7年前のブログを再掲する。人としての一つの原点を振り返る意味でも。


「母と暮らせば」12月13日、ユナイテッドシネマ札幌
「クロスロード」
「母と暮らせば」
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。それから3年。助産師の伸子(吉永小百合)のもとには度々、息子の浩二(二宮和也)の許嫁町子(黒木華)がやって来て、家事を手伝ってくれた。町子は小学校の教師となっていた。ある日、伸子の下に浩二が現れる。以来度々現れて伸子とゆっくり話をする。そして町子の将来を案じ、良い縁があったら結婚をするようにと信子に伝えてきた。
井上ひさしの戯曲「父と暮せば」。これに対になる作品を山田洋次監督が映画化した。
「母べえ」など戦後を問う、最近の山田監督の連作の中でも出色だった。
幽霊が出てくるからでもないだろうが、被爆の過酷な運命をなぞるかのような、ダークな色調が特徴だ。家の中には、赤い夕陽が射しても、依然として室内はほの暗いままだ。そこに当時の長崎市民の心象が浮き出ているかのようにも思える。
出演者の米軍機の原爆投下のシーンなど珍しい映像が最初に出て来たが、それ以外は直截的に原爆の被害を描かない。正確に言うと、浩二が医学部生として講義を受けている場面があるが、それ以外、「悲惨」な場面はない。だからこそ、当時の状況、残された者たちの境遇を想像で補う必要があるだろう。

CGも含め驚いた場面は多かったのだが、あの場面があったのは正直びっくりした。本田望結が出て来たシーンだ。彼女は町子の教え子という設定で、出征した父親の生死について、復員・援護関係の役所に祖父から聞いてくるように頼まれたのだった。これは私の中ではすごく有名なシーンとして記憶していた。山田太一編の「生きるかなしみ」(ちくま文庫)に杉山龍丸の文章として紹介されている。杉山(1919~87年)は夢野久作の長男。陸士、陸軍航空技術学校を経て、フィリピン隼集成整備隊長などを歴任。在学中に反戦運動を行ったこともあり、戦後は引き揚げ者のための「杉山農園」を経営し、アジアの貧困を憂い「国際文化福祉協会」を創設した。
文章は復員の事務係の目線で語られる。以下少々長いが、後半を記す。場所は復員などを扱う事務所だ。
〈前略〉
その人は「ニューギニヤに行った、私の息子は?」と名前を言って、たずねた。友人は、帳簿をめくって、「貴方の息子さんは、ニューギニヤのホーランジヤで戦死されておられます」と答えた。その人は、その瞬間、眼をカッと開き口をピクッとふるわして、黙って立っていたが、くるっと向きをかえて帰って行かれた。〈中略〉
私は黙って、便所に立った。そして階段のところに来た時、さっきの人が、階段の曲がり角の広場の隅のくらがりに、白いパナマの帽子を顔に当てて壁板にもたれるように、たっていた。〈中略〉その人の肩は、ブル、ブル、ふるえ、足もとに、したたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。
〈中略〉
次の日、〈中略〉私の机から頭だけ見えるくらいの少女が、チョコンと立って、私の顔をマジ、マジと見つめていた。〈中略〉
「あたち、小学校二年生なの。おとうちゃんは、フィリピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの」
〈中略〉私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島のルソンのバギオで、戦死になっていた。〈中略〉「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです」といって、声がつづかなくなった。瞬間少女は、一杯に開いた眼を更にパット開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。涙が、眼一ぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。それを見ている内に、私の眼が、涙にあふれて、ほほをつたわりはじめた。私の方が声をあげて泣きたくなった。しかし、少女は、
「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじいちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの」
私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。やっと、書き終わって、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。涙一滴、落さず、一声もあげなかった。
肩に手をやって、何かいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。私は、声を呑んで、しばらくして、「おひとりで、帰れるの」と聞いた。少女は、私の顔をみつめて、
「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車をおしえてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。私は、体中が熱くなってしまった。
「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」と、小さな手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。
どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、なにが出来るのか?
戦争は、大きな、大きな、なにかを奪った。
悲しみ以上のなにか、かけがえのないものを奪った。
私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにを考えるべきであろうか。
声なき声は、そこにあると思う。
以上「ふたつの悲しみ」を紹介したが、編者の山田太一は冒頭にこう短く書いて紹介している。
「ただ闇雲に戦争なきをよしとする考えのグロテスクを知らないわけではない。このような肉親の別れは、戦争によらずともあるだろう。しかし、こうした記録を前にして、なお平然として沈黙を知らぬ人に、ひかえめにいっても私は嫌悪を抱く」と。