Un ange a passe. -ⅰ- | Keep it simple, stupid.

Keep it simple, stupid.

ちょい斜め上を見ながら。

妻と会話をしなくなったのはいつからだろう。
いや会話はしている。夫婦らしい会話をしなくなった。
夫婦らしい会話って何だ? 愚痴にまみれたタダの吐き出しじゃなくて、もっとこう他愛なくてなにげない……。

そんなものは最初からなかったんじゃないかって、最近つくづく思う。

ひさしぶりにノー残業デーに従って、早めの帰宅。
川底に沈殿している泥のように、体の奥にたまった疲れが電車の揺れで増幅される。
ようやく帰ってきてまともな時間に飯が食えると思ったら、妻のマシンガントークが炸裂する。
テーマは主に、俺の母と妹のこと。妻にとっては姑と小姑のことだった。
たいがいは、母からの電話が発端。妻にしてみれば、母からの無理難題に振り回される嫁というお決まりの流れだ。
たぶんにもれず
「今日もお義母さんから電話があって」
と、すでに喧嘩腰なきつい口調で俺に迫ってくる。
私はひとりで戦っているのよ、とぷんぷん匂わせながら。
「お義母さん、体調が良くないからかほるちゃんを里帰り出産させてあげられないって、ウチに面倒みてほしいっていうのよ」
「ああ、昼間母さんから電話あった」
「なんだ、そっちにも電話してるんだ。こういうことは根回し速いんだから」
妻は呆れた風な声で俺に云う。
「断ってくれたんでしょ?」
俺がすぐに返事をしなかったもんだから、妻は眉間に皺を寄せて険しい顔になった。
「お前に訊いてみないとわからんて云っただけだよ」
「何それ? 私が引き受けるわけないじゃない。何それ」
信じらんない、と妻は何度も云った。最後のほうは感情が乗っかっていなかった。
「ウチには我が儘な妊婦の面倒をみる余裕はないの。将や勇太に出産祝いのひとつもよこしたことないのに、こんなときだけやってもらって当然みたいに云ってくるんだから、ほんと意味わかんない。お祝いなんかいいのよ、ほっといてくれたらこっちだって向こうに何の干渉もするつもりないし。だいたい『アタシ子どもきらーい』ってさんざんウチの子をチクチクいじめてたひとに、なんでこっちが気遣ってあげなきゃいけないの!」
俺は何も云い返すことができないまま、箸を置き、席を立った。
肉じゃがのじゃがいもが喉にひっかかる感触がした。巧く飲み下せない。
ああ、そうだな。妹の底意地の悪さは今にはじまったことじゃない。
俺も昔はあいつに振り回されてた。それが兄貴の特権だ、みたいな勘違いをしてたこともあった。
冷蔵庫を開けて、発泡酒の缶を取り出す俺の背中に、妻の容赦ない言葉の矢が突き刺さる。
「自分から頼んでくればまだかわいげがあるのに。お義母さんに云わせるのよね。いっつもそうよね」
ああ、そうだ。そうだな。母と妹はニコイチだ。ニコイチでおまえに嫁いびりをするんだったな。
俺の実家の連中は、ろくでもないんだよな。ごめんごめんな。
でも、俺はどっちの味方にもなれない。ていうか、俺が口を出してことが巧く収まったためしがあるか?
母と妹からすれば、嫁の尻に敷かれて産み育ててくれた実母を慮れないダメ息子。
妻からすれば、お前の家族はどれだ? 私と息子たちだろうに、いつまでも実家に縛りつけられるダメな亭主。
「たぶんあの子からあんたに連絡入るでしょ。『お兄ちゃんなんとかして!』って。どうすんの?お兄ちゃん?」
揶揄の語気をたっぷり含ませて、妻は俺の返答を待つ。
「……明日俺から電話して釘をさしとくよ。ウチでは無理だって」
妻の目は俺の言葉をまったく信用しちゃいなかった。


午後からの会議が長引き、取引先へのメールの処理だけであっという間に定時がすぎた。
部下からあがってくる稟議書や報告書に目を通して、明日持っていく営業用素材の準備をしていたら、22時を軽く回る。
疲れているのに、そのまままっすぐ家に帰る気にはなれなくて、駅の西側、路地の奥の焼き鳥屋に足が向いていた。
酔っぱらいの嘔吐物や排泄物が染み込んだアスファルト。場末の雰囲気が今はなぜか心地よい。
人気がまったくないその薄暗い路地をひとりで歩いていると、

