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※(A・1979)※…記憶をなくしたアツキ、何故かキリスト教らしき集団と行動を共にしている。
※(B・2020)「記憶」※…精神病の父を持つ亜月の物語。老人によって書かれた回想風のもの。







 ※※※「記憶⑦」(B・2020)《承前》※※※




 【理弓とのこと③】


 ………

 年が明け、大晦日の夜から一月二日午(ひる)まで二日ばかりの滞在の後に、亜月は実家から逃げ帰るかの様に都会へと舞い戻った。この短い帰省の間、彼は流石に父親に暴言を吐くような事はしなかったが、年始回りにやって来た親類縁者への挨拶もそこそこに自室に籠もり、高校生の頃と同様、食事は部屋で取っていた。即ち、彼は実家での二日間を、以前と同じ「グニャグニャの自分」の儘で過ごしたのだった。


 この姿を理弓が見たら何と思うだろう?
 やはり自分は少しも変わっていない。
 今の自分に幾らかの明朗さや社交性があるとしても、それは実家の事、父親の事を忘れている間だけの話なのだ。

 下宿の木造アパートに帰り着き、自室の鍵を開ける序でにドアの横にあるポストを覗く。と、そこには数通の年賀状に混じって理弓からの手紙が届いていた。
 年始のこの時期に届いたという事は理弓は帰省したその夜に便箋に向かい、次の朝早くに投函したのだろう。手紙には、丁寧だがどこか幼さも感じさせる文字で(あの紙片のものと同じ文字だ!)亜月と出会えた事のよろこびが素直に綴られていた。
 会えばまた幾らでも話せるにも拘わらず手紙にするのは、きっと理弓の中に紙に書かれた文字は特別のものという意識が有るに違いない、それならと、亜月も、彼女が戻って来る頃には下宿に届いているよう手紙を…(これまでそう云ったものは殆ど書いた事が無かったが)…書こうと考えた。

 その夜、食事を済ませた後に早速便箋に向かう。
 が、ここで亜月は突然、或る特殊な感覚に襲われた。

 と云うのは、彼女の手紙の一部には、通っている短大の規則に関するちょっとした不満を雑談風に述べた件(くだり)があり、亜月は「確かにそれはおかしいと思う」と書いて応じようとしたのだったが、その途端、何とも形容し難い不安に駆られたのだ。

 …それは「おかしい」と思う…

 不安の理由は直ぐに思い到った。
 亜月がまだ小さかった頃の実家の茶の間での事、立ち尽くし視線を宙に漂わせる父親の傍で、祖父と祖母、母も加わり三人顔突き合わせて何やら相談している。

 「オカシイナ」
 「アア、確カニ、オカシイ」
 「昨日カラ、オカシカッタ」

 子供心にもその会話が父親の病状についてのものである事はわかっていた。事実、この後、祖父が「コレデハマタ入院ダナ」と吐き出すように言ってその会話は終了したのだ。

 この「オカシイ」という言葉が亜月を不安に陥れた。

 ペンを持つ指先がいうことをきかず、どうにもその文字が書けなかった。

 (いや、「おかしい」なんてのは誰もが気軽に使うありふれた言葉ではないか、何を気にしているのか?)

 気分を落ち着かせる為、別の紙に、おかしい、おかしい、おかしい、と、何度も書いた。


 便箋でなければすんなりと書ける様だった。


 更に手許の辞書で「おかしい」を引いてみる。


 そこには「笑いたくなるような滑稽な気分」と云う何程の事もない語釈…だが、その項目の真ん中辺りに、用例として「頭のおかしな人」とあった。



 頭のおかしな人…あたまのおかしなひと…アタマノオカシナヒト…


 …コレハジブンノコトデハナイノカ?


 …ホンノササイナコトデモジガカケナクナッテシマウナンテ、ジブンハヤハリ「オカシイ」ノデハナイカ?


