ファーストアセンショナーへの道/仏弟子の方法論その27 「私」の最適ポジションを決める
2021年5月7日

【はじめに】
イシュター・アンタレス著「意識の量子飛躍11:11アンタリオン転換」によると、イベント後にまずアセンションのファーストウェーブが起きるとされます。このアセンションのファーストウェーブを起こすには、アセンションへの準備が整っている1,000〜2,000人のボランティアが必要とされます。
当然、自らの内に大量のネガティブエネルギーを抱えている状況では、波動が重過ぎ、ファーストアセンションは困難です。自らの内のネガティブエネルギーを一掃し、光の存在としての準備が整っている必要があります。
ブッダは、自らの内のネガティブエネルギー(煩悩)を一掃して、悟りを得た存在(アセンデッドマスター)に至る方法を見出し、アセンデッドマスターとなりました。そして、悟りに至る道を体系化して、その方法論を仏弟子たちに伝えました。
本連載では、ファーストアセンショナーを目指す皆さんに、ミャンマーの仏弟子ウ・ジョーティカ氏が記述した悟りに至る方法を紹介し、皆さんの内のネガティブエネルギーを一掃するお手伝いをしたいと思います。

 

【第27回のテーマ】

「私」の最適ポジションを決めるです。以下に、ウ・ジョーティカ氏の文章を引用します。
 
質問です。あなたの担っている、最も大きな荷物はなんでしょう?思いつきますか?
私たちの担っている最も重い荷物は、「私」です。
だから私たちは瞑想において、存在するのは自然現象、つまり、純粋な精神的と物質的の現象だけだと観察することを、いちばん最初に学ぶのです。
一つの現象は精神的なもので、これは身体的もしくは物質的なもう一つの現象とは、全く別のものです。
最初の洞察智は、存在するのはただ現象だけであると観察すること。恒常的なものは何もなく、存在者もなく実体もなく、「私」もなく自我もなく人格もなくて、ただ純粋な現象だけがあると知ることです。この「私」というのは、心の創り出したものです。心は、己の重荷を自ら創り出す。この最初の段階の悟りによって、この私ー性という誤った見解(邪見)、有身見(うしんけん)が、すっかり根絶されます。
 (ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳「自由への旅「マインドフル瞑想」実践講義」の203~204頁から抜粋して引用) 

さて、この辺りから、ブッダとそのお弟子さんたちと私の見解が違ってきます。
私が感じたすべての虚妄を削ぎ落とした厳然たる事実。パラマッタ(勝義諦)で捉えた事実というのは、全ては量子現象としての波動なのではないかということです。波動の周波数はいろいろあります。一秒間に5回振動すると5ヘルツ、一秒間に1億回振動するならば1億ヘルツ。
それは数字であって、それ自体は善いも悪いもありません。仏教用語で言うならば不苦不楽です。
67万テラヘルツの周波数は、嗅覚細胞 - 脳神経系統に特異な解釈作用を発生させ、卵の腐った匂いという解釈を発生させます。そして、この卵の腐った匂いという解釈は、人間にはその匂いを発生する対象に不快のエネルギーを起こさせ、腐ったものが食べたくてしょうがないハゲタカには、快のエネルギーを起こさせる。
67万テラヘルツだと感じるのがパラマッタ(勝義諦)。卵の腐った匂いだと、嫌な匂いだと感じるのはパンニャッティ(世俗諦)。
67万テラヘルツは悪者でもなんでもなく、不快=苦の発生源は、まぎれもなく自分自身の解釈だと。
それで、この解釈の由来を集合無意識つまり、生物誕生以来、生物が生き残るために蓄積してきた体験と、それに対応してきた感情的記憶の集積だとしたのがカール・グスタフ・ユング。
幼少時に親から受けた愛情や虐待やネグレクトやしつけの無意識的記憶やトラウマが、解釈の元だと主張したのがジークムント・フロイト。
どちらか一方が正解というわけではないでしょう。解釈というのは、集合無意識と、幼少時の無意識的記憶やトラウマの両方が絡み合って執着的反応として固定されたものでしょう。
それで、ユングもフロイトも様々な精神的、肉体的不調に苦しむ患者本人が、その解釈に気がつけさせえすれば、患者がそのような不快な症状から治癒することを何度も経験しています。
ブッダのヴィパッサナー瞑想も、別名が気づきの瞑想で、悟りとは今まで気づかなかったことへの気づきなのです。そうすれば、苦しみから脱出できる。
この辺りまでは、仏弟子たちと私の見解は一致しています。

