田坂広志が語る「すべては導かれている~逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟」

2024年1月20日

 

多摩大学大学院 教授・田坂氏

あすか会議2018

「すべては導かれている-逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟-」

(2018年7月8日開催/国立京都国際会館)

我々の人生は、「幸運に見える出来事」だけでなく「不運に見える出来事」も含め、大いなる何かに導かれている。人類の永い歴史を振返るならば、多くの優れた先人は、その存在を「信じる」ことにより、自らの中に眠る力と叡智を引き出し、人間としての可能性を開花させ、逆境を乗り越えてきた。これらの先人と同様に、我々が「すべては導かれている」という覚悟を定めるならば、その瞬間から人生の風景が変わると、田坂氏は言う。我々は、人生とどう向き合い、覚悟をどのように定めれば良いのか。現代の知の巨人が語る。(肩書きは2018年7月8日登壇当時のもの)

 

田坂 広志

多摩大学大学院 教授/田坂塾・塾長/世界賢人会議 Club of Budapest 日本代表

 

【動画】

田坂広志が語る「すべては導かれている-逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟-」

 

人生を拓くために必要な逆境力とは

今日は、非常に感慨深い思いでやって参りました。あれは3年前でしょうか、仙台でのあすか会議にもお招き頂いたのですが、私はいつもこうした場で、一つだけ、覚悟を定めていることがあります。「一期一会」。私はいつも、「この講演にお招き頂けるのは今日この日が最後だ」と、思い定めて講演をさせて頂いています。
従って、未熟な一人の人間ながら、あの3年前のあすか会議でも、「これ以上の講演はもうできない」という思いで務めさせて頂きました。それが、よもや、またお招き頂くことになるとは思っていなかったのですが、これも天の配剤でしょう。導きと言ってもいい。また、こうやって、あすか会議にお招き頂いたこと、改めて深くお礼を申し上げたいと思います。
いま申し上げたように、どの講演も、「一期一会」と思い定めて話をさせて頂いています。ですから、今日もまた、その思いで、1400名の皆さんのかけがえのない人生の時間を、1時間、お預かりさせて頂きたいと思います。

まず、最初に申し上げたいことがあります。皆さんは、このグロービスという素晴らしいビジネススクールで学ばれてきた方々ですが、では、皆さんは何のため、このビジネススクールに入られたのでしょうか。私もまた、多摩大学大学院のビジネススクールで教鞭を執っている人間ですが、私の講義を聴かれる受講生・学生の方々には、いつも最初に、そのことを伺います。「皆さんは、何のために、この学び舎に来られたのですか」と。
実は、それはMBAを取るためではないですね。資格を取るためではないですね。皆さん、思いはただ一つではないでしょうか。「人生を拓きたい」。その思いで、こうして集まってこられたのではないでしょうか。私自身、いまだ人生の道を求め、歩み続けている人間ですが、私もまた若い頃、道を求め、求めて、「どうすれば自分の人生が拓けるのか」という思いを持って歩んできました。
私自身、その思いを持って歩んできましたので、こういう場に集まり、何かを学ぼうとされている方々のお気持ちも、究極、「人生を拓く」という一点にあると思っています。

「人生を拓く」。これは誰にとっても極めて大切なことですが、では、人生を拓くために必要なことは何か。
もとより、ビジネス理論や戦略論、ものの考え方やロジカルシンキングも大切です。また、キャリアプランやキャリア戦略も大切でしょう。しかし、実は「人生を拓く」という一点で考えるならば、最も大切なものはただ一つだと、私は思っています。
それは、「逆境力」です。逆境というものを越えていく力です。なぜなら、皆さんがどれほど優秀な方であっても、必ず逆境に直面されるからです。苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、ときに病気や事故。人生においては、そうした逆境に、必ず皆さんも直面することになるでしょう。そのとき、皆さんはどのようにして、その逆境を越えていかれるのか。
しかし、この「逆境力」とは、単なる根性とか、忍耐力とか、執念といったものではありません。それだけでは、決して人生は、拓けない。実は人生には、最強の「逆境力」というものがあるのです。今日は、その話をさせて頂きたいと思います。それが今日のテーマです。

では、最強の「逆境力」とは何か。それは、この一つの覚悟を定めることです。
すべては導かれている」。そう腹を定めた瞬間、目の前の風景が大きく変わります。そして、不思議なほど、心の奥底から力が湧き上がり、目の前の逆境を越えていくための叡智が与えられます。
では、なぜ、この覚悟を定めなければならないのか。それは、目の前の逆境に「正対」するためです。そもそも、なぜ我々は、逆境を越えることができないのか。それは、実は、逆境の厳しさや大きさのためではないのです。我々が逆境の前で立ち尽くしてしまうのは、その逆境が大きいからでも、自分の力が無いからでもないのです。
我々が逆境を越えられない理由は、実は、その逆境に「正対」できなくなるからです。目の前の逆境に正面から向き合うことができなくなるのです。なぜなら、人間というのは、大きな逆境に直面すると、心が必ずこう動くからです。「ああ、なぜ、こんなことになってしまったのか」と考え、過去を悔いることに延々と心のエネルギーを使ってしまうか、「ああ、こんなことになってしまった。これからどうなってしまうのか」と考え、その不安で心が一杯になってしまう。未来を憂うことに、また延々と心のエネルギーを使ってしまうのです。
しかし、もし我々が、目の前の逆境に心を定めて正対することができれば、必ず、道は拓けます。力も湧き上がってくる。叡智も降りてくる。それにもかかわらず、その正対ができないのです。そのことを私は、私自身の逆境の体験を通じて学ばせて頂きました。今日はその話から始めてみたいと思います。

志を持って生きるとは、今を生き切ること
ちょうど35年前の1983年の夏、私は医者から非常に深刻な病を告げられました。医者の診断は、「もうあなたの命は長くない」というものでした。では、医者から匙を投げられ、死を目前にした人間は、どのような心境になるか。
地獄です。本当に日々が地獄でした。自分の体がどんどん崩れていくような感覚。そして、死が迫ってくる不安と恐怖。そうした日々は、「悪夢」という言葉すら生やさしく聞こえるのです。なぜなら、もし、それが「悪夢」であるならば、その夢から覚めれば、その苦しみも消える。
しかし、逆なのです。寝ている最中だけ「死の恐怖」を忘れられる。しかし、夜中に目が覚めると、刻々と命を失っていく自分が現実なのです。はっと目が覚めると、その現実が目の前にある。夜中に、何度もため息をつきながら、どん底のなかで日々を過ごしていました。
しかし、医者も見放し、頼るものも無い、救いも無い状況の中で、天は見放さなかったのでしょう。私の両親が、ある寺を紹介してくれたのです。それは禅寺なのですが、そこは難病や大病を抱えた方が行き、その多くが立ち直って戻ってくる寺だというのです。両親は、そこに行くことを勧めました。
しかし、私は、科学的な教育を受け、工学博士という肩書も持つ人間ですので、唯物論を信じる人間でした。だから最初は、「そんな怪しげな場所など・・・」と撥ねつけていたのです。「医者が見放したものが、助かるはずがない。寺に行ったぐらいで、治るはずはない」と。そう思っていたのです。しかし、やはり人間です。体の状態がどんどん悪くなると、最後は「藁にもすがる」という思いになりました。
それで、「もう騙されたと思って行ってみよう」という思いでその禅寺を訪れました。だから、心細い思いで山の中にあったその寺に着いたとき、そこに、何か不思議な治療法でもあるのではないかと期待していました。
しかし、その期待は、全く裏切られました。行ったその日から、鍬や鋤を渡されて献労をさせられたのです。農作業です。医者も見放した体の悪い人間に、農作業。最初は、「こんな労働をさせられるなら、入院していたほうが良いのでは・・・」と思ったほどです。ただ、そうは言っても周りの人々は農作業をされる。そこで、私も仕方なく一緒に作業をしていました。「こんなことをして何が治るんだ・・・」と思いながら。
いまでも、一枚の写真があります。その寺を訪れた初日、森の中を切り拓いた畑で撮った写真です。その写真の中には、一人の若者が立っています。休憩時間、鍬を杖のようにして幽霊のように立っている若者。当時の私です。

