ひとさしの舞/自分の頭で考える教育を/小名木善行

2024年1月21日

 

小名木善行 先生

 

戦時中の国民学校(今の小学校)の6年生の國語の教科書から、「ひとさしの舞」という、高松城水攻めに際しての城主清水宗治(しみずむねはる)の物語を転載します。

ときは天正10年4月、秀吉が信長の命を受けて中国の毛利輝元を攻めた時のことです。

この報を受けた輝元の叔父の小早川隆景は、いち早く備前、備中の諸城を固く守られたのですが、秀吉の軍勢に押されて、次々に落城し、ついに、高松の一城を残すのみとなりました。

高松城は、周囲をヤマで囲まれた一面の沼地で、道は、わずかに和井元口と、地下口との二筋があるばかりの要害堅固な名城でした。

城主は、知勇兼備の将と言われた清水宗治で、この主のためには生命を惜しまない5千の部下が、城を守っていました。

さすがの秀吉も、これには攻めあぐんでしまうのです。

この時たまたま部将であった黒田孝高が水攻めの計を献じたのを幸い、大堤防を築いて足守川の水を注ぎ込み、さしもの高松城を水浸しにしてしまうところから、この物語は始まります。

 

清水宗治

初等科國語 六/ひとさしの舞 - Wikisource

 

国民学校初等科國語6 二十 ひとさしの舞

 

高松の城主清水宗治(しみずむねはる)は、急いで天守閣へのぼった。

見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流がものすごい勢で流れ込んで来る。

「とうとう、水攻めにするつもりだな」

この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになるのも、間はあるまい。

押し寄せて来る波を見ながら、宗治は、主家毛利輝元を案じた。

この城が落ちれば、羽柴秀吉の軍は、直ちに毛利方を攻めるに違いない。

主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまった今、せめてこの城だけでも、持ちこたえなければならないと思った。

宗治は、城下にたてこもっている五千の生命をも考えた。自分と生死を共にするといっているとはいえ、この水で見殺しにすることはできない。

中には、女も子どももいる。

このまま、じっとしてはいられないと思った。

軍勢には、ちっとも驚かない宗治も、この水勢には、はたと困ってしまった。

 

羽柴秀吉と軍を交えるにあたり、輝元のおじ小早川隆景は、七城の城主を集めて、

「この際秀吉にくみして、身を立てようと思う者があったら、すぐに行くがよい。どうだ」

とたずねたことがあった。

その時、七人の城主は、いずれも、

「これは意外のおことば。私どもは一命をささげて国境を守る決心でございます」

と誓った。隆景は喜んで、それぞれ刀を与えた。

宗治は、

「この刀は、国境の固め。かなわぬ時は、城を枕に討死せよというお心と思います」

と、きっぱりといった。

更に秀吉から、備中・備後の二箇国を与えるから、味方になってくれないかとすすめられた時、宗治が、

「だれが二君に仕えるものか」と、叱りつけるように言ったこともあった。

こうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒って、軍勢をさし向けたのであるが、智勇すぐれた城主、これに従う五千の将士、たやすくは落ちるはずがなかった。

すると、秀吉に、高松城水攻めの計を申し出た者があったので、秀吉はさっそくこれを用い、みずから堤防工事の指図をした。夜を日に継いでの仕事に、さしもの大堤防も、日ならずして出来上がった。

折から降り続く梅雨のために、城近くを流れている足守川は、長良川の水を集めてあふれるばかりであった。

それを一気に流し込んだのであるから、城の周囲のたんぼは、たちまち湖のようになった。

 

毛利方は、高松城の危いことを知り、二万の援軍を送ってよこした。

両軍は、足守川をさし挟んで対陣した。

その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすでに水に没した。

援軍から使者が来て、「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て」ということであったが、そんなことに応じるような宗治ではない。

宗治は、あくまでも戦いぬく決心であった。

そこへ、織田信長が三万五千の大軍を引きつれて、攻めて来るという知らせがあった。

輝元はこれを聞き、和睦をして宗治らを救おうと思った。

安国寺の僧恵瓊を招き、秀吉方にその意を伝えた。

和睦の条件として、毛利方の領地、備中・備後・美作・因幡・伯耆の五箇国をゆずろうと申し出た。

秀吉は、承知しなかった。

すると意外にも、信長は本能寺の変にあった。

これには、さすがの秀吉も驚いた。

そうして恵瓊に、「もし今日中に和睦するなら、城兵の命は、宗治の首に代えて助けよう」といった。

宗治はこれを聞いて、

「自分一人が承知すれば、主家は安全。五千の命は助る」と思った。

「よろしい。明日、私の首を進ぜよう」と宗治は答えた。

 