仏弟子たちと私で見解が異なるのは、ウ・ジョーティカさんが上の文章で紹介している、見解(邪見)と有身見(うしんけん)への態度です。
仏弟子たちも私も、「私という現象」の重心はもう肉体にはありません。大部分は肉体の外にあって、「肉体に固着した生物的な自我現象」と「対象」との間の相互作用をモニタリングしています。
でも、仏弟子は肉体を愛していません。肉体をどこか軽蔑しています。肉体を愛していないので、肉体には執着していません。肉体とはほとんど繋がっていない。
私もかつてはそうでした。でも、その状態は、決して幸せだと感じなかったのです。常に心身の不調に悩まされた。精神的苦悩は全くないのですが、心身的不調つまり、肉体からのネガティブな呼び声はいつも鳴り止まなかったのです。法随観の状態では、それを直には感じないので、精神が肉体に隷属するということはありませんでしたが、肉体からの呼び声は決して私を、物質的身体とその他のボディの多次元的存在の私を楽にさせてはくれなかったのです。
ずっと私は分からなかった。いや、ブッダの見解が正しいと信じ切って、自分の感覚を無視していたのかもしれません。
でも、あるとき気づいたんです。私は肉体を無視している。肉体を愛していないと。肉体と繋がることによって戻ってくる“煩悩”、“苦しみ(ドゥッカ)”を恐れていたのです。
それで、肉体のありのままを抱きしめることにしたのです。肉体とともに生きることにしたのです。自分が思ったようには不自由ではありませんでした。肉体ですから、生物として生き残りをかけた戦いの記憶が刻みこまれています。ですから、所有欲や支配欲や名誉欲や死への恐怖は確かにあります。肉体とともに歩む限り、それは絶対ゼロにはなりません。ブッダの言う解脱の状態では断じてありません。まだ、煩悩が残った状態です。
でも、肉体のありのままを受け入れて抱きしめるという決断をし、肉体をいたわりながら生活しだした途端、今までの心身の不調はあっという間に消え去ったのです。そして、喜びが倍加しました。肉体から離れ切っている間は喜びというものがなかったのです。安らかではありましたけどね。
肉体を愛して、肉体と歩むと決めた途端、忘れていた素晴らしい喜びの感情が戻ってきたのです!

今の「私」は、肉体と肉体外の間を高速で移動して、半々ぐらい双方に存在しているような感じですかね。
この感じを体得すると、煩悩に隷属することはないのです。ほんの少しネガティブな感情が起きますが、すぐに気づいて消せるので問題なしです。
仏弟子たちから私の見解は、“邪見”だ“有身見”だと言われるでしょうが、それでもいいのです。

私は私で、自分が最もネガティブな感情が発しにくく、最大限ポジティブでいられる私独自のポジションを見つけたのです。

そして、この状態で人様に迷惑をかけることもありません。
ですから、他の人がなんと言おうとも、私にはこれがベストなので、このポジションを今のところは維持します。将来はまた、新たな気づきが起こって変わるかもしれませんが。
皆さんも、過去世の積み重ねは、私ともブッダとも違うはずです。各自、一番しっくりくるポジションがあるはずです。まずは、執着をはずさないと解釈を組み替えられないですから、執着をはずす訓練はブッダシステムの中で見いだすとして、どう人生を楽しむか?

ライトワーカーとしてどのように地球解放に協力するか?は、各自の思考パターンや行動パターンのありのままを観察しながら、自分独自の最適ポジションを見つけてみてください。
一旦、ブッダの瞑想により、肉体的束縛から脱出してしまえば、その後、肉体に再接続してもさほど問題は発生しません。すでに、肉体に固着した自我の観察法は身につけているので、肉体に自我が隷属して人生が振り回されることはありません。

肉体と肉体外の移動を繰り返しながら、最適のポジションを見つけてください。


by spiritual-lightさん

ファーストアセンショナーへの道 仏弟子の方法論その27 「私」の最適ポジションを決める

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※ 「仏弟子は肉体を愛していません。」

→ 仏陀の教えが、本当にそうだったのかどうかは判りません。これは、仏弟子たちが受け取った認識・解釈だったかもしれないと思っています。

 

※ 「自分独自の最適ポジションを見つけてみてください。」

→ これはそうだと思います。私にも、私なりの最適ポジションがあると感じています。