ところが、人生というものは、やはり、「大いなる何か」に導かれている。その初日から、大切なことを教えられたのです。その畑で嫌々ながら農作業をしていると、横から大きな声が聞こえてきた。それは、「どんどん良くなる!どんどん良くなる!」という声でした。思わず横を見ると、ある男性が必死に鍬を振り下ろしている。しかし、見た瞬間に分かりました。足が大きく膨れていて、「腎臓がやられている」ということが。
それで、休憩時間に、「どうなさったんですか」と聞くと、「いや、見ての通り腎臓をやられているんですわ。それで、何年も、病院に出たり入ったりして、もう医者は治してくれんのです。ただ、このままじゃ家族がダメになる。もう、自分で治すしかないんですわ!」と言われた。その瞬間、その方の言葉が、天の声のように聞こえたのです。「ああ、そうだ。自分で治すしかないんだ!」と。その瞬間、私は、大切な何かを掴み始めたのです。
そして、それから3日後ぐらいでしたか、その日の午前中は、山の中腹にある畑に行って皆で農作業をする日でした。私は作業で使う農具の当番で、一人ひとりに鍬や鋤を渡していくと、他の方々は、次々と坂を登っていき、農作業に向かっていきました。全員に農具を渡し、後片付けをして、私もずいぶん遅れて・・・、もう30分以上経ったでしょうか、「さあ、自分も作業に加わろう・・・」と、鍬を肩に坂道を登っていったら、最初の曲がり角に差し掛かった瞬間、ハッとする光景を見ました。それは、思わず目を疑う光景でした。
そこを歩いていたのは高齢の女性でした。足が悪いことは、見てすぐに分かりました。足を引きずるようにして、鍬を杖のようにして一歩一歩、坂道を登っていました。その悪い足を治したいということで、その寺にやってきたのでしょう。しかし、その歩みでは、懸命に坂道を登っていっても、畑に辿り着くのは午前中の作業が終わってしまう頃です。それは明らかでした。
しかし、その方の後姿から、強い思いが伝わってきました。「畑に辿り着けるかどうかはどちらでもいい。私は、この体で力を振り絞って、自分の力で登っていく!」。その必死の思いが伝わってきたのです。農作業に間に合うかどうかは関係ない。目の前の現実に正対し、全力を尽くして登っていくという、その静かな気迫が伝わってきました。
その強い思いと静かな気迫を感じたとき、まだ、迷いの中にあった私も、大切なことを気づかせて頂きました。私は心の中で手を合わせ、「有り難うございます。大切なことを教えて頂きました」と拝みながら、その方の横を通り過ぎ、登って行きました。いまも、そのときのことを思い出します。35年前の夏です。そして、こうした体験は、すべて、天が私に与えたものだと思っています。

そして9日目、ようやくその寺の禅師に接見できる時がやってきました。「ああ、禅師に話を聞いて頂きたい」と思い続けた日々の9日目です。夜、その禅寺の長い廊下を渡って、禅師と一対一の対座になりました。
禅師の前に座ると、聞かれました。「どうなさった」。その瞬間、堰を切ったように、語りました。自分が死に至る病に罹ったこと。医者から診断を受け、治る見込みがないことを告げられたこと。誰も救ってくれないどん底の中でこの寺へやってきたこと。そうしたことを、切々と語りました。そして、禅師の言葉を待つ一瞬。さぞや、深く勇気づけられる言葉が聞けるのではないかと思い、固唾を飲んで言葉を待ちました。しかし、禅師が言われた言葉は、一瞬、耳を疑うものでした。
「ああ、そうか。医者が見放したか。そうか。もう、命は長くないか・・・」

「はい・・・」
すると、何と言われたか。
「そうか、命は長くないか。だがな、一つだけ言っておく。人間、死ぬまで、命はあるんだよ!」
一瞬、何を言われたのかと思いました。当たり前のことを言われたような気がしたからです。しかし、禅師は、その後、もう一つ大切なことを言われ、それで接見は終わりました。
長い廊下を歩いて戻りながら、「いま、何を言われたんだ・・・」と考えました。しかし、それは、どん底にいる人間の強さだったのでしょう。そこで、突如、気がついたのです。「そうだ、人間、死ぬまで命はある!その通りだ!」と。
けれども、自分はもう死んでいた。心が死んでいた。振り返れば、その日まで何ヶ月、心は、いつも、二つの思いで占められていた。「ああ、どうしてこんな病気になってしまったのか。もっと、健康に気を遣っていれば良かった。なぜ、こんな病気になってしまったのか。自分は、何と運が悪いのか・・・」。そんな風に、過去を悔いることに、延々と時間を使い、心のエネルギーを使っていました。
そうでなければ、「ああ、この病気で、どうなってしまうのか。どこかに助けてくれる医者はいないのか。いや、それは無理か。これから、どうなってしまうのか・・・」と。そんな風に、未来を憂うことに、延々と時間を使い、心のエネルギーを使っていました。
そのことに気がついたとき、先ほど、禅師が続けて言われた言葉が、心に甦り、腹に響いてきたのです。禅師は、何と言われたか。
「過去はない。未来もない。あるのは、永遠に続く、今だけだ。今を生きろ!今を生き切れ!」。
禅師の語ったその言葉が、心の奥底から甦ってきたのです。そして、そのとき、「そうだ!その通りだ!」と、何かを掴んだのです。禅師の「今を生き切れ!」という言葉が心に鳴り響く中で、私は、大切な何かを掴ませて頂いたのです。
そして、その瞬間、私は病を「超えた」のです。もちろん、その一瞬で病が治ったわけではありません。病気の症状そのものは、それから10年、続きました。しかし、その瞬間に、私は、病を「超えた」のです。なぜなら、そのとき、私は、こう腹を括ったからです。
「ああ、明日(あす)死のうが、明後日(あさって)死のうが、構わん!ただ、この病に対する恐怖のために、今日というかけがえの無い一日を無駄にすることは、絶対にしない!この病に対する後悔のために、今日というかけがえの無い一日を無駄にすることは、絶対にしない!たとえ明日、人生が終わりになるとしても、今日という一日は、絶対に悔いの無い生き方をしよう!今日という一日を、大切に大切に、精一杯生きよう!」
そう、腹を括ったのです。そう、覚悟を定めたのです。そして、35年前のその日から、私は、その生き方を続けてきました。その結果、いま、皆さんの目の前にいるように、35年、生かして頂いたのです。本当に有り難いことです。

