先週の土曜日、『午前十時の映画祭』で観てきました。
『午前十時-』と言えば、名作洋画50本をを週替わりでリバイバル上映するという企画ですが、厳密に言うとこの作品は異色の選択ということになります。
その理由は後でご説明するとして…。
1972年のミュンヘン・オリンピックの際、選手村をパレスチナの過激派グループ「黒い九月」が襲撃、イスラエルの選手たちが殺害されました。後にスピルバーグも映画化したこの事件にヒントを得て、当時新聞記者だったトマス・ハリス(『羊たちの沈黙』などの原作者)が、「アメリカ国内でこんなテロが起こったらどうなるか?」という着想で書いたのが、この映画の原作小説です。これを、骨太のアクション映画や『5月の7日間』などのポリティカル・サスペンスの傑作を生んだジョン・フランケンハイマーが映画化したものです。
「黒い九月」が、マイアミで行なわれるスーパーボウル(駄菓子屋で売ってたり、縁日ですくえるヤツじゃなくて、全米プロ・フットボール王座決定戦)の会場で選手・観客8万人の大量殺害を計画。女テロリストのダリア(マルト・ケラー)は、試合のテレビ中継に使われる飛行船のパイロット、ランダー(ブルース・ダーン)を計画に引き入れます。彼はベトナム戦争従軍中に捕虜になり、祖国に裏切られ妻子にも去られてしまいます。国家への復讐心の塊となったランダーは、恐るべき大量殺戮兵器を開発します。
そんな時、「黒い九月」の隠れ家を襲撃したイスラエル特務機関(モサド?)のカバコフ少佐(ロバート・ショウ)は、現場でテロの反抗声明を事前録音したテープを押収、アメリカ国内で大規模なテロが計画されていることを知ります。これが実行されれば、イスラエルに対するアメリカの国民感情が悪化しかねない。カバコフたちはFBIと協力して、計画を未然に防ごうと奔走しますが…。
テロリスト側と彼らを阻止しようとする側の動きが並行して描かれ、異様な緊迫感が漂っています。
ブルース・ダーン=ランダーのコワれっぷりは、もしかしてレクターの原型?と思ってしまうほどです。
クライマックスのパニック・シーンは圧巻ですが、どことなく似たような設定の『パニック・イン・スタジアム』が、全編をスタジアムでのサスペンス描写で一貫させていたのに比べると、ややあっさりした印象を受けます(物語の構成上、仕方のないことではありますが…)。
あっさりと言えば、最近のこの手の映画には必ず捻じ込んである、主要登場人物の恋愛要素がほとんど皆無というのが、あっさりしていると言うか硬派と言うか…。一応、ランダーとダリアは同棲しているような感じなのですが、ダリアはランダーを自分たちの計画の“道具”としか見ていないようだし、ランダーも何だかんだで自分を捨てた妻への未練たっぷりの様子(その思いが暴走して大量殺戮という手段を選んでしまうところが、何とも…)なので、映画を観ていても二人の間に本物の愛情があったようには見えません(本当はどうか分かりませんが…)。
いや、もっとあっさりしているのが、ラスト。事件が解決したら、それ以上の進展や余韻もなく、さっさと映画も終了。まあ、同じフランケンハイマーの『フレンチ・コネクション2』ほどではありませんが…(あの余韻のなさは凄過ぎます)。
途中で、ロバート・ショウとウォルター・ゴテルの『007/ロシアより愛をこめて』の悪役が何気に共演しているところには、ニヤリとさせられました。
で、この映画、日本では全米公開と同じ1977年の夏に公開される予定で、大々的な宣伝や試写会なども行なわれたりしたようなのですが、実在のテロリストグループが登場したりするせいか、「この映画を上映したら劇場を爆破する」という脅迫があり、何と直前で公開中止に。つまり、今回のこの『午前十時-』での上映が、この映画の日本での劇場初公開となるわけです。これが、冒頭に書いた「異色の選択」と呼んだ理由なのです。
ちなみに、熊本の映画評論家の大御所・辻昭二郎先生と先日お会いした時に、この映画の話題が出ました。先生は、この映画の公開(予定)当時は映画館の支配人をしておられて、脅迫があってからというもの、毎日上映が終わった後に座席の下を全部調べて回ったというお話をされていました。また、公開中止の決定は封切の1週間ぐらい前だったともおっしゃっていました。
もっとも、日本でも80年代後半にビデオ化され(私はこの時に見て以来久しぶりの鑑賞)、現在もDVDが発売されております。しかし、題材的にも、また以上のような経緯を考えても、ここはやはり劇場の大画面で観ておくべきだと思います。