宗治には、向井治嘉(はるよし)という老臣があった。

その日の夕方、使者を以って、

「申し上げたいことがあります。恐れ入りますが、ぜひおいでを」と言って来た。

宗治がたずねて行くと、治嘉は喜んで迎えながら、こう言った。

「明日御切腹なさる由、定めて秀吉方から検使が参るでございましょう。どうぞ、りっぱに最期をおかざりください。

私は、お先に切腹をいたしました。決してむずかしいものではございません」

腹巻を取ると、治嘉の腹は、真一文字にかき切られていた。

「かたじけない。おまえには、決して犬死をさせないぞ」と言って、涙ながらに介錯をしてやった。

その夜、宗治は髪を結い直した。

静かに筆を取って、城中のあと始末を一々書き記した。

 

いつのまにか、夜は明けはなれていた。

身を清め、姿を正した宗治は、巳の刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣へ向かって舟をこぎ出した。

五人の部下が、これに従った。

向こうからも、検使の舟がやって来た。

二そうの舟は、静かに近づいて、満々とたたえた水の上に、舷(ふなばた)を並べた。

「お役目ごくろうでした」

「時をたがえずおいでになり、御殊勝に存じます」

宗治と検使とは、ことばずくなに挨拶を取りかわした。

「長い籠城に、さぞお気づかれのことでしょう。せめてものお慰みと思いまして」

といって、検使は、酒さかなを宗治に供えた。

「これはこれは、思いがけないお志(こころざし)。遠慮なくいただきましょう」

主従六人、心おきなく酒もりをした。

やがて宗治は、「この世のなごりに、ひとさし舞いましょう」といいながら、立ちあがった。

そうして、おもむろに誓願寺の曲舞(くせまい)を歌って、舞い始めた。

五人も、これに和した。

美しくも、厳かな舞い納めであった。

舞が終ると、

「浮世をば 今こそわたれ もののふの 名を高松の 苔にのこして」

と辞世の歌を残して、みごとに切腹をした。

五人の者も、皆そのあとを追った。

検使は、宗治の首を持ち帰った。

秀吉は、それを上座にすえて「あっぱれ武士の手本」と言って褒めそやした。

 

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國語の授業で使われた教材ですから、もちろんいまと同じく漢字の読み書きや、送り仮名、文中の「これ」が何を指すかなどといったことも授業の中に含まれたのですが、当時の文部省の学習指導要綱を見ると、「取扱の要諦」に次のように書かれています。

 

文章を読ませて、困難な発音、文字、語句等を指導し、確実に読ませる。

独思や対話の入った文章であるから、地の文と区別して読ませるようにし、清水宗治が切腹して部下を助け、節義をまっとうしたことを分からせる。

読みが進むに従い、清水宗治が水攻めにされた城下町を眺めて主家を案じ、部下の生命を考え、

・小早川隆景が七城の城主に言った言葉、

・これに対する宗治の態度、

・秀吉から降伏を進められたときの立派な態度、

・高松城の水攻めの様子、

・織田信長の援軍と和睦の条件、

・本能寺の変と和睦の成立、

・老臣・向井治嘉の忠節、

・宗治最期の立派な様子

等を読み取らせる。

文意の理解に即して、話すことを練習する。

また人物を定めて、対話を中心にして劇的に読ませるようにし、読みを深める。

 

この指導要綱に基づき、教室では、先生が、セリフのところを「〇〇君、ここ読んでみて」、「ほら、もっと感情を込めて!」等とやり、さらに「小早川隆景は、どうして七城の城主にこのようなことを言ったのだと思う?」等と問うたのです。

小学生というのは、実におもしろい存在です。

こういう時に、おもいもかけない、意外な答えが返ってくることがあります。

そこで異なる意見を持つ生徒たち同士で、互いに議論を交わさせたりなんていうことも行われたわけです。

 

議論というのは、その国の言語で行われるものです。

つまり、日本人なら、日本語で議論します。

そこには国語力が必要です。

そして議論の奨励は、すでに1400年前の十七条憲法に、「論(あげつらふ)」として、その重要性が説かれています。

上下心をひとつにして、互いに顔をあげて、相手の目を見て議論するのです。

この点、議論を一切認めない西洋式の軍隊では、上官の発言を気をつけの姿勢で聞く時に、兵はまっすぐに前を見たまま、上官の目を一切見てはいけないことになっています。

互いに相手の目を見ながらするのが「論(あげつらふ)」です。

顔《つら》を《あげ》て議論するから、「あげつらふ」と言います。

 