 亜月は自らの内に潜んでいるかもしれない父親由来の遺伝の因子、狂気の種子の存在を想い、恐怖した。更に、この心の動揺が文字を通して理弓に伝わってしまうのではないかと怖れた。

 電気スタンドの白色光に照らされた書きかけの文字の連なりを前にしながら、彼は、自分に与えられた境遇、捻くれた性格、父の見せるあの病特有の《目・表情》、遺伝の恐れ…それらのものと、あの愛らしい理弓の存在との間に、如何にも埋めようのない絶望的な乖離を感じずには居られなかった。


 結局手紙にはその言葉は書かず、何やら当たり障りのない内容のものをさっさと書いて封筒に入れた。が、封をした途端、今度は書いた手紙の文中に、とんでも無いモノ…意味を持たない文字や記号の羅列、卑猥な文言…が混じっているのではないか、無意識の内に書き加えてしまったのではないかと、そんなあり得る筈のない事が気になり始め、終には封を破って中身を確認せずには居れなくなってしまった(勿論、そうして読み返してみても、そこには当たり障りのない実に詰まらない文章が並べられているだけだった)。


 何時しか時刻は深夜に達していた。亜月は手紙に係わるのを断念して立ち上がり、部屋を出た。少し外の風に当たってみようと思ったのだ。
 一月の夜風は冷たかった。思えば年末の理弓との三日間は、自分とは全く別の健康な若者の三日間であった。

 あれは夢をみていた様なものだ。
 現実の自分はあらゆる面で恋愛などからは程遠い存在なのだ。

 だが…と亜月は思う…

 それでも理弓が好きだ。
 どうしようもなく好きだ。
 だから何としても自分は、
 この状況から立ち上がらなければならない!

 結局、彼は手紙を出すことは諦め、その代わり理弓が帰省から戻って来て逢う時には、父親の病気について正直に話そうと心に決めた。


 二日後、短大の授業再開に合わせ、理弓が都会に戻って来た。
 駅から電話をもらうと、亜月は急いで彼女の待つ駅前の喫茶店へと向かった。
 
 (今日だ、何としても今日の内に父親の事を理弓に告げなければ…この機会を逸してしまうと、次はいつそんな勇気が出るかも分からない)

 本当は理弓に自分の父親の病気について話すのはもっとずっと先…半年後か、早くとも三ヶ月後位の事と思っていた。話せば理弓は離れて行ってしまうのかもしれない。亜月に取って理弓との恋愛はまるで天から降りて来たかの様な得難い夢だった。この夢を今少しの間見続けていたいと願ったが、畢竟、それは彼女に隠し事をしている様なものであって、最早彼は、日々彼女を想うたびに後ろめたい気分に襲われるのを避けられなくなってしまっていた。
 理弓の手紙の末尾には「これからもずっと一緒だよ」と書かれていた。恋人同士の手紙の遣り取りではありふれた言葉なのかもしれない。しかしこれまで恋愛を経験してこなかった亜月は、その言葉を将来の結婚へと繋がるものの様に読んだのだ。

 思い出すのは従姉妹の結婚話が纏まりそうになっていた頃に、その従姉妹が相手の男性から「あなたの伯父さんがその種の病気であることは、どうか家の両親には黙っておいて欲しい」と頼まれたと云う話。
 また、これは当時より少し後年の話になるが、亜月がこの数年後、就職の為に或る小さな会社の面接を受けた折り、その会社の社長から父について尋ねられ、精神病である事を告げると「ふうん、それで?親父さんには凶暴性はないのかい?」と好奇の目で問い返された事もあった。
 確かに、当時のこの病気対する世の中の目は冷ややかだった。だが、何より問題なのは、父親に対し最も冷ややかな目を向けていたのが他ならぬ亜月自身であった事だろう。

 彼自身もその事はよく自覚して居た。実際、彼の生い立ちがひとから見て多少の同情の余地はあったにせよ、彼の父親に対する冷酷な態度を思えば自己憐憫に浸る資格もなく、増してや置かれた境遇を受け容れ明朗に生きてきた我(われ)などと云うものは過去の何処を探しても見当たらなかったのだ。



 駅前ビルの喫茶店に続く地下階段を下りると、理弓は、年末のあの晩と同じボックス席に座って彼を待っていた。



 《続く》