「いじめの被害」

 

今から20年くらい前に広島でいじめを受けて統合失調症になったという人が裁判を起こした。

裁判で立証するのは大変だろうとその時思った。

しかし、その裁判で原告は勝訴した。

当時の僕の主治医だったM先生に話したら「二審でひっくり返るだろう」とそっけない返事が返ってきた。

その後どうなったのか?

それ以上追いかけなかったのでどうなったかは分からない。

僕は自分のことをいじめがきっかけで統合失調症になったと思っている。

それは自分のことなので僕にしかわからない。

僕が当時、仮に裁判を起こそうと思っても協力してくれる医者も弁護士も学校の先生もTにはいなかっただろう。

僕が今日書きたいことはそのことではない。

「いじめの二次被害」のことだ。

 

「いじめの二次被害」

 

僕は中学校でいじめられて中学時代はそれに耐えて受験勉強して進学校のH高に入学した。

しかし、通学に乗る汽車で中学時代に僕をいじめていた人たちと同じ汽車になった。

僕はそのことが嫌で仕方なかった。

あんな奴らと1ミリも関わりたくなかった。

だが、いじめとはそんな甘いものではなかった。

彼らからすれば僕は折角手に入れた美味しいカモだったのだろう。

Sという奴は僕の評判を落とす噂を広めるのに必死だった。

H高の野球部のグランドは汽車が通る高架沿いにあったが汽車が高架を通るときSのアホは汽車の窓を開け、身を乗り出して「Tのあほう」と叫んでいたのを今でも覚えている。

僕が今書きたいのは中学時代いじめを受けた者が高校に入ってから同じ高校の人にどう思われるかということだ。

仮に、H高の誰かが僕に関心を持って「Tってどんなやつ?」と僕と同じI中に通っていた人に聞いたとしよう。

その人はこう言うだろう。

「あいつ、いじめられてたんだって」。

それを聞いて僕に関心を持った人は「あ、そう」と思うだろう。

それでおしまいだ。

僕に対する関心などはたちまち無くなるだろう。

僕がもし関心を持った人について同じことを誰かに聞いたとしたら僕も「あ、そう」と思うだろう。

そして、それでおしまい。

そのあと、その人には関心がなくなるだろう。

つまり、僕は中学時代にいじめられていたということで高校に上がっても誰からも正当な評価を受けなかったということだ。

それくらい過去に、中学時代にいじめを受けたという事実は根深い問題なのだ。

この事実に気づくのはおそらく僕と同じくいじめを受けた経験のある当事者だけだろう。僕はこのことに高校時代に気づいた。

僕はJ高に乗り込んであいつらを全員殴り殺してやろうか!と思った時もあった。

だが、「僕は地元で評判の良いH高であいつらは評判の悪いJ高校」という高校のヒエラルキーに従えばそんなことをするのは馬鹿馬鹿しいと思って僕はそれをやらなかった。

今思えば、いろんなものを失った今思えば、あの時あいつら全員を殴り殺していればよかったと本気で思う。

僕は高校2年の時、W病院に通うようになった。

僕自身は足が痛いときは整形外科、歯が痛いときは歯科にかかるのと同じで精神科にかかることは恥ずかしいことだと当時は思っていなかった。

しかし、今現在まで精神科に通院することになるとは当時は全く思っていなかった。

僕は自分の本当の病名も知らなかったし当時は風邪ぐらいに思っていた。

しかし、今も昔も精神科に対する差別があることは言うまでもない。

彼ら、僕を中学時代にいじめていた奴らはすぐ気づいただろう。

その時彼らはどう思ったか?

僕には想像がつく。

さぞ嬉しかっただろうなぁ!!

最高のカモを自分たちのテリトリーにまで引きずり下ろしたんだから!!

 

今更言うまでもないがいじめは伝播する。

誰かがいじめられればそれに同調していじめるものが必ず出てくる。

人は「こいつはいじめてもいい奴だ」と誰かが太鼓判を押せばいじめる生き物なのだ!!

