昨日に引き続き、『TOKYO!』のカラックス作品「MERDE」の感想・解説です。
そう、タイトルが「糞」なんですよ。
『ボーイ・ミーツ・ガール』
『汚れた血』
『ポンヌフの恋人』
『ポーラX』
そして
『糞』
がびーん。
やってくれるわー。
何か公開前の彼の撮影風景の写真見たら、昔よりだいぶ垢抜けてて、
ちょっとポール・ウェラーみたいな危ないオヤジ風な見た目になってて、
「ああ、彼も金につられて、また一段とスノッブな感じになったのかな。。」
なんて。
心地よく裏切ってくれました。
まず始まっていきなり、「糞」って書いてある巨大な広告看板が映し出され、
ゴジラのテーマが流れるんですよ。
のっけから衝撃。
そのBGMをバックにドニ・ラヴァンがマンホールから登場します。
さて、今回の作品を考えるにあたって、
一人の日本人監督と、彼の作品を参照せずにはいられません。
大島渚監督の『絞死刑』(’68)です。
作品の概要は以下の通り。
主人公 の在日朝鮮人 死刑囚 "R"は強姦致死 等の罪で絞首刑 に処せられるが、信じられないことに、絞縄にぶら下がったRの脈はいつまでたっても止まらず、刑は失敗する。縄を解かれたRは刑務官 たちの努力の末に漸く意識を取り戻したものの、処刑の衝撃で記憶を失って心神喪失 となっていた。刑事訴訟法 では、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失 状態にあるときは執行を停止しなければならないため、刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、死刑 制度の原理的な問題から在日朝鮮人 差別の問題に及び、貧困を背景とした犯罪心理 をも浮かび上がらせる。
(wiki)
この作中の刑務官たちの論理は
あくまで「お国のため」に何となく刑を執行しなけらばならない、
といったほどのもので、
主人公である在日朝鮮人死刑囚Rは最終的に
「国家という不条理に反対すべく不条理な存在として死ぬ」
ことを選び、自ら進んで刑に臨みます。
もう一度「MERDE」の物語を振り返ります。
ドニ・ラヴァンは世界に散在する数人しかいない民族の一人であり、
国家や一般社会に属さない「地下」からやってきます。
裁判においても彼は最後まで社会の圧力等といったものを感じることもなく、
自分の人種的偏見をもって日本人を憎み、
日本人を殺したことに対しても、まるで当然のことのように語ります。
(というよりも、本当に彼がそう語ったのかどうかも、
本当は誰にも理解できないのです。
彼の言葉を理解するのは、フランス人の通訳だけ。
字幕の出ない二人の会話シーンは何とも興味深く、
カラックスは意識的だったに違いありません。)
権力の拒絶。極度のアナーキズム。
そして彼はRと同じように絞首されても死なず、
またRとは反対に最後には死刑を免れどこかに消えてしまうのです。
今回はどちらかといえば、死刑される側に不条理さが際立っていますね。
まさに『絞死刑』を半ば反転させたような形になっています。
と、ここまで書いて、
念のためにネットでいま「カラックス インタビュー」で検索したら、
本人が
「『絞死刑』を参考にした」
と口にしている記事を見つけ、もろに言質が取れてしまいました。
そして
「自分と他者がテーマ。現代への新たなアプローチ、思想を作りたかった。」
とも。
あー、つまんない。
でもせっかくなので最後まで書きます。
要は、この作品は「政治の季節」を通過した『絞死刑』を
「9.11以降」にバージョンアップさせたものだと。
以下は推測です。
その思想の根底には明らかに
ドゥルーズのいう「管理社会」や
ネグリ=ハートの「帝国」や「マルチチュード」
といった現代思想を参考にしていることでしょう。
作中に頻繁に出てくるニュース番組のバックに映る
「蜘蛛」の絵と「雲」の漢字。
衛星からの映像や、監視カメラの映像、携帯の映像を意識させるカメラ。
まさに「地下」から出てきて、国家を無視するドニ・ラヴァン。
自らの頬を叩き、自分の歯を指で指し示す行為によるコミュニケーション。
これらのいちいち引っかかってくる記号たちを、
単に知識をひけらかす演出、
稚拙と言うことも出来ますが、
少なくとも、
タブーの多い日本人にはほとんどと言っていほど出来ないことだらけです。
かつての大島渚を除いては。
60年代に「政治的な作家」として名を馳せた一面を持つ大島渚の作品たちは、
主張にいくぶん政治的なものが含まれている、という共通点を除いては、
どの作品の世界観を取っても、
同じ監督が撮ったとは思えないバリエーションを持っています。
カラックスが今回彼をどこまで意識していたのかわかりませんが、
この「MERDE」が今までのカラックス作品に思えないほど作風を変えてきたのは
偶然でしょうか。
ヌーヴェルヴァーグという波を起こし、それを引っ張ったゴダールは
「本当のヌーヴェルヴァーグの始まりは大島渚の『青春残酷物語』であり、
この作品が世界にただちに紹介されていたら、映画史は変わっていた」
と語っています。
デビュー当時、「ゴダールの再来」と呼ばれたカラックスが、
参考として『絞死刑』を挙げるに留まらず、
大島渚、その人自身ににオマージュを捧げたのだと考えても、
違和感は無いかも知れません。
でも、
本っっっ当に一番気になったのは、
作中、監視カメラかテレビ映像を意識させる演出として、
画面が何分割かに分かれる裁判のシーンがあるんですが、
そのとき、
画面がスクリーンから数十センチはみ出ていたんです!!
これを意図的と見るのは、穿った見方なんでしょうか。。
以上!『TOKYO!』のカラックス作品「MERDE」の感想と解説でした。