※(A・1979)※…記憶をなくしたアツキ、何故かキリスト教らしき集団と行動を共にしている。
 ※(B・2020)「記憶」※…精神病の父を持つ亜月の物語。老人によって書かれた回想風のもの。



 《第七章》


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 ※※※「記憶⑧」(B・2020)《承前》※※※




 【理弓とのこと④】


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 駅前ビルの喫茶店に続く地下階段を下りると、理弓は、年末のあの晩と同じボックス席に座り彼を待っていた。年明けを挟んでほぼ一週間振りに見た理弓は、亜月のイメージの中の理弓よりその容貌に於いてまた少し大人びて見えた。そこには彼のイメージに居た妖精のような少女ではなく、間もなく二十歳を迎えようとしている若い女性…その印象に、亜月はこれから話す内容を彼女なら受け止めてくれるのではないかと感じ、少なからず励まされたのだった。


 そして、彼は話した。
 先ず、自分の父親は精神病であると告げ、更に間を置かず「でも、遺伝はしないんだ」と付け加えた。
 彼女が言葉を発する前に、彼女が何等かの反応を見せる前に、これを付け加えずには居れなかった。前にも書いたが、亜月の母親は、彼が「遺伝」と云う概念を知ったであろう年齢に達した頃から、彼に、遺伝の事は心配しなくても良いと幾度も話していた。

 …お父さんはね、子供の頃、階段から落ちて頭を打った時に、頭の中に血の固まりが出来たらしくてね、それであんな風になってしまったらしいんだ。だから亜月には遺伝しないよ。安心していて構わないんだよ…

 子どもだった亜月はそれを信じた。否、現在の彼も、一抹の不安は抱えつつ大凡(おおよそ)は信じていると言えた。百科事典でも調べてみたが、そこには確かに「外傷による精神病は遺伝しない」との説明が載っていたのだ。だが疑念が無いわけではなかった。先ず、これまで母が彼に気休めを言ってきた可能性があり、それ以上に祖父が、亜月が生まれて間もない頃の母に偽りを伝えていた可能性があった。事実、亜月の知る限り父の主治医と直接会って話す役割は常に祖父がしていたのだ。
 払拭し切れない疑念があるにも拘わらず「遺伝はない」と言い切ってしまった事が亜月を追いつめた。その故に彼は理弓に向け、彼自身が一番避けたかった言葉を口にせずには居れなくなった、即ち、今度二月に帰省した折には父親の主治医に会いに行く、会って主治医から遺伝がない事の証明を貰ってくる、と…

 父親の病気について自ら進んで誰かに話したのはこれが初めてだった。亜月が話している間、理弓は表情を変えることなく聞いていた。話し終えると、その後はお互いこの話題には触れず、暫く学校の後期試験の話などして、二人はそのまま駅前で別れた。


 帰り道、今日の事はやはり無理があった、と亜月は感じて居た。
 彼の内部に、打ち明ける時期が早過ぎたのだ、と云う思いが強く残った。
 理弓からすれば、行き成りあの様な事を打ち明けられ戸惑うしかなかったろう、聞かされた側の彼女の心を想うと彼の気持ちは沈んだ。
 そして心の奥では、間もなく向き合わねばならなくなってしまった父の主治医との面会の時を、密かに怖れていたのだった。


 一月中は共に月末に控える試験に向けての準備がある為、二人はそう頻繁に逢う訳には行かなかった。特に理弓は、ただでさえ余裕のない短大のスケジュールに加え小学校の教職課程も取っていた。それでも二人は週に二、三度、短い時間で逢ってはいた。だが亜月は、このどこか落ち着かない逢瀬の中に、昨年暮れのあの夢の中を泳ぐかの様な「三日間」と同様の幸福な時の流れを感じることは出来なかった。

 一月は亜月の中で静かな緊張を伴いながら過ぎていった。この猶予期間の様な毎日を、彼は、余り勉強も手に着かない儘、ただただ加津井先生の所でのピアノ練習のみを心の支えとして過ごした。

 月の最後の日に、亜月の大学の後期試験が終わった。亜月はその日の内に都会を発ち実家へと向かった。理弓の方はまだ試験期間が続いていたから、都会に居て亜月の戻りを待つ形となった。
 夜遅くに実家に着くと、亜月は母に父の主治医に会いに行く理由を話した。母とは前もって連絡を取っており、病院の電話番号や主治医の名前を聞き出しては居たが、何故それが必要なのかについては打ち明けて居なかったのだ。亜月に恋人が出来たと聞いて母は大層喜んだ。明くる朝、母は病院に向かう亜月を「しっかり聞いておいで」と笑顔で送り出した。
 行く道すがらの亜月の心は意外に軽かった。母が明るく居たのが遺伝のない事の証しに思われ、病院行きのバスに乗り込む時も、自分は今から安心を得る為に行くのだと云う朗らかな気分が心にあった。

 ……

 亜月の父のかかっている精神病院(=H病院)は小高い丘の中腹に建っている。亜月は小学生の頃、祖父に連れられ、何度かこの病院を訪れた事があった。
 父は当時、一、二年に一度の割で入院しては数ヶ月後に戻ってくると云った事を繰り返していた。入院中、母が面会に行くことはなく、行くのはいつも祖父と亜月、それに父の弟である叔父が同行した。
 特に記憶に残っているのは病院のロビー…広い空間に多数の窓から明るい光が射し込み、向かい合わせに並んだ臙脂色のソファ、隅にはキャラメルの自動販売機が一台置かれている。販売機の前面には、ふたつに割れたキャラメルの断面から焦茶色のクリームがドロリと流れ出ている、そんな絵が印刷されて居た。
 正面の壁の中央には金属製の大きな扉があった。面会に行くと父は毎回、この扉から看護士に付き添われ出て来た。現れた父は亜月の姿を見ても左程関心を示さず、まず先に祖父や叔父に向かって「早くここから出して欲しい」と懇願し《電気ショック》の恐怖を繰り返し訴えた(注…電気ショックとは頭部に電流を流して痙攣を起こさせる精神科治療のひとつ)。亜月は思う…周囲の大人達の会話がいつもこんな風だったから、小学生の自分は《電気ショック》だとか《幻聴》だとかの精神科の用語を、自然に覚えてしまっていたのだな、と。

 ……

 最寄りの停留所でバスを降り、そこからは坂道を上る。杉の林を抜けると目前に、以前の記憶その儘の姿でH病院は建っていた。玄関を抜けた先にあるロビーの様子もほぼその儘だが、ソファの色が少し明るいものに変わって居り、例のキャラメルの販売機はなくなっている。
 受付で医師の名前と予約済みであることをを告げると、少し待たされた後に例の鉄扉から父の主治医であるY医師が姿を現した。肩幅の広い立派な体格、大きな二重の目、量感のある長い髪が血色の良い四角い顔を炎の様に取り巻いて居る。
 
 「どうぞ、此方へ」

 Y医師はロビーの壁際にある、その部分だけ衝立で囲った談話スペースの様な一角に亜月を導き、ソファに座らせた。
 Y医師も向かいに座る。亜月は医師と正対し、その堂々とした佇まいに接して何故だか急に心に不安が広がった。

 「遺伝があるかどうかを知りたいんです…」

 言って亜月は、最近に交際を始めた女性がいるので、親の病気が自分に遺伝しないのであれば先生にその証明を一筆書いて頂きたいと、前もって電話で伝えていた内容を繰り返した。
 Y医師は大きな目を亜月に向けながら言う。

 「結論から言うが、遺伝はしますよ」

 

 

  (つづく)