しかし、天の配剤とは不思議です。「今を生き切る」という覚悟で生きてきた結果は、ただ35年、命を長らえさせて頂いただけではなかった。それ以上に、不思議なことが起こったのです。日々、「今を生き切る」という生き方を続けていると、自分の中から、何かの可能性が花開き始めたのです。
例えば「直観力」。物事に対する直観的判断が鋭くなったのです。また、例えば「運気」。なぜか、人生において運気を引き寄せるようになったのです。それがなぜなのか、私には科学的に説明できません。ただ、現実の問題として、不思議なほどの直観力や運気が与えられたのです。
それは決して、私という人間が何か特殊な能力や才能を持った人間だったからではありません。この会場にいらっしゃる皆さん、どなたも、これから申し上げる「五つの覚悟」を定めて修行をされれば、人生において、不思議なほどの何かが与えられます。もし皆さんが、病があるかないかに関係なく、「今日という一日しかない。今日という、かけがえの無い一日を、精一杯、生き切ろう」という生き方をされたら、必ず、皆さんの中から、眠っていた可能性が大きく開花していきます。

では、そうした生き方をするために大切なものは、何か。
」です。世の中のために、多くの人々の幸せのために、自分の人生を通じて、何か良きことを成し遂げたいという「志」。その「志」を深く心に抱いて生きるとき、我々の人智を越えたことが起こります。
例えば、このグロービスというビジネススクールの創業者の堀さん。もちろん、素晴らしい才能を持ち、人並外れた努力をされている。そして、見事な人柄もお持ちです。ただ、それだけでは、決して、これほどのことが展開することはない。なぜ、堀さんの周りに、これほどの多くの方々が集まり、素晴らしい活動が生まれてくるのか。
それは、何年も前に書かれた一冊の本ではないですか。『吾人の任務』。この本からは、「自分の人生、この志のために捧げる!」という覚悟が伝わってきます。その深い志があるから、一人の人間の人智を超えた世界が生まれてくるのです。
皆さんが、このビジネススクールで学ばれるのであれば、何よりも、この「志を抱いて生きる」という、その一点をこそ学ばれるべきでしょう。皆さんが深い志を抱かれるならば、必ず、「大いなる何か」に導かれます。そして、皆さんの想像を超えたことが起こります。

では、「志を抱いて生きる」とは何か。それは、単に「未来に実現する理想を心に抱いて生きる」ことではありません。「志を抱いて生きる」ことの本当の意味は、「今日という一日を、精一杯、全力を尽くして生き切る」という意味です。
もし、皆さんが、その生き方をされるならば、不思議なことが起こります。なぜか、必要なタイミングで、素晴らしい人と巡り会う。なぜか、必要なときに、素晴らしい仲間が集まってくれる。なぜか、見事なタイミングで、有り難い縁が生まれる。そうしたことが起こります。
それが、我々の人生の真実です。

自分の人生は、大いなる何かに導かれている
いよいよ本題に入りましょう。いかなる逆境も越え、人生を拓いていく。そのために最も大切なことは、「今を生き切る」ことです。そして、その生き方をするためには、何よりも、「深い志や使命感」を抱くことです。
では、その志や使命感を抱くとき、大切なものは何か。それは、「すべては導かれている」という覚悟を定めることです。
私自身、先ほどお話しした禅寺から戻ってくるとき、真っ青な空を見上げながらこう思いました。「ああ、自分には、大切な使命がある」。心底、そう思ったのです。もうその時は、自分の病気がどうなるかなど、まったく考えることはなかった。不思議ですね。あれほど、病気の不安と恐怖に押しつぶされそうになっていたのに。その時は、夏の青空を見上げ、「ああ、自分には成し遂げるべき使命がある。その使命に気づかせて頂くために、この寺に招かれたのだ。大いなる何かに導かれ、この寺に招かれたのだ」と思ったのです。そして、その時から、「すべては導かれている」という覚悟を定め、与えられた一日を精一杯に生きるという修行、「今を生き切る」という修行に入らせて頂いたのです。
では、どうすれば、「すべては導かれている」という根本覚悟を定めることができるのか。その根本覚悟にいたる道を、「五つの覚悟」を一つ一つ定めていく技法として、皆さんにお伝えしたいと思います。

まず、第一は、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を定めることです。皆さんが、もし、その覚悟を定められるならば、それだけで、何かが変わり始めます。
しかし、こう申し上げると、すぐに一つの疑問を持たれる方がいるでしょう。「田坂さん、おっしゃる意味は分かるけれども、その『大いなる何か』など、本当に存在するのでしょうか」と。
実は、そうした「大いなる何か」が存在するか否かは、誰も証明できないのです。人類何千年の歴史の中で、誰もそのことを証明した人はいない。その「大いなる何か」を、人は、ときに神と呼び、ときに仏と呼び、ときに天と呼ぶのかもしれない。しかし、それが存在するかどうかは、誰も証明できないのです。
ただ、良い機会だから申し上げます。例えば、「信念を持て」ということは、よく言われます。「自信を持て」ということも、よく言われます。この「信」という言葉の本当の意味を、皆さんはお分かりでしょうか。
この「信」という言葉の意味。誰かが証明してくれるから信ずるというのは「信」とは呼ばないのです。誰も証明することはできないが、自分は、無条件にそれを信ずる。このことを「信」と呼ぶのです。誰かが証明できるものは「信」とは呼ばない。ニュートンの法則を、「信」とは呼びません。それは単なる科学的な「常識」であり、「知識」です。
すなわち、「信」とは、無条件に信ずること。では、どうしてそれを信ずるのか。
それを信ずることで、良き人生を生きることができると思うからです。「信」という言葉は、本来、そのように使うべき言葉だと、私は思っています。誰かが証明しているからではなく、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」と信じて生きることによって、素晴らしい人生を拓くことができると思っているからです。