僕は学校から帰りの汽車で他県からJ高に通っている生徒に無理やりタバコを吸うのを強要されたことがあった。

何よりその事実が証明している。

 

書き加えることがあったらまた書く。

今日はこの辺にしておく。

 

【高校時代】

 

僕は病気を発症してからは高校に通うだけで精一杯だった。

正確に書くと両親が共働きで両方とも市内に通勤する途中にH高があったので僕はその道中で車を降りて高校に通っていた。

授業に出る、正確には授業中教室にいるだけで精一杯だった。

当然、誰かと比べたことはなかったが成績も最下位だったと思う。

当時の病状を具体的に書くと「僕は黒板を見れなくなってしまった」。

この言葉だけで当時の僕の病状を的確に言い当てれる医師は少ないだろう。

ひょっとすると、これからそういう医師に会う可能性もあるかもしれないので、その時に出す問題にすることにしてここでは答えを書かないことにする。

高三の時だった。

僕は席替えである女子の隣になった。

僕が病気を発症したのは高二だったがそのクラスは男子ばっかりだった。

高三になって5人くらいの女子とクラスメートになった。

その女子はその5人の中の一人だった。

僕はその娘を可愛いと思ったわけではなく、まして好きになったわけではなかったのだけれど女子というだけでかなり意識した。

そういうことって意外と伝わるものらしく、その女子が友達の女子を自分の席に呼んで僕を指さし、

「この人、何様のつもりよ!」

と言った。

僕は額を机に押し付けて泣いた。

あんなに悲しくて、情けなかったのは中学時代にいじめを受けた以来の経験だった。

でも、その娘の名前も顔も忘れたが僕はその女子には恨みはない。

なぜなら、ほかの女子も同じことを思っても仕方がないと当時は思っていたからだった。

その女子とは卒業が近い頃にまた席が隣になったが「相変わらず気にしている」と僕のことを思ったのかどうかわからないけれど僕には気にかけていないように感じた。

高校には出たり出なかったり、遅刻する日が続いた。

高校の残り1か月、1日でも休んだら卒業させないと担任の先生から言われてからは死ぬ気で学校に通った。

僕は高校を卒業できなかったら高校をやめる気だった。

H高を中退したら僕をいじめたあのクズたちよりも社会的身分が下になってしまう!

そんなことは絶対に許されなかった!

みんなが受験期間に入った頃に僕のほか数名の生徒がH高の構内を清掃たり窓を拭いたりしてやっと高校を卒業させてもらった。

僕の病気に罹った者は大抵が通っている高校であったり大学であったり学校を中退するらしいから当時の僕はとても頑張った、と今の僕は思っている。

 

また書く。

 

【いじめの個人的考察】

 

ここでいじめる側の心理を考察してみよう。

いじめる側が密かに恐れていること。

それはいじめる側といじめられる側の立場が逆転することだ。

いじめる側が常に上でいじめられる側が常に下だと彼らは本気で思っている。

それが逆転することは彼らにとって怒りであり、恐怖なのだ。

だから、僕がX大学に入ったことを彼らが知った時、彼らはさぞビビったことだろう。

その時が僕と彼らの立場が逆転した瞬間だったのだろう。

そして、僕がその大学をやめたと知った時、彼らは心から安堵したことだろう。

だが、彼らは骨の髄までアホだからそんな脅威は感じなかったかもしれない。

いじめる側にとってはいじめられる側が何者に成ろうが全く関係なく、ずっといじめの対象であることに何ら変わりはないのだ。

いじめる側はまるで神が彼らにだけ許した特権であるかのように本気でそう思っているのだ。

そして、いじめる側だけがそう盲信しているにすぎないのだが、自分たちといじめられる側の立場は永遠に逆転することなどないのだ。

そう!

彼らは骨の髄から髄までアホなのだ!

アホは何にも変わらないし、正確に表現するとアホは何にも変われないのだ。

 

【浪人時代】

 

高校を卒業し、僕は大学浪人することになった。

僕は病気が原因で専攻科に通えなかったので家で勉強していた。

すると、夜になるとクラクションの音がよく聞こえることに気づいた。

僕が以前住んでいた家は道路と線路の交差点にあった。

踏切の前で一時停止した車がクラクションを鳴らすこともあれば、一時停止もせずにクラクションだけ鳴らして走り去る車もあった。

僕は耳がいいのでそのことは音でわかった。

僕は何かな?と初めは思っていたがクラクションを鳴らす人物を想像したら合点がいった。

僕が過去に出会った僕をいじめた側の奴らが鳴らしているのだと勘づいた。

つまり僕は高校を卒業してからもI中で僕をいじめていた奴らにまたいじめられ始めたのだった。

クラクションとは悪意を持って使えば十分いじめの武器になるとその時わかった。

その音に頻繁に勉強の邪魔をされたことは言うまでもない。

あんな環境でよく勉強できたなと今にして思えばそう思う。

あの頃には数学者になりたいという夢があったから勉強を頑張れたんだと思う。

今から10年位前だったが、明石家さんまさんの「ホンマでっか!?TV」で識者が「男が一番飛び起きる音は車のクラクションで女は子供の泣き声だ」と言ったのを聞いて僕は納得した。

