彼に昨夜無事DVDを渡して来ました。
で、その中に入れた、遊びで作った映像があって、
本当に下らなくてクオリティもクソもないけど、
youtubeにアップしました。
あの壮行会で
「ち○こ」
という言葉しか発せなかった悲しいボキャ貧のMぢくんと、
てっぺいくんの鉄板ネタがフィーチャーされてます。
ということで個人の尊厳が著しく損なわれる可能性を秘めた映像なので、
1週間だけ、限定でアップします。
いいのかな?
声に注目してください。
わりと内輪ネタっぽいので、飲み会来てた人の方が面白いだろね。
村上春樹の「アフターダーク」を読みました。
友達から文庫本をもらったので。
特にハルキストという訳ではないのですが、彼の作品はちょこちょこ読んでます。
正直言ってあまり面白い作品ではなかったです。
読者を引きつける、物語のフックが弱かったから。
『海辺のカフカ』ほどは、ハマって読めなかった。
あの短さは、最初から意図してたのかな。
彼なりにすごく攻撃的に作ったのは感じることができます。
だから、ひょっとしたらあの短さも意図的と感じれなくもない。
でも、最後まで作ろうとしたら『ねじ巻き鳥』クラスに長くなったでしょうね。
作中の「高橋」がバンドでジャムセッションするみたいに、
人物のやりとりを、割と筆に任せて書いてたんだけど、
気づいたら物語が収束に向かっていた。
そんな気もしないでもない。
まあ、そんなことは割とどうでもよくて、
映画を研究する人間にとっては、
あの作中の「視点」とか「カメラ」というのがすごく気になります。
どうも、この作品を通して、春樹は「イメージ」というものに触れたかったみたいですね。
「”イメージ”を利用して、いかに”真実”に迫れるか。」
この問題提起は、おそらくストーリーテリングを考える人間には、ほぼ共通のテーマでしょう。
でも春樹は今作で”真実”を手放して、”イメージ”そのものに焦点を絞ったのではないでしょうか。
ジガ・ヴェルトフという映画監督が、100年くらい前の昔、ソ連にいました。
彼は「映画眼(キノグラース)」というアイディアを持っていた人でした。
おおざっぱに言うと
「カメラは、人間の眼が見ることの出来なかった、あらゆる些細な出来事(真実)を捕らえる」
(↑まだ映画が登場して間もない頃に、
こんなにも映画に関する深い省察をしてるソ連人は本当にオタクだなと思います。
それに、社会主義的な不思議な唯物論ぽいとこというか、そういうものも感じますね。)
まあ、とりあえず、「映像・映画」という”イメージ”をメタに分析する先駆者でした。
要約すると、彼は
「カメラ」を使って
「イメージ」によって
”真実”に迫るわけです。
それに対して春樹は、
「カメラ(というイメージ)」を使って
「イメージ」によって
”イメージ”それ自体に迫ろうとしていたのではないかな。
「純粋な視線」は
ひたすらに細かい物理的な「描写(イメージ)」しながら、
登場人物の「記憶(イメージ)」を浮かび上がらせる。
「イメージ」という広い海のような、
巨大な生き物のようなもの。
そこに人間はみんなつながってる。
作中に「法廷はとても巨大なタコのようだ」という表現が出て来るけど、
まさにそれ。
ホッブズのリヴァイアサンみたいに。
人間が世界という総体の部分でありながら、個である
みたいな描写もしきりになされていました。
でもそれも”真実”に違いないですね。
こんなこと真面目に話す自分が嫌いです。