しかし実は、こうした「信」は、優れた先人の多くが、その人生において抱いて歩んだものでもあります。それは、政治家、経営者、文化人、芸術家、スポーツ選手、いかなる分野であっても、「ああ、見事な人生を歩まれたな」と思える方は、例外なくと言って良いほど、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」をお持ちです。だから、その方々は、逆境においても挫けることなく歩み、自身の中に眠る素晴らしい可能性を開花させ、「大いなる何か」の声に耳を傾けて歩んでこられたのだと思います。
私は、これまで、多くの経営者の方々とのご縁を得てきましたが、優れた経営者は、どなたも、その「信」をお持ちでした。例えば、私が若いころ薫陶を受けた素晴らしい経営者の中に、「Banker of the Year」という世界的な賞を受賞された、大手都市銀行の元頭取の方がいらっしゃいます。この方は戦時中、水兵として乗艦していた巡洋艦が撃沈され、海に投げ出された後、九死に一生を得て生還されたという経験の持ち主でした。この方も、ある時、ご自身の人生を振り返り、呟かれていました。「人は生かされて生きてるからね」と。
昔から、名経営者と呼ばれる方は、どなたも、こうした深い宗教的な情操をお持ちでした。それは、「自分は、大いなる何かに生かされて生きている」「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」と呼ぶべきものでした。
そして、この「大いなる何かに導かれている」という覚悟は、経営者やリーダーとして歩むために、極めて大切なものです。なぜなら、人を導くリーダーの立場にある人間は、自分自身を導く何かを信じることがなければ、心の中に、無意識の傲慢さが生まれてしまうからです。

皆さんは、どなたも、リーダーの世界を歩んでこられた方々であり、また、これから歩まれる方々だと思います。そうであるならば、いずれ、皆さんは、誰もご自身を導いてくれない時代を迎えます。だからこそ、そのとき、心の中に、「自分は、大いなる何かに導かれて生きている。その導きの声に、虚心に耳を傾けて歩もう」という、人間として最も謙虚な心を持って頂きたいのです。
分野を問わず、優れた仕事を成し遂げた方々は、どなたも、そういう「謙虚さ」と「信」を持って歩まれた方々です。例えば、版画家の棟方志功。彼が残したあの言葉も、素晴らしい言葉です。「我が業は、我が為すにあらず」。すなわち、「自分の残したこの仕事は、自分が成し遂げた仕事ではない。大いなる何かが成し遂げた仕事だ」と、堂々と言われる。素晴らしい生き方ですね。
皆さんも、これから何十年かの歳月を歩み、見事な仕事を成し遂げていく方々です。ただ、願わくば、人生の最後に、そうした言葉を語って頂きたい。いつか、世の中の人々から、「あなたは素晴らしい仕事を成し遂げましたね」と聞かれたならば、「大いなる何かに導かれ、この仕事を残すことができました」と答えて頂きたい。「幸い、世の中の多くの人々に光を届ける仕事を成し遂げさせて頂きました。しかしそれは、私が成し遂げた仕事ではありません。私という人間を通じて、大いなる何かが成し遂げた仕事です」。いつの日か、もし皆さんが、そう語られるならば、それは、一人の人間が人生を振り返ったとき語り得る、最高の言葉ではないでしょうか。

そして、こうした「我々の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」を抱いていたのは、優れた仕事を成し遂げた方々ばかりではありません。何千年もの人類の歴史を振り返るならば、多くの人々が、神という言葉、仏という言葉、天という言葉を使って、「大いなる何か」の存在を信じ続けていました。特に我々日本人は、日常の中で当たり前のように、「天命」という言葉や、「天の配剤」、「天の声」、「天の導き」といった言葉を使います。
すなわち、我々日本人は、誰もが、「我々の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚を抱いており、ある意味で、世界で最も深い宗教的情操を日常的な言葉で語っている国民なのです。我々日本人は、当たり前のように、「有り難いご縁を頂きました」という言葉を使います。また、「一期一会」という言葉も使います。このように、日本人は誰もが、素晴らしい宗教的情操を持っています。だからこそ、改めて、一つの覚悟を定めて頂きたいのです。「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を定めて頂きたいのです。
いや、皆さんは、ご自身の人生を振り返るならば、すでに、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚をお持ちではないですか。「あの時、あの人と巡り会ったから、道が拓けた」「あの時、あの出来事があったから、自分の進むべき道が分かった」。そういう体験を持たれている方は決して少なくないでしょう。そうであるなら、もうすでに皆さんは、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚を抱かれているのではないでしょうか。
されば、その「感覚」を、「覚悟」にまで深めることです。
そのことを申し上げると、「第一の覚悟」は、もう十分に理解されたかと思います。

人生で起こること、すべて、深い意味がある
そして、その「第一の覚悟」を定めると、自然に「第二の覚悟」が定まります。それは、「人生で起こること、すべて、深い意味がある」という覚悟です。
「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を本当に定めたなら、自然に、この「第二の覚悟」の意味が分かるはずです。なぜなら、我々の人生で与えられるのは、有り難い「順境」ばかりではないからです。ときに、辛い「逆境」も与えられます。そうであるならば、その逆境も含め、すべてが導かれているということに、気がつくはずです。
すなわち、人生で起こる様々な出来事のうち、「幸運に見える出来事」だけが導かれたものではないからです。「不運に見える出来事」もまた、やはり、導かれているのだということに気がつくでしょう。そして、そのことに気づくと、人生における「不運に見える出来事」や「不幸に見える出来事」にも、深い意味があることに気がつくはずです。
この「第二の覚悟」は、大切な覚悟です。この「人生で起こること、すべて、深い意味がある」という覚悟を定めないと、我々の人生観は、浅薄なものになってしまいます。「どうすれば、幸運な出来事や幸福な出来事だけで、人生を生きていけるか」と考え、「不運な出来事」や「不幸な出来事」が起きると、すぐに落胆してしまう。それでは、偶然のように見える出来事に振り回される生き方になってしまいます。
もとより、「幸運な出来事」が起きれば、当然、有り難いと思い、感謝の心を抱くべきでしょう。では、「不運に見える出来事」が起きたとき、どう処すべきか。人間であるかぎり、その出来事が起こった当初は、落ち込むことがあってもいいでしょう。しかし、いずれ、まもなく、心が立ち直るようであってほしい。
そのためには、その「不運に見える出来事」を、次のように受け止めることです。
「たしかに、こうした出来事を望んでいたわけではない。また、周りの人々は、この出来事を、不運な出来事だと言う。しかし、本当はそうではない。この出来事は、深い意味があって、今の自分に与えられた出来事だ。そうであるならば、この出来事から、その意味を学ぼう。大切なことを学ぼう。今、この出来事は自分に何を教えようとしているのか。自分に何を学べと言っているのか。自分に何を掴めと言っているのか。自分に何を伝えようとしているのか。そのことを真摯に学ぼう」
そう覚悟を定め、受け止めて頂きたいのです。

そして、この受け止めを、私は、「解釈力」と呼んでいます。これは文字通り、「人生で起こった出来事の意味を解釈する力」のことですが、この力は、人生を拓くために最も大切な力の一つです。
特に、経営者やリーダーたるもの、会社やチーム全体が苦境に陥ったとき、誰もが落胆するとき、社員やメンバーの誰よりも早く心が立ち直り、この「解釈力」を発揮できるようでなければならない。そして、社員やメンバーに対して、こう語れるようでなければならない。
「たしかに、この出来事は、残念な出来事だ。しかし、今、この出来事が与えられたのには、大切な意味がある。そうであるならば、今、その意味が何であるかを考えよう。この出来事から大切なことを学ぼう。この敗北から、この失敗から、この挫折から、大切なことを学び、成長していこう。この出来事は、そのために天が我々に与えてくれたのだから」
もし、皆さんが、逆境にあって、苦境にあって、そう言い切ることができる経営者やリーダーであるならば、皆さんはすでに素晴らしい経営者であり、リーダーであると思います。