クラクションは言うまでもなく子供でも女でも鳴らせる。

僕は誰が鳴らしていたかは特定できなかったし、それをしようと思わなかった。

暑い中や寒い中に踏切の前で張り込む気にはどうしてもならなった。

それをすると僕は自分の頭がおかしいという証明をするような気がした。

証拠を取るにも当時はビデオカメラなんか珍しい商品だったし高価だったので持っていなかった。

とにかくそんな時間があったら勉強したかった。

僕にとって車のクラクションは「音の凶器」だった。

そしてそれは今も変わりない。

当時の僕の精神的苦痛などわかる人物はいないだろう。

いじめに終わりはないんだとあの時思った。

そして、彼らは僕が死ぬまで僕をいじめ続けるだろうと悟った。

T県にはいたくない。

絶対に県外に出ると心に誓った。

大学浪人の頃もW病院の精神科にかかっていた。

当時の僕の病名はノイローゼだった。

大学に入って東京のM病院に紹介状を書いてもらってそれを持ってM病院にかかった時に「何と書いてありますか?」と聞いたら「ノイローゼだ」と言われた。

僕は自分の病気がノイローゼ程度なら大学に入っても何とかなると思っていた。

僕はノイローゼを「心の風邪」程度に思っていた。

しかし、大学の学生相談室から紹介されたSクリニックで僕は「精神分裂病」だという診断を受けた。

そのことはまた後で書く。

 

中学時代からずっといじめられて僕は精神病になった。

そして、僕をいじめる人物はたしかに替わったかもしれないがいじめは今でも現実にずっと続いている。

 

【大学時代】

 

僕は大学受験に成功して意中のX大学に入学した。

進学先に選んだのは数学科だった。

大学浪人してから数学が好きになった。

将来は中学・高校の教員以外のアカデミックな場所に就職して数学でご飯が食べれる生活がしたいと思っていた。

しかし、率直に言って大学の数学はとても難しかった。

それは僕にとってだけでなく大学で数学を学ぶ大抵の者にとって大学数学は難しいらしい。

僕は病気だったから大学数学ができなかったと言い訳するつもりはない。

大学数学を学ぶ者にとって大学数学は等しく難解なのだ。

そのことはYouTubeを見るようになってから数学系YouTubeを何度も見たからよくわかった。

ただ、病気ではなかったら大学をやめるという最悪の選択はしなかっただろう。

 

X大学。

立派な大学だった。

ただ、これは僕が病気の真っただ中だったからかどうかわからないが、「謎の女子二人組」に数学の授業以外でつきまとわれている気がした。

その二人組は数学科の学生ではなかったと記憶している。

数学以外の授業に出た時や学食で一人ご飯を食べていた時など、謎の女子二人組につきまとわれている気がした。

それは僕が病気だったからだと言われても否定する気はない。

それくらい当時の僕の病状はひどかった。

あの女子二人組の存在は今も謎のままだ。

本当にいたのか?それとも僕のいわゆる「幻覚」という症状だったのか?

僕にはわからない。

 

