皆さん、聞いてみませんか。ナターシャ・グジーさんが歌われる「防人の詩」を。
クライナ紛争が気がかりな毎日を過ごしておりますが、そんな折、ふとユーチューブでナターシャ・グジーさんの歌を聞きました。
ナターシャ・グジーさんが民族楽器「バンドゥーラ」を奏でて歌う姿は美しく、哀しく、どちらかといえば悲哀に満ちた歌のように私は感じますが、その歌声に私は、どうしようもなく引き込まれるものを感じるのです。
私は、どうしてこの方に引き込まれるものを感じるのかなあと最近考えてみました。
まあ、この方の容姿や美貌・お声に反応する部分は確かにあります。しかし、その他にこの方の歌には、過酷な体験を通じた魂の叫びみたいなものを感じるのです。そして私がこの方の歌を通じて感じる根源には、私の母と重なるものを感じてしまうのです。
もちろん私の母はこんな美貌の持ち主ではありません。歌も好きでしたが、こんなにうまくはなかったです。
重なるものといえば、この方が訴えるものと、母が訴えたものに共通性があるように感じるのです。その共通性とは、避難民・戦争は嫌・生まれた故郷を思う・平和への訴え、祈りのようなものです。
ここで私の母の事をちょっとだけ恥ずかしいですが、紹介します。もうすでに他界しているので文句は言われないと思います。
「戦争はいや。もう絶対いや。戦争は絶対すっぎいかんよ。」これが私の母の口癖でした。今となっては、私への遺言の言葉かもしれません。それとトラウマがよみがえるように「ロッシャン兵は怖か、恐ろしか」とも言ってました。
私の母は、1930年に現在の北朝鮮、「沙里院」という場所で生まれました。
父親(私の祖父)は、Tという日本の国策会社勤めで、転勤が多い会社だったようです。母は今でいえば転勤族のひとりっ子です。そのため15歳まで外地の小・中学校(国民学校かな?)では、6校ぐらい転校したとも聞いています。
祖父は京城・木浦(もっぽ)・順天(韓国)、張家口(ちょうかこう・北京オリンピックのジャンプスキーの場所)、そして沙里院(北朝鮮)の支店への転勤。そのため一家も移動、母も転校です。詳しき事はもう祖父母も母も亡くなっているので分かりませんが、終戦を2度目の沙里院で迎え、日本へと引き揚げているようです。
終戦は2度目の転勤地、「沙里院」で迎えます。1945年8月15日終戦の2週間後くらいに、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が、母が住む社宅にいきなり押し入り、銃をつきつけられ、金品の家財道具を奪われ、略奪を受けたとも聞いています。幸い、兵士と話すことができる良き交渉人がおられ、祖母と母は暴力も受けずに無事にその場を切り抜けたようですが詳しいことは分かりません。
それで、母は、時々トラウマに襲われたように「ロッシャアン兵はとっても赤黒く鬼の様で怖い」という恐怖体験を、私は幼いときからいつも聞かされて育ちました。
「もう絶対に戦争はいや。」「あんたたちば絶対戦争に行かせんけんね。」というのが私の母の口癖でした。日本へ帰るために迫り来るロッシャアン兵や中国人および朝鮮人に怯えながら、38度線の川を越えた話は、子ども心に恐い話として私の頭に焼き付いています。そして、釜山までの逃避行は酸鼻を極めたようですが、詳しいことは分かりません。
終戦後、母たちは一か月以上、難民いや棄民の生活となり、流浪の旅をしているようです。そして釜山港から出る引揚船に乗船し、博多港へと命からがらの脱出帰国だったようです。壮絶な筆舌に尽くしがたい体験だったようですが、今となっては、母からもう少し引き揚げ体験話を詳しく聞いておけばよかったと反省しきりです。
このような母の体験の思いと現在のナターシャ・グジーさんの体験の思い(避難民・戦争は嫌・生まれ故郷を思う・平和への祈り)が私には重なり、母の思いがナターシャ・グジーさんの歌を通して感じられるのかもしれません。
ウクライナの惨状のニュースを聞くたびにロシアは、昔も今も非情な国なのでしょうか。おそらく、ロシア市民の方々は相手への思いやりを普通に持っている方々と感じます。
現在は、人権を軽視するロシアの一部の権力者、トップの方々の政策や考えが間違っているからこのような悲惨な戦争を招いているとしか考えざるをえません。今早急に間違った路線を軌道変更し、平和への道へと修正してもらいたいものです。地球に住む市民のうう迷惑です。しかし、なかなかどうして?人は自分の都合でしかものを考えられない動物のようですね。外野席から叫ぶことしかできませんが。「No more war」と
戦争は最大の人権侵害に当たります。
そして、ナターシャ・ジグーさんは次のように訴えていらっしゃいます。
「言葉がありません。いま、私が抱えている感情を表す言葉が見つかりません。
私の生まれ育った故郷は悲しい涙が流れ、罪のない人々の血が流れ、住宅地、学校が攻撃され、原発が攻撃され、子どもたちが『戦争で死にたくない』と泣く。笑い声、歌、音楽が響きわたった故郷は今、銃撃音、爆撃音が響きわたり、人々が命を守るため必死に逃げ、多くの町に残ったのはがれき、戦車、死体、悲しみ。人々の心、大地の心の叫び声が聞こえてくる。これが私の故郷ですか?私が20年以上、音楽を通じて日本のみなさんに伝えてきた故郷の姿ですか?言葉がありません。
それでも、愛するウクライナ、愛するウクライナの人々のために、平和のために、何度も、何度も救われてきた音楽の力を信じて、発信していきます!ウクライナの人々は強い!ウクライナの人々は優しい!