例えば、私が若い頃、深い共感を覚えた一つのエピソードがあります。それは、大相撲の世界の話ですが、昔、ある大関が絶好調のとき、膝の故障で長期休場を余儀なくされたのです。それは、誰が見ても「不運な出来事」でした。しかし、この大関、その後、復帰してきて、再び素晴らしい活躍をしました。
この大関が引退した後、親方になってから受けた、あるインタビューで、「長期休場を余儀なくされた、あの挫折は、大変辛い体験ではなかったですか」と聞かれ、なんと答えたか。この親方、こう言われたのです。
「あれは、天が与えた故障だったのです。あの頃の私は、絶好調の自分に慢心していました。だから私は、あのとき、あの挫折を体験しなければならなかったのです。そして、あの挫折によって、私は大切なことを学ばせて頂きました」
見事な「解釈力」です。もし、この親方が、浅薄な人生観しか持たなかったならば、「あのとき、あの故障がなければ、さらに何勝も挙げることが出来て、優勝もできたのですが・・・」と答えるでしょう。しかし、もし、この大関が、そういう了見であれば、復帰後に、あれほどの活躍をすることはできなかったでしょう。
我々の人生における、苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故は、いずれ、「大いなる何か」が、我々を育てるために与えるものです。その意味で、この大関のエピソードは、深い感銘を受けます。

もう一つ、さらに深い感銘を受けるエピソードがあります。あるとき、ある男性が、アメリカに出張中に酷い交通事故に遭ったのです。車を運転中、一瞬の不注意から大事故を起こしてしまい、病院に担ぎ込まれたのです。そして、意識不明の重体から目が覚めると、左足切断という現実を目の当たりにしました。
この男性、一瞬の不注意で人生を棒に振ってしまったと思い、悲嘆のどん底にいました。しかし、日本からその病院に駆けつけた奥さん、病室に入るなり旦那さんを抱き締め、何と言ったか。
「あなた、良かったわね!命は助かった!右足は残ったじゃない!」
この奥さん、見事です。この人生の「解釈力」。この極限の場面で、起こった出来事を、どう解釈するか。「ああ、一瞬の不注意で左足を失い、人生を棒に振ってしまった!」と思うのか、「命は助かった!右足は残った!有り難い!」と思うのか。この「解釈力」の差は、人生を、大きく分けます。
皆さん、人間の「真の強さ」とは、一体、何でしょうか。それは、究極、この「解釈力」ではないでしょうか。
何が起こったか。それが人生を分けるのではない。
起こったことを、どう解釈するか。それが人生を分ける。
それが、人生の真実ではないでしょうか。
皆さんも、ご自身の人生を振り返るならば、これまでに色々な逆境を体験されてきたと思います。では、そのとき、その逆境を、どのような「解釈力」で乗り越えてきたか、振り返ってみて頂きたい。そして、これからも、皆さんの志が高ければ高いほど、様々な苦労や困難、失敗や敗北、そして、挫折に直面されるでしょう。そのとき、この「解釈力」という言葉を思い出して頂きたい。そして、「人生で起こること、すべて、深い意味がある」ということを、思い起こして頂きたい。それが、「第二の覚悟」です。

人生における問題、すべて、自分に原因がある
しかし、この「解釈力」を正しく発揮するためには、もう一つ、心に定めるべき大切な覚悟があります。それは、「人生における問題、すべて、自分に原因がある」という覚悟、「第三の覚悟」です。この覚悟を定めることができるかどうかが、大きな分かれ道です。
では、なぜ、この覚悟が大切か。実は、「解釈力」と言っても、目の前に与えられた逆境の「意味」は、いかようにも解釈できるのです。
例えば、仕事において、あるトラブルが生じたとします。そのとき、「これは、当社の組織に問題があるということを教えてくれている」と解釈する。それも解釈です。また、「この出来事は、あの上司に問題があるということを教えてくれている」と解釈する。これも解釈です。
しかし、こうした「自分以外に責任を問う」「自分以外に責任を押し付ける」という「他責」の解釈をしている限り、人間として成長できないのです。そして、道も拓けない。運気を引き寄せることもないのです。
逆に、そうした「他責」の姿勢ではなく、「起こること、すべて自分に原因がある」という「自責」の解釈をすると、人間的に成長できるだけでなく、なぜか、運気も引き寄せるのです。

例えば、元サッカー日本代表監督の岡田武史さん。この方が横浜F・マリノスの監督だったとき、審判の明らかな誤審で試合を失ったことがあります。テレビのリプレイを見ても、明らかに審判の誤りだった。しかし、判定は覆らない。その試合の後、インタビュアーに「審判の誤審で負けましたね」と聞かれた。インタビュアーは、岡田監督から愚痴の一つも聞こうとした場面でした。
ところが、そこで岡田監督は、感情的になることもなく、堂々と、こう言いました。
「ええ、審判も人間ですから誤審をすることはあるでしょう。でも、我々は、それも含めて勝たなければならないんです」。
岡田監督は、堂々とそう言った。日本には、昔から、「運も実力のうち」という言葉がありますが、「それも含めて勝たなければならない」と、敗北を自分の責任として受け止める姿勢、それが、岡田武史というリーダーに、いつも強運をもたらしているのでしょう。

そもそも、我々が問題に直面し、「自分の責任ではない。誰かの責任だ」と思うときは、多くの場合、我々の心の中で「小さなエゴ」が動いています。そして、その「小さなエゴ」が動いているときは、必ず、「解釈」を誤ります。例えば、感情的になっているとき、誰かを非難する思いが強いとき、自己弁護の思いが強いとき、こういうときは、必ず「解釈」が歪みます。「解釈」が濁ります。そして、そのとき、「大いなる何か」が、我々に手を差し伸べることはないのです。
そうであるならば、皆さん、ご自身の心の中にある「小さなエゴ」の動きは見えているでしょうか。「小さなエゴ」は、誰の心の中にもあります。私の心の中にもあります。そして、この「小さなエゴ」は、消そうとしても、消えるものではありません。捨てようとしても、捨てられるものではありません。それは、生涯つき合っていくべきものです。
よく、「我欲を捨てる」という言葉や、「私心を去る」といった言葉を簡単に言われる方がいますが、実は、人間の心は、それほど簡単ではないのです。心の中の「小さなエゴ」は、「捨てた」と思っても、それは、単なる錯覚か、思い込みであり、実は、心の奥深くに隠れているだけなのです。それゆえ、何かの拍子に、容易に、また表に現れてくるのです。
だから、自分の心の中の「小さなエゴ」とは、生涯つき合う覚悟を定めた方が良い。むしろ、捨てたつもりになっていることが、危ない。「自分は我欲を捨てた」と思っても、ただ、そう思い込んでいるだけであり、心の中で抑圧した「小さなエゴ」は、別のところで必ず鎌首をもたげるのです。それが人間の心の姿です。

