そして、宇宙に抱かれ私は眠った。

 眠る?…そう、既に身体的存在ではなくなっている私であっても、常に意識を同じ調子で継続し続ける事など出来はしない。魂は今、休息を必要としている。


    ☆   ☆   ☆


 …どれくらい眠ったろう。何時間?何日?…いや、何年?何世紀?目覚めると私は周りの様子が眠りに入る前とは明らかに変化していることに気づいた…即ち、周囲に星の光が全くない。何もない!
 「私…」を包み取り巻いているのは完全な闇だ。これはどうした事なのか?
 その説明として私は、自分が今、銀河も星もなく何億光年もの直径を持つといわれる超空洞空間(=ボイド)の中を漂っている為なのではないかと考えてみた。だが眠る前の、自分の身体が小惑星ほどの大きさの空間を占めているというあの卓越した感覚も今は消えてしまっている。ここには空間すらない。即ち、私はいよいよ自分が宇宙を漂っているという幻想さえも失ってしまったようなのだ。
 この変化は眠っている間に起こったものだ。そしてその間、私は夢らしきものをみていた事に思い至る。いや、それは夢というよりは思考、というよりは想像…いやいや、だから本当は夢なんてみていなかったのかもしれない。自分が夢をみていたのではないかと思うことで、それはどんな夢だったのだろうと心に思い描いているだけなのかもしれない。何しろ外部からの刺激が完全に消滅してしまった今となっては、意識は過去の出来事を反芻するか、想像を自由に広げるよりほかにすることがない。音も光も、そして空間さえもないこの状況では、記憶と想像の境界がとても曖昧になってしまうのだ。


 さて、その「見たのかもしれない夢」とはこんなものだった…


 夢は現在私が経験している非現実的・彼岸的状況とは裏腹のリアルな日常生活の断片のようなものから出来ていた。

 とても長い夢…その夢の中では、私は例のハンス薬局の物干し場から「浮上」しておらず、亜世ちゃんの居ないあの家で、そのまま孤独で単調な生活を続けていた。

 ウイルスは既に世界から駆逐されていて、アーケード街には人通りが戻り、私は日々、独りハンス薬局の店頭に立って薬を売っている。

 客は時々ぽつりとやってきた。私は客に所望の薬名を訊き棚から商品を取り出して静かに渡す。

 週末の夜は嫌いだ。
 週末も深夜になれば店の周りの繁華街は酩酊した若者たちで溢れる。
 夕方の熱が残る湿っぽい空気に彼らのざわめく声が溶ける。
 男たちは常時奇声を挙げ、女たちの嬌声がそれを追う。
 店の前のアスファルトのそこここには大量に捨てられ散乱する菓子の袋や潰れた空き缶。シャッターの下部にひっ掛けられた吐瀉物や尿。

 これは繁華街に住んでいる者の宿命なのか、亜世ちゃんと親父さんはこれまで、こういったものを黙々と処理してきたのか…

 店は父娘ふたりが、そうやってずっと大切に守ってきたものだ。私は休日が明けた朝にはいつかしたようにそれらの汚れを丁寧に洗い流す。序でに同様に汚されている近くの店の周辺も掃除し、汚されたのが自分たちの店だけでなかったことに幾らか慰められる。

 正直言えば、私はウイルスが蔓延し始めた頃の人通りの消えた静かな街が好きだった。亜世ちゃんとふたり過ごした静かな夜が好きだった。

 昼間は薬を売る。
 客に商品を手渡しながら薬の名前を告げ成分と効能を説明する。
 それを聞く客たちの顔には一様に生気がない。

 ああ、そうだよ。私は週末の騒々しい夜が大嫌いなんだ。でも、私は知っている、私の心の一隅にあの忌々しい喧噪と同じものが潜んでいることを。私にも若い時代があり、その頃には彼らの持つ傍若無人さも私の一部だった。家を出て一人暮らしを始めた頃の高揚感の中で、私も週末の夜のあの騒がしい若者たちと同じ心を持っていた。もちろん私には一緒に騒ぐような友達など居なかったけれど、粗野な心であるという点では彼らと同類だったんだ。

 平日の夜が来て、定時になれば店を閉める。シャッターを降ろそうとしたその時、下の隙間から素早く一匹の猫が店内へと駆け込んで来た。キジトラ模様の澄ました顔…いや違う、もっと精神的な、まるで何かを悟った風な顔でこちらを見ている。

 この表情、見覚えがあるぞ…そうだ、第さんだ!