数学はわからないし、大学に行ったら同世代の若者がたくさんいるから緊張するので僕はアパートに引きこもり状態になってしまった。

そんな時、大学のルームの先生が僕のアパートにまで来てくださった。

先生と少し話して僕はどうしても独力ではわからない「ε-δ論法」について質問した。

すると先生は「私(先生)の大学の1年生でわかる者はいない」と言われた。

僕はそんなに難しいのかと愕然とした。

先生に学生相談室に行くことを勧められて数日後に行った。

学生相談室の職員は「数学科には多いんだよね」とか言っていた。

僕は近くにある「Sクリニック」を紹介された。

Sクリニックの先生は女医さんだった。

後で本を執筆されるような先生だと知った。

家の者が図書館で借りてきた本にたまたまS先生の書いた本があった。

それと、Sクリニックは診察代が高かった。

Sクリニックに通っているうちに大学は夏休みに入った。

僕はTに帰省することにした。

アパートには冷風機が部屋に備え付けてあってそれが寒いくらい効いていたので東京にいてもよかったが家の者が帰れとうるさいので帰省した。

家に帰って僕はゲームばかりしていた。

X大学から学生名簿が届いていて姉がそれを熱心に見ていた。

姉は「すごい!すごい!」と言っていた。

僕も読んだが父兄の就いている仕事を見ると聞いたことのある一流企業が多かった。

僕も自分の入った大学ではあるがすごいと思った。

 

9月になってからだっただろうか?

東京へ戻り両親とSクリニックへ行った。

最初に僕が診察を受けてS先生に「将来は数学者になりたい」と僕の夢を語った。

それから両親だけが診察室に入った。

最後に僕と両親が診察室に入った。

その時のS先生の態度は明らかに違っていた。

僕が処方された薬を飲んでいないことを両親から聞いたからだと僕はすぐわかった。

S先生から僕の病気は「精神分裂病」だと告知された。

 

「精神が分裂?そんなにひどい病気なのか?そんなに重症なのか?」

 

とその時思った。

そして、S先生から東京にあるA病院に入院することを勧められた。

そして、その病院に入院してそこからX大学に通うようにとS先生に言われた。

僕は大学の前期に不登校になったので単位が足りないから留年することは確定していた。アパートを引き払ってからA病院に行くことになった。

初めて目にした精神病院の内部、それは僕にはものすごく異様に見えた。

一見して変な人が多かった。

僕はすぐにこの病院が嫌になった。

「ここから大学に通うのか?僕にできるだろうか?」そう思った。

この病院では午後4時半から5時くらいが夕食に時間で僕が大学から帰宅する予定の時間をとっくに過ぎているのだが、僕は冷めた料理を食べさせられることになっていた。

「冷めた料理を食べさせる気か!」

と思ったが僕には抗う元気が全くなくなっていた。

1,2週間入院してA病院の先生から大学に通うにはまだ時間があるからその間、実家に帰っていてはどうか?と言われて僕はそうすることにした。

実家に帰ってからTVで湾岸戦争のニュースをなんとなく見ていた。

「僕はこれからどうなるのだろう?」。

僕にはA病院から大学へ通う以外に選択肢はなかった。

 

【再入院】

 

翌年、春になって上京し、A病院に再び入院した。

病院に対する違和感は以前と変わりなかった。

以前、同じ病室にいたおじいさんが亡くなったそうで僕のベッドはそのおじいさんと同じ場所だった。

僕は大学への復学の手続きをしにX大学へ向かった。

大学構内の桜でむせ返るほどの道を通って学生部のあるところに向かった。

僕はその時、復学の手続きをし終えたと思う。

でも、間もなくしてX大学と精神病院を毎日往復するのはとても耐えられないと痛切に感じた。

それは天国と地獄を毎日往復するのと同じことのように感じた。

仮に、復学して友人ができてその友人が「お前の家に行ってもいい?」と言ったとしよう。

そんな時に「精神病院に入院している」なんて言えるはずがなかった。

僕は以前住んでいたアパートを紹介してくれた写真屋と不動産業を兼ねた店に行っていい物件はないか?尋ねた。

そこのおばさんは僕が精神病院に入院したことを知っていたのか「大学をやめて就職すればいい」と言った。

僕はそれ以上その写真屋と不動産業を兼ねた店に頼ろうとは思わなかった。

僕は病院に帰って医師に

「大学をやめるから退院させてくれ」と言った。

大学をやめた後のことは考えていなかった。

僕はもうそれ以外何も考えられなくなっていた。

すると、医師は意外とすんなり退院させてくれた。

医師にそう言ってから数日後、近くの商店街に行って荷物を積む空の段ボールをもらった。

荷造りをして荷物を家に送ってから退院して僕は夜行バスで実家に帰った。

 

ここから先の過去を振り返ることはいつでもできるし簡単なことだが、過去を振り返るのは結構辛いのでこの辺にしておく。

X大学をやめてから全く別の人生が始まった気がする。

それでは。