だからこそ、宗教的に深い境涯にまで行かれた人物、例えば、親鸞のような人物は、その境涯に至ってなお、あの言葉を残すわけです。「心は蛇蝎のごとくなり」。自分の心は、ヘビやサソリのごとくだ、と。たしかに、誰であろうとも、自分の心を深く見つめると、そこには、「小さなエゴ」の蠢きがある。衝動がある。思わず怒りに駆られる瞬間も、人を妬む瞬間も、恨む瞬間もある。それが、人間の自然な姿ではないでしょうか。
そして、こうした指摘は、決して親鸞だけではない。昔から、真の宗教家は、この「小さなエゴ」の問題を鋭く指摘しています。「小さなエゴ」を捨てたつもりになって幻想に入るべきではない。それ自身が、「小さなエゴ」の擬態であると。
では、どのようにして、その「小さなエゴ」に処すればよいのか。それを捨てたつもりになって抑圧しても、一度、心の表面から隠れるだけで、また、すぐに鎌首をもたげてくる。その「小さなエゴ」に、どう処すればよいのか。
実は、そのための方法は、ただ一つです。
「心の中のエゴを、ただ静かに見つめること。否定も肯定もせず、ただ静かに見つめること」。
それが唯一の方法です。

例えば、自分の中に怒りが湧き上がってきたとき、「ああ、自分は、今、目の前のこの人物に強い怒りを感じている・・・」と、静かに自分の心を見つめることです。例えば、自分の中で嫉妬の心が動くとき、「ああ、自分はやはり生身の人間だ。今、嫉妬の心が動いている」と見つめることです。
こうした修行を続けていると、いつか、「自分を静かに見つめる、もう一人の自分」が、心の中に生まれてきます。そして、「成熟」という言葉の本当の意味は、心の中に、この「もう一人の自分」が生まれてくることなのです。
それゆえ、精神の成熟した人物は、例えば、数分前のことでも、「先ほどは申し訳ない。私も少し感情的になりました・・・」といったことを謙虚に言えます。自分の心の中の「小さなエゴ」の動きを、一度、冷静になって見つめ、そうしたことを言えるというのは、「成熟した精神」の証でしょう。
一方、人間として未熟な人物には、周りから、なかなか厳しい言葉が語られます。「あの人は、自分が見えていない」。すなわち、自分の心の中の「小さなエゴ」の蠢きや衝動が、今、自分にどのような感情をもたらしているかが、見えていないのです。
しかし、自分の心の中に、「小さなエゴ」の蠢きや衝動を静かに見つめる「もう一人の自分」が生まれてくると、自然に、先ほど述べた「人生における問題、すべて、自分に原因がある」という覚悟が掴めるようになってきます。そして、その覚悟を掴むと、人生というのは、ずいぶん目の前が開けていきます。
ただ、こうした話は、「頭」で理解するのは簡単です。「知識」として理解するのは簡単です。優秀な人であれば、話を聴き終わった後に、「3番目の覚悟は」と聞かれて、「○○です」と答えることは簡単です。しかし、この覚悟を、体験を通じた「智恵」として掴むことは、決して容易ではない。その覚悟を、本当に腹に刻むこと、心に刻むことは、容易ではない。
それを掴むには、「行ずる」しかない。日々の仕事や生活の中で、実践するしかない。だから、「修行」をすることが大切なのです。そして、修行というものは、3日や3ヶ月で終わるものではありません。どれほど短くても、3年、修行を続けることです。行じ続けることです。そのとき、ようやく見えてくる世界があるのです。
しかし、今の世の中には、「いかに手っ取り早く」「いかに苦労せず」「いかに楽をして」という発想がはびこっています。書店に行けば、そのような本ばかりが溢れている。だから、我々は「堪え性」がなくなる。本当に大切なことは、簡単には身につかない。しかし、3年、腹を据えて修行をすれば、素晴らしい何かが掴めるにも関わらず、それができない。油断をすれば、我々は、そうした「堪え性」のない人間になってしまうのです。
だから、皆さんには、一つの覚悟を定めて頂きたい。「3年でも、5年でも、修行をしよう。いや、修行とは本来、生涯をかけ、命尽きるまで続けていくべきものだ」という、その覚悟を定めて頂きたいのです。もし、この場に集まられた1400名の方々が、その覚悟を定められたならば、我々の想像を超えた素晴らしいことが起こります。

今日の講演で皆さんにお伝えしたいことは、「逆境を越え、人生を拓く5つの覚悟」についてです。では、私はどこで、この「5つの覚悟」を学んだのか。もとより、あの禅寺で、何か一つひとつ教えて頂いたわけではありません。あの禅寺で禅師より教えられた、「今を生き切れ!」という一言だけを携えて東京に戻り、仕事の世界に戻ってみると、色々なものがすべて深い学びだったのです。
例えば、ある上司がいました。その方はクリスチャンであり、非常に深い宗教的な情操を持っている物静かな上司でしたが、その上司が、あるとき、私を食事に誘ってくれたのです。静かなレストランで食事をして、最後にコーヒーを飲んでいるとき、その上司が、自身に語りかけるように、呟いたのです。
「仕事をしていると、毎日、色々なトラブルがあるのだね。そうしたトラブルが起こるたびに、この会社の組織に問題がある、あの上司に問題がある、あの部下に問題があると思うんだね・・・。しかし、家に帰って一人静かに考えていると、いつも同じ結論に辿り着く。『ああ、自分に原因があった』。いつも、その結論に辿り着くのだね」
私は、その話を聞いたとき、最初、「なんと謙虚な人なのだろう」と思ったのですが、その会食の帰り道、ふと気がつきました。「ああ、あの上司は、自分のことを語る姿を通じて、私に、大切なことを教えてくれていたんだ」と気がついたのです。
当時の私は、あるプロジェクトのリーダーとして、毎日起こる様々なトラブルを前に、心の中で苛立ちを抑えきれなかったのでしょう。そのため、口に出さずとも、どこか周りを非難するような雰囲気が表れていたのでしょう。その私の姿を見て、この上司は、静かに自身を語る言葉を通じて、大切なことを教えてくれたのです。そのお陰で、私もその日から、「すべてのことは、究極、自分に原因がある」と思い定める修行を始めました。
しかし、これは決して「自分が悪い」という意味で申し上げているのではありません。これは臨床心理学の世界で語られる「引き受け」という心の姿勢の大切さを申し上げているのです。