戦時中の義務教育では、よく軍国青年の育成が図られたと言われます。

もし、兵を作ることが教育の目的なら、生徒は教師を見てはいけないし、自分で考えること、自分の意見を持つこと、議論することは、禁止です。

なぜなら、言われたことだけ出来さえすれば良いからです。

けれど、実際に戦時中に行われていた教育は、自分の頭で考えることができる子供を育成するということでした

そしてそのことは、我が国の教育において、千年以上続く伝統でもあったのです。

 

我が国の文化は「察する文化」です。

「察する」という技術は、高い教育と、しっかりとした言語能力によって育てられます。

その互いに「察する」という土壌の上に、議論(あげつらふこと)が行われます。

少し考えたら分かることですが、察するという文化なしに、ただやみくもに議論するなら、それは「考えることをしない議論」になります。

考えもなしに、ただ議論するのなら、それは互いに「言い張る」ことにしかなりません。

微細な違いをとりあげての強弁や、偽りを真実と言い換える詭弁、あるいは論点のすり替えばかりが横行することになります。

まさに現代の世相です。

 

中心におかれているものが違うのです。

・事実を客観的に見つめる。

・自分の頭でしっかり考える。

・そのうえで、自分の考えを述べる。

・さらに周りの人たちの意見を聞く。

・そこには必ず「違い」がある。

・自分ばかりが正しいのではない。

・相手も自分が正しいと思っている。

・ならば、本当に正しい答え(真実)は、その真中にある。

・だから、みんなで一緒にその真実を目指して議論する。

 

この時に必要なことは、周囲の人が何を言わんとするのかを察する心です。

自分を含め、周囲はみんな小学生なのです。

誰もが言葉が足りない。

だからより一層、察するということが求められます。

ここに小学教育にしかできない教育の真価があるのです。

 

文中に、清水宗治が切腹の前に「誓願寺の曲舞」を舞ったという話が出てきます。

誓願寺の曲舞(くせまい)というのは、鎌倉中期の名僧で、時宗の開祖である一遍上人と、平安中期の女流歌人である和泉式部の御魂との出会いの、お能の演目です。

 

ある日、一遍上人が京都にある誓願寺で、人々に念仏を教えながら、御札を人々に配っていたのです。

すると、群衆に交じって一人の美しい女性があらわれて、札の列に並びます。

ところがいざ札を受け取ると、その女性は、札に書かれた「六十万人決定往生」の文言を不審がるのです。

「往生できるのは、たった六十万人だけ??」

そこで一遍上人が、

「この文言は、熊野権現から頂いた御言葉です。『六字』の名号は仏法の全てを表し、『十界』のすべては念仏の前に等しいのです。つまり弥陀の光明は、十方世界に及ぶのです。どうして人数を限りましょうか」

と言い、

「この言葉は、一切衆生を救済する浄土教の真髄なのですよ」と諭します。

するとその言葉を聞いた女性は、

「上人様、あの堂内の額を外し、『南無阿弥陀仏』と書いて下さいませ。というのも、かく言う私こそ、昔よりこの寺に縁あるあの石塔の主・・・」

と女が指さした、境内の石塔は、なんと和泉式部の墓塔です。

驚く一遍上人。

石塔へと近づいてゆく女性。

女性は、「実は私こそ和泉式部の化身です」と述べます。

波乱の生涯を生きた和泉式部は、誓願寺の宝前で、清らかに舞の袖を翻します。

やがて時刻は移り、賑わっていた説法の場も静寂に包まれる。

ひとり静かに額に向きあう和泉式部。

すると堂内は、美しい花とかぐわしい香りに満たされていきます。

と、これが「誓願寺の曲舞(くせまい)」の物語です。

 

誓願寺の御本尊は阿弥陀如来です。

阿弥陀如来は、その昔、『仏となった暁には必ずや全世界の人々を救おう』と誓った如来さまです。

 

さて、では、死を前にした清水宗治は、どうしてこの誓願寺の曲舞の物語を舞ったのでしょうか。

皆さんなら、どのようにお答えになられるでしょうか。

そしてこの授業を受けた小学生6年生の子供たちなら、どのように答えたでしょうか。

 

この物語には、死生があります。

人の死は、現代の世相にあるように、ただ批判したり、悪口を言ったり、お笑いで済ませることができるような軽いものではありません。

つまり、この授業を受けた当時の小学生たちは、ここで本気で「生きる」ことを学んだし、考えたし、そこに真面目さや誠実さを育んだのです

文中の「それ」は何を指していますか?といったことばかりを授業とする現代の教育と、真面目に真剣に考えることを学んだ戦前戦中までの日本の教育。

そこに私たちが取り戻すべき、本来の日本の教育の根幹があるように思います。