 思った瞬間、猫が(口は閉じたまま)いきなり第さんの声で語りかけてきた。


 …いつかボクがお話した事を覚えておられますかな?


 …あなたの名字「鹿野谷」が、奇妙にも物理学者ニュートンの名前と一致しているという事、続けて「それはあなたの名前に限った事ではないのです」と付け加えた事を。


 《若い頃、あなたはお母様のお取り計らいで「咲蓉」さんと婚約された。でも咲蓉さんにはSくんという幼なじみの従兄弟がいて、あなたは、ふたりの親密さを不快に感じておられた。咲蓉さんとの婚約は、あなたにそれまで経験したことのない喜びを与えたと同時に、苦しみや惨めさをも味わわせる結果となった。耐えられなくなってあなたは彼女から逃げ出し、人生の黄昏を迎える頃にやっと理想のパートナーである亜世子さんと出会われた。でもその亜世子さんは…》


 …では、謎解きに移りましょう。


 《鹿野谷さん、あなたの人生には先ず「咲蓉さん」が現れます。でもあなたは咲蓉さんから逃げ出し、後に彼女とは全く異なったタイプの女性…あなたの無意識が造り出した理想のパートナー、「ハンス薬局の亜世子さん」と出会うのです。「咲蓉さん」と「ハンス薬局の亜世子さん」…「SAYO」と「HANS・AYO」…作用と反作用…そうなのです!ニュートンと関連しているのはあなたのお名前だけではなかった。あなたの人生に現れた二人の女性の名前もまた、ニュートンが提唱した「運動の法則」の名称と見事に一致していた。咲蓉さんが作用で亜世子さんは反作用。二人の女性像は正反対にして一対のもの。つまり全てはあなたの意識の中で組立られた精緻な幻想だったのです!》


 ああ、これは最早先に見たであろう夢の想起などではない。これは無意識の思考、即ち、私の意識の深いところに住む私の一部分としての第さんが語っているものだ。私は話の流れのそのままに、この思考の続きを第さんの声として聞く。


 《…そして「SAYO」の文字からあなたの苦しみのもととなっている人物の頭文字「S」を除いてみましょう、すると「AYO」となるのですね。さらに「作用・反作用の法則」は、ニュートン力学では「運動の第三(第さん!)法則」と呼ばれているのです!》



 成程な、これが証拠というわけか。結局は何もかも「私」という意識の深いところから来たものだったという…。人生は偶然の連続によって作られたものではない。物語作家が屡々、自らの創作に登場する人物の名前の中に密かに何らかの意味を隠しておくように、私の人生もまた、私の意識の奥底にあるものが作り出した「物語」だったというわけだ。

 「第さんである猫」は語り終えるとシャッターの隙間をすり抜け何処かへ行ってしまった。同時に私の意識の中に立ち上がっていたハンス薬局内部のイメージも消え、無音で光もない、空間さえもない状態が戻ってくる。この無の世界に居ながらも未だ「意識」だけはある。私は思考をやめていない。だが、新しい刺激を受け取らないこの状態が永遠に続くのなら、私の意識は過去の追想や既に得た知識のみを基にした想像を何百万回も繰り返す事になるのだろう。繰り返すうち魂は疲弊し、ものが擦り切れるように、植物が枯れるようにゆっくりと死んでいくのだろう。緩慢に無へと落ち込んで行くのだろう。それが即ち自我の終焉ということなのか?
 自我が消滅すること自体は、今となっては左程怖くない。ただ人生を通して自分の思いや考えを優先した結果、人並みの自信も持てず何者にも成れずに終わってしまったという、そんな「物語」しか紡げなかった私という存在がとても恥ずかしくて惨めなのだ。


 …ううん、そんなことないよ。


 私の内に住む亜世ちゃんが語りかけてくる。でも詰まるところそれは自分の内部だけで完結している会話というに過ぎない。


 …違うわ。わたしはわたしとしてちゃんと存在してる。ほら、わたしに触れてみて!


 触れる?お互い身体を持たないのに?空間すらないというのに?


   
(続く)