以前、臨床心理学の河合隼雄先生と対談をさせて頂いたことがありますが、カウンセリングでは、クライアントの方が立ち直って成長していくとき、必ず、この「引き受け」という心の姿勢に転換されるということを述べられていました。
すなわち、クライアントの方が癒されていくときには、必ず、心の中で、この「引き受け」が起こっているのです。例えば、「長年、親父のことを鬼だと思っていたのですが、実は、私は親父にずいぶん助けてもらっていたのですね・・・」などと語り、自分で問題の原因を引き受けるようになるのです。逆に、人生で与えられた問題について、誰かを非難したり、攻撃している限り、実はその方が救われないのです。
そして、これは、臨床心理学やカウンセリングだけの問題ではありません。我々の人生には色々なことがありますが、最初は、誰もが、自分以外に原因を見つけ、批判したり、非難をする傾向があります。しかし、それでは問題が解決せず、壁に突き当たり、悩み、最後に、「いや、これは自分が引き受けるべき問題だ。自分が成長することによって、この問題を乗り越えていこう」と思った瞬間、不思議なほど、目の前の風景が変わり、なぜか物事が好転し始めるのです。
なぜ、こうした不思議なことが起こるのか、科学的には証明できません。しかし、私自身、問題に直面したとき、こうした「引き受け」の心の姿勢に転換した瞬間に、色々な物事が不思議なほど好転し始めることを、これまで何度も体験してきました。
そして、こうした体験は、私だけではありません。私は、しばしば中小企業の経営者の方々に講演をさせて頂くことがありますが、こうした「引き受け」と「問題好転」の話をすると、経営者の方々は、皆さん頷かれます。自分の心が「引き受け」の姿勢に変わった瞬間に、なぜか、もうどうしようもないと思っていた目の前の問題が好転し始めたり、出口の無い状況が変わり始めたりする。そういう人生の不思議を、皆さん、体験されているのですね。
実際、今、この会場にも頷かれている方が何人もいらっしゃいます。皆さんの中にも、こうしたことを体験された方いらっしゃるのでしょう。そして、この「引き受け」ができるという心の強さが、実は、「魂の強さ」と呼ぶべきものなのです。

例えば、あるプロジェクトのリーダーである田中さん。そのプロジェクトメンバーの一人である鈴木さんが犯したミスによって大きなトラブルに直面した。上司は、鈴木さんに非があると分かったうえで、「田中さん、今回のトラブルの原因は、鈴木さんかな?」と聞く。すると、「いや、鈴木さんに対する私の指導が甘かったのです。私の責任です。申し訳ありません」と言う。そういう「引き受け」をするタイプのリーダーがいます。
もちろん、別のタイプのリーダーもいます。「そうなんです。前から鈴木さんは、仕事のやり方が甘いんです。だから、こうしたトラブルが起こったのです」と言うタイプです。こう言いたくなるリーダーの気持ちは分かるのですが、やはり、一人のプロフェッショナルとして、そして、一人の人間として成長していくのは、明らかに前者のタイプです。なぜなら、前者のタイプのリーダーは、「魂が強い」からです。こういうリーダーは、見事なほど、成長していきます。

大いなる何かが、自分を育てようとしている
では、その「魂の強さ」は、どうすれば身につくのか。もとより、そこに、簡単な方法はありません。やはり、3年、5年、あるいは10年の修行が必要ですが、その修行のために必要な覚悟を申し上げれば、「大いなる何かが、自分を育てようとしている」という覚悟、その「第四の覚悟」を定めることです。
人生において、一度、この覚悟を定めると強いですね。なぜなら、この覚悟の根本にあるのは「逆境観」だからです。人生において与えられる苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、ときに病気や事故。そうした「逆境」というものをどう捉えるかという「逆境観」。それを、どう定めるかによって、人間の強さが全く違ってくるのです。
ただ、もともと日本人は、「逆境」というものを否定的に捉えません。戦国武将、山中鹿之介の有名な言葉があります。「我に七難八苦を与えよ」という言葉です。正直に申し上げて、私は若い頃、この言葉には、あまり共感できませんでした。しかし、67年も人生を生きてくると、この言葉の深い意味が本当によく分かります。
世の中には、「艱難、汝を玉にす」という言葉もありますが、この言葉の根本にある思想は、「逆境とは、人間を成長させるために、天が与えたものである」という思想です。「可愛い子には旅をさせよ」や「若い頃の苦労は買ってでもせよ」という言葉も、やはり、「逆境」や「苦労」というものを否定的に捉えず、人間の成長にとって必要なものであるとの思想を語っています。このように、もともと日本人は、素晴らしい「逆境観」を持っているのです。

従って、我々が、本当に人間として成長し、成熟していこうと思うならば、やはり、「苦労や困難」「七難八苦」「艱難辛苦」といったものを体験する必要があるのです。逆に言えば、ある程度の年齢になって、それまで、あまり苦労をしてこなかった人は、顔を見ただけで分かってしまう。本人は気がついていないのですが、ある年齢になるまでに、するべき苦労をしてこなかった甘さが、顔に表れてしまうのです。そして、どこか人間としての軽さが、伝わってしまうのです。
だから、皆さんも、臆することなく、人生で与えられる苦労や困難、失敗や敗北などの逆境に正対し、3年、5年、10年の修行をされることを願います。ただ、先ほど申し上げたように、最近の日本には、「いかに手っ取り早く」「いかに苦労せず」「いかに楽をして」といった思想が溢れています。それが、近年の我が国で、重量感のあるリーダーが育ってこない理由かと思います。
されば、皆さんには、人生で与えられる逆境を糧として逞しく成長し、いずれ、重量感のある堂々たるリーダーへの道を歩んで頂きたい。そのためには、これからの人生において、壁に突き当たったとき、逆境に直面したとき、必ず、思い起こして頂きたい。
その逆境は、大いなる何かが、皆さんを育てようとして与えたものです。
そうであるならば、今、目の前にある逆境は、天が皆さんに与えた「最高の成長の機会」なのです。
従って、皆さんには、「第四の覚悟」を定めて頂きたい。「大いなる何かが、自分を育てようとしている」という覚悟です。その覚悟を定めた瞬間に、皆さんの目の前の風景が、全く違って見えてきます。目の前の逆境の意味が、全く違って見えてきます。
そのとき、皆さんは、人間としての「最高の強さ」を身につけている自分に気がつくでしょう。

逆境を越える叡智は、すべて、与えられる
そして、この「大いなる何かが、自分を育てようとしている」という覚悟を定めることができたならば、最後に定めるべきは、「第五の覚悟」、すなわち、「逆境を越える叡智は、すべて、与えられる」という覚悟です。
なぜ、この覚悟の大切さを申し上げるのか。私自身、このことを何度も体験させて頂いているからです。
あの禅寺で、何かを掴み、戻ってきた後も、病気の症状は10年を越えて続きました。また、この病気以外にも、色々な逆境を与えられました。その中には、別な形での「生死の境」という逆境もありました。しかし、それらの逆境を前にしても、ここまで申し上げた四つの覚悟を定め、静かな心境で目の前の逆境を見つめていると、不思議なほど、その逆境にどう処すべきか、直観的な叡智が降りてくるのです。心の奥深くから沸き上がってくると言ってもいい。
それは、まさに不思議なほどです。逆境を前に、「そうだ、この方向に進んでみよう」「ああ、この道がある」といった形で、何かの叡智が降りてくる。湧き上がってくる。それは、決して「具体的な解決策」といった安易な意味のものではありません。もっと深い意味で、「なぜか、あの人に会ってみようという気がした」「なぜか、この場所を訪れてみようと思った」といったものです。しかし、そうして、その人に会ってみたり、その場所に行ってみると、そこに、その逆境を越えていくための、何かの深い示唆があったりするのです。

