現在の場所に引き入れられ艦首を皇居に向けて固定されました。
そして大正15(1926)年11月12日に摂政宮殿下(後の昭和天皇)御臨席の下、盛大な保存記念式典が挙行されました。
米海軍司令部はソ連の解体要求と日本側の保存要請を考慮し、妥協策として「三笠」の艦橋、大砲、煙突、マストなど上甲板構造物を撤去することを条件として、横須賀市に「三笠」の保存・使用を許可しました。
ところが、横須賀市から「三笠」及び周辺地の使用を委託された民間企業は、上甲板構造物を撤去した跡に、水族館、ダンスホールなどを設け、「三笠」を遊興施設に変えただけでなく、「三笠」の近くに保管されていた大砲、マストなどを売却してしまったのであります。 戦後の心の荒廃を示すものでした。
遊興施設は一時賑わいを見せたものの次第に客足が遠のき、「三笠」は手入れされることなく放置され、錆まみれの哀れな鉄屑同然になってしまいました。
昭和30年(1955)、三笠建造時の乗組員と親交が深かった英国の貿易商ルービン氏は、三笠の惨状を見て慨嘆し、その胸中をジャパンタイムスに投稿しました。
この記事は内外に大きな反響を呼び、同じ思いを抱いていた政財界及び旧海軍の枢要な人々が立ち上がり、昭和33年11月、三笠保存会が再興され、会長に渋沢敬三氏が、副会長には伊藤正徳、石坂泰三、澤本頼雄の三氏が、理事長に岡崎嘉平太氏がそれぞれ選出され、また、顧問には吉田茂、芦田均、小泉信三、安岡正篤、鈴木孝雄氏等が就任し、全国的な規模で「三笠」復元運動が始まりました。
そして 内外の募金1億6千万円、国の予算9千8百万円(米海軍の2千4百万円を含む)とにより復元工事が実施され、観覧態勢も整い、記念艦「三笠」は往時の姿を取り戻しました。
ということだそうです。(記念艦三笠より引用)

三笠に挨拶をし出発しました。リベンジをします!


道中、「まるわ食堂」さんで食事。
サクッサクのエビフライとアジフライ、絶品でした。

江ノ電も健在です。

小町通りでは、ハトサブレを買ってみました。
次はじっくりお寺などを巡ってみたいです。

最後に稲村ヶ崎でさざなみの音に癒されました。

今回はこんな感じです。如何でしょうか。
これからもたまーにこんな感じの物を投稿します。
よろしくお願いしますね。