ふいに、頭の上のほうがやけに明るく感じて、のろのろとと顔を上げてみた。
雑居ビルの螺旋階段、10階のあたりからまばゆい光の塊がゆっくりとこっちに向かって降りてくる。
目を顰めて光の在り処を確かめる。
やがて光は、ひとのかたちを見せはじめた。
ひと? おいおい、ひとのわけがない。
宙に浮いてるじゃねえか。発光しながら宙に浮いてるとか、おかしいだろ。
今目の前で起こっている事象と理性がせめぎ合う。せめぎ合いは理性を容易にふっ飛ばして実際に起こっているらしいおかしな事象に軍配をあげた。
軍配をあげたが、ひとのようなものはもっとおかしな様相を呈しはじめる。

ひとのようなものには、純白の翼があった。
大きく美しい翼が羽ばたいていた。ホバリングしているというのが正しいかもしれない。時折翼から抜け落ちた羽根がふわふわと宙を漂っていた。
翼を持ったひとのようなものは、純白で薄手の衣をまとっていた。襟ぐりが大きく開いた胸元から裾へと豊かなドレープを描いていて、彫刻されたような美しい鎖骨と襟ぐりの間から金属製のものがちらりと覗いた。
どうやら衣の下には甲冑を装着しているらしい。
右手を上に掲げているのは黄金に光る槍を持っているせいだった。
左手は腰に差した黄金の剣に添えられている。
栗色の髪が、ふわりふわりとたなびいていて、髪に縁取られた顔は小さくて、とてつもなく美しかった。
杏仁型をした両の目は伏せられていて、こんな見事な半眼は高名な寺の仏像でしかお目にかかれないだろうというくらいつくりものじみていた。まぶたの膨らみが目の大きさを物語る。
ゆるいカーブを描いた一文字の眉からつづく鼻筋は美しいとしか表現しようがない。
口角の上がった肉感的な唇は、アルカイックな微笑みを湛えていた。

天使。

都心の場末の飲み屋街の片隅に、今まさに舞い降りようとしているのは天使だった。
ルネッサンス期の教会に描かれた天井画にいるような出で立ちの天使が、なぜだか俺の目の前に降りてきた。
まばゆい光に包まれた超絶美形な天使。
白いヌメ革のサンダルみたいなものを履いた爪先が地上に触れたとたん、天使を包んでいた光が閃光と化した。
俺は咄嗟に手で自分の目を覆った。
そして、きつく閉じた目を開けて手をのけたときには、天使は「ひと」になっていた。

栗色の髪をゆるく後ろで結び、ベージュのカーディガンの下に胸にギャザーが寄った白のカットソー、キャメルの細身のパンツにグレイのショートブーツを履いた美しい青年がたおやかに微笑みながら立っていた。
俺は言葉を発することができないまま、ただただぼーっとその場につっ立っているほかなかった。
すると、
「こんばんは」
「あ、こんばんは」
天使らしき青年が屈託なくあいさつをしてきたので、思わず返した。
「どのあたりから、僕のこと見えてました?」
ほわんとした口調で唐突に訊いてくる。実に飄々としている。
俺は手でジェスチャーを加えながら云った。
「羽、生えてたよね?」
「あららら、結構前からご覧になられてる」
「甲冑とか着てたよね。武装してたよね」
「一応正装なんで。つか、何と戦うんだってね。敵は己の中にいる!的な」
軽! なんかこいつチャラいぞ!
「あの、君」
「はい」
「天使、だよね?」
「人間のみなさんはそう呼んでくださってます」
「天使でいいんだよね?」
「Maybe」
なんで英語!
「『天使』っていう記号です。姿形には大した意味はなくて、人間がイメージする天使をこちらが勝手に具現化して見せてるだけです。僕らの本質はもっともやもやっとした形のないものなんです。OK?」
なんだかよくわからないが、天使ではあるらしい。
それにしても、なんという美形っぷり。ついついじろじろと不躾な視線を送ってしまう。
天使もそれに慣れているのか、飄々とした態度を崩さない。
「この姿だとすごく受け入れてもらえるんです。特に人間の女性の方々に」
そらそうだろうさ。男の俺だって正直目のやり場に困っている。実に困っているんだ。
受け入れてもらえるんです、と云ったときについと流し目をしたんだ、こいつ。それがすさまじく色っぽかったんだ!
そして、羽が生えた天使のままよりも、より人間らしい今のような姿のほうがより都合がいいらしい。
「どう都合がいいんだ?」
「羽があるほうが好きですか? だったらそうしますけど」
「いや今のままでいいです。ていうか、君、何しに来たの?」
「あ、そうでした」
天使は舌をちろっと出して唇を舐めた。なんだこいつ、なんでいちいちこんなにかわいいんだ!
「あなたに世界をつくりかえる力を授けにきました」
「は?」
「『コトノハ』で世界を再構築するための力です」
「意味がよくわからんのだが」
「まあまあ、とにかく授けにきたんで受け取ってください」
天使はゆるりとやわらかく口角を上げて微笑むと、鼻白む俺にずずっと顔を近づけてきた。
かと思うと、天使の薄く開いた唇が俺のがさがさに荒れた唇に触れてきたのだった。


to be continued