いま申し上げたのは、何かの不思議な「直観」が働くということですが、もう一つ、不思議な「予感」が与えられることもあります。今日は時間も限られているので、詳しく申し上げられないのですが、私は、35年前に大病を与えられ、「今を生き切る」という生き方を身につけてから、なぜか、不思議なほどに「未来の記憶」とでも呼ぶべきものを感じるようになりました。なぜか、あるとき、ふっと感じたことが、後に、「ああ、あのとき感じた予感は、このことだったのか」と思う経験が増えました。未来にやってくる何かを予感することが増えたのです。
この不思議な「直観」や「予感」。おそらく、この会場にも、そうした体験を持つ方が何人もいらっしゃるのではないでしょうか。この話を聴かれて、いま、会場では何人も頷かれていますので。

もとより、人間の「心の世界」というものは、いまだ解き明かされていません。どれほど科学技術が発達しようと、どれほど人工知能革命が進もうと、人間の「心の世界」の不思議さを解き明かすことはできないでしょう。
例えば、分析心理学の創始者、カール・グスタフ・ユングが語った「集合的無意識」というものの存在は、誰も証明できないのです。しかし、仏教の世界では昔から、「阿頼耶識」という言葉で、その存在が語られてきました。そして、人間の心は深い所でつながっていると考えざるを得ない現象を、古来、多くの人々が経験しています。
例えば、ふとした瞬間に誰かの視線を感じ、その方向を見ると、実際、誰かが自分を見つめている。そうした経験は、誰もが持っているでしょう。また、例えば、あるとき、ある人物のことが心に浮かんでくる。その瞬間、不思議なことに、その人物本人から電話がかかってくる。そうした経験を持つ人も、少なくないでしょう。
こうした不思議な世界について語るのは、決して、怪しげな神秘主義を主張したいわけではありません。ただ、私のような科学者としての教育を受け、唯物論的な思想を身につけて歩んできた人間でも、その人生において、決して否定できない、不思議な体験が与えられるということを申し上げたいのです。
ただし、そうした体験の多くは、ここまで申し上げた、「今を生き切る」「今日という一日を精一杯に生きる」という修行を続けていると、自然に与えられようになったのです。それは、私という人間が特殊なのではなく、皆さんも、「今を生き切る」という生き方を、日々行ずるならば、必ず、様々な形で「直観」や「予感」が湧き上がるようになります。また、逆境に直面したときも、その逆境を越える叡智が、不思議な形で与えられるようになります。

しかし、今日の講演は、そうした話をすることが主題ではありません。また、そうした話をする時間もありません。もし、皆さんが、こうしたことに興味を持たれるならば、この講演の演題と同じタイトルの近著、『すべては導かれている』において、詳しく書きましたので、そちらを参考にしてください。この著書では、直観、予感、シンクロニシティ(共時性)、コンステレーション(布置)、そして運気について語り、なぜ、そうした形で、叡智が与えられるのか、なぜ、我々の人生では、そうした現象が起こるのかについても述べています。

自分の命を何に使うか
もう一度申し上げますが、こうした不思議な体験を持つのは、決して私だけではありません。例えば、ある新聞に『私の履歴書』という連載があります。これは、政治家や経営者、学者や文化人、芸術家やスポーツ選手など、色々な分野で素晴らしい業績を残した「人生の成功者」と呼ばれる方々が、その人生を振り返って語る短い自伝です。
ところが、ある研究者が、この数々の自伝を分析したのです。そして、「人生の成功者と呼ばれる人物は、その人生を振り返ったとき、どのような言葉を最もよく使うのか」という研究をしたのです。
当初の予想は、人生の成功者は、その人生を振り返るとき、誰もが、「頑張って」「根性で」「諦めず」「粘り強く」といった言葉を最も多く使うのではと思われたのですが、その分析結果は予想とは全く違ったものでした。実際に最も頻繁に使われていた言葉は、「ふとしたことから」「たまたま」「折よく」「偶然」「運の良いことに」などの言葉でした。
この研究結果を見ると、見事な人生を歩まれた方々、素晴らしい仕事を残された方々は、どなたも「運が強い」と思われるかもしれません。しかしそれは、単に「持って生まれた星」といった話ではありません。
これらの方々の「運の強さ」と見えるものは、何気ない出来事の中に、人生を拓く鍵を鋭く感じ取る「直観」や「予感」の能力が引き寄せるものでしょう。そして、それは、言葉を換えれば、「大いなる何か」からの声を聴く能力によって支えられているのでしょう。

さて、もう時間も尽きました。最後にもう一度だけ申し上げたい。
もし、皆さんが、これからの人生において逆境に直面されたときには、思い出してください。「大いなる何か」が、皆さんを育てようとして、その逆境を与えている。その「大いなる何か」は、逆境を通じて皆さんを素晴らしい人物へと成長させようとしている。そして、その素晴らしい人物を通じて、世の中に素晴らしい仕事を残そうとしているのです。
そのことを信じ、「大いなる何か」に導かれた人生を、精一杯に生きようという覚悟、その覚悟を、昔から先人は、「使命感」と呼んできたのでしょう。
そうであるならば、これから皆さんには、その「使命感」を抱いて歩んで頂きたい。
そして、この「使命」という言葉は、素晴らしい言葉。なぜなら、「使命」という言葉は、「命」を「使」うと読めるからです。されば、皆さん、そのかけがえの無い命、何に使われますか。その覚悟を定め、歩んで頂きたい。

皆さん、いずれ、我々の人生は、一瞬。100年生きても、人生は一瞬。誰もが、その一瞬の人生を駆け抜けていく。私も気がつけば、瞬く間に67年の人生を駆け抜けてきました。そして、あと何年生かして頂くかは、すべて天の声。
されば、この一瞬の人生、精一杯に生き切りたいものです。
人生には、「三つの真実」があります。「人は必ず死ぬ」「人生は一回しかない」、そして、「人はいつ死ぬか分からない」。その三つです。
そうであるならば、必ず終わりがやってくるその命、一回しかないその命、いつ終わりがやってくるか分からないその命、皆さん、何に使われますか。
その覚悟こそが、「使命感」。
その「使命感」を大切に歩まれることを。
そして、「大いなる何か」に導かれた、素晴らしい人生を歩まれることを。
そのことを申し上げ、私の話の締めくくりとさせて頂きます。
皆さんの貴重な一時間を預けて頂いたこと、改めて、深くお礼を申し上げます。
有り難うございました。(会場拍手)