日本のみなさん、世界中のみなさんの想い、祈りがとても大きな励ましになっています!どうか、これからも、想い、祈ってください。
ウクライナ、そして世界の平和のために祈ってください!
愛を込めて ナターシャ・グジー」
現在、ナターシャ・グジーさんは、ライフワークとしてチェルノブイリ原発事故の被災体験を伝える活動を行っている他、東日本大震災以降は、被災地への支援活動にも精力的に取り組まれています。
ご自分の辛かった経験をしてほしくないという強い願いからの活動が認められ、日本各地で音楽活動をなさっています。
その思いを知るとただ美しい人が美しい声で歌っていると思うだけでなく、切なさで胸が熱くなります。
ナターシャ・グジーさんの歌は、他にもいっぱいあります。関心のある方はユーチューブを利用しご視聴ください。
○ナターシャ・グジーさんの「防人の詩」を聞いての視聴者の感想を付け加えておきますね。
・さだまさしさんの詩を良く理解されての弾き語りで感動しました。今母国は言われなきロシアからの侵攻を受け大変な状況になってます。この歌をウクライナの戦っている人達に届けたいですネ!!頑張って下さい。
・魂を揺さぶる歌声、心が震えました。 日本語の理解を超越した魂の想いが伝わって来ます。ありがとうございます。 ウクライナの人々に一日も早く平和が訪れますよう願っております。 この壮大な詩を書かれた、さだまさしさんに言葉がありません。感謝感謝感謝です。
・ロシアのウクライナ侵攻が現実と化して、この詩そしてナターシャさんの歌声が意味を持つ様に思えます。 戦果の中、血が流れるのは悲しい限りですがかつて戦った我々日本から何かできないか?と思うところです。
・日露戦争の悲哀と祖国への想いをさだまさしが歌った「203高地」のテーマ曲「防人の詩」…。 そして今はロシアのウクライナ侵攻。 再びあなたの澄んだ歌声を聴いて、祖国ウクライナの平和と無事を願わずにはいられません。
・たった今のウクライナの状況でこの曲は本当に心に響きます。 早く、平和が戻ることを願っています。
・生きとし生けるものすべての命に… ウクライナの人々も等しくロシアの人々にも 愛と平和が届きます様に…🕊 心に響く歌声でした。
追伸:ウィキペディアよりナターシャ・グジーさんの紹介
ウクライナのドニエプロペトロフスク州の村に生まれ、チェルノブイリ原子力発電所から3.5kmのプリピャチへ転居した。1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故によって被曝した後、避難生活で各地を転々としてキエフ市へ移住する。
ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、8歳から音楽学校で学ぶ。チェルノブイリ原発事故で被災した少年少女を中心に結成された民族音楽団「チェルボナ・カリーナ」(チェルノブイリの赤いカリーナの実)のメンバーとして、1996年と1998年に来日し、全国で救援コンサートを行う。2000年からは日本語を学びながら日本での本格的な活動を開始。その透明で美しい水晶の歌声とバンドゥーラの可憐な響きは、多くの聴衆の心を惹きつけている。2005年7月のウクライナ大統領ヴィクトル・ユシチェンコ来日の際には、首相官邸での小泉純一郎首相主催の夕食会に招かれ、演奏を披露。チェルノブイリ救援コンサートのほか、テレビ、ラジオ、音楽教室や学校での国際理解教室など多方面で活躍している[1]。2016年には、音楽を通じた日本とウクライナの相互理解の促進に対する功績が認められ、日本国外務省から外務大臣表彰を受けた。
祖国ウクライナのため、世の中の平和実現の為にこんなに一生懸命に日本で取り組んでおられるのに、遠い異国の故郷が、焼け野が原になっているなんて気の毒でたまりません。ナターシャ・グジーさんの思いが早く通じるように私たちも支援していきたいものです。
今回、また熱くなって長文になってしまいました。お読みになられた方お疲れ様でした。
