(松山市での電車風景)


(前回からの続き)

以上、つらつらと思いつくまま鉄道に関連する回想を述べてきたが、突然鉄道に興味を持った理由もいくつか見えてきた。まず、鉄道は人生に「余白」をもたらせてくれるということ。私にとっては、自宅や出先から駅に向かって歩き始めて、列車を利用した後に目的地に着くまでの間が「鉄道の時間」である。その時間の中で余白が生まれる。駅で列車を待つ時間も余白である。列車の中で目的の駅に着くまで過ごしている時間も余白である。目的の駅から目的地に着くまでの移動時間も余白である。この余白時間の中で、あれこれと思考を巡らしたり想像力を働かせたりもするが、たいていは大事なことを考えているわけではなくて、何か重要な結論が出るということもない。しかし、その余白時間は、駅に向かう前の状況と目的地に着いてからの状況をつなぐ「のりしろ」である。鉄道はその「のりしろ」を程よく設けてくれるのである。


鉄道の非日常性も興味を持った理由として挙げられる。列車というものは、色々な事情を抱えながら、どんな人物か分からない人々が、1つの箱の中に集まって1本の鉄の道を一緒に進んでいる乗り物である。それだけで非日常である。鉄道は普通の道のように至る所に枝分かれがある道ではない。自由度は車道よりかなり限定される。それなのに人々は1つの箱の中で一緒に不自由な鉄の道を歩もうとする。もちろん、望んでそうしている訳ではないだろうが、もしかすると、バラバラな人々が1箇所に集まって一蓮托生でどこかに移動している状況は、心境的に意外と1人になりやすく、時に連帯しやすい心理を生むのかも知れない。それを無意識に求めて人々は列車を利用するのかも知れない。列車にはそんな心理的非日常を生み出す魅力がある。


駅には駅の非日常がある。駅に入ったら、どことなく駅の外と雰囲気が違って来る。特に田舎の萎びた駅などはその空気感が強く、駅に入るだけで完全に日常から切り離される。そんな空気の中では気分も非日常的になるので、色々と気持ちの切り替えができる。それが「余白」を作り出す素にもなっている。また、駅には日常もある。待合室で地元住民が団欒する姿は日常である。その待合室で時刻表をじっと見つめている観光客や出張サラリーマン、田舎駅に備わった喫茶店などで列車待ちをしている人々は、言わば日常と非日常の狭間にある余白時間を使っていると言えよう。駅というのは、日常と非日常の狭間で色々なシチュエーションが選択できる場であればとても魅力的になる。


鉄道の非日常性と言えば、線路を挙げない訳にはいかない。アスファルトの車道を見慣れている現代人の私からすれば、鉄の線路は非日常の世界にある。2本の鉄の線が並行に真っすぐ伸びたり、美しいカーブを描いたりしている光景は、それだけで芸術作品だと思える。ましてや、走行している列車の先頭から見る線路は、非日常の世界に容易に誘ってくれ、いつまでも見ていることができる。私は、時々、踏切を渡る途中でそんな線路をじっと見つめることがある。そこで見る線路が伸びる空間は、非日常を味わうのにうってつけである。そこに朝日などが当たっていれば、線路の行き先に希望が待っているような気がしてしまう。このように、鉄道の中には色々と非日常があることに気づく。


今思えば、鉄道に興味を持つきっかけを作ってくれたのは踏切である。「カーン・カーン・カーン」と鳴る踏切音が鉄道への興味を誘った。昨年のある時から、踏切音を聞くたびに踏切に目をやり、遮断機が降りるのをじっと待って、列車が過ぎ去るのを見送っている自分がいることに気づき始めた。「これはどういうことだろう」と考えているうちに、「もしかすると、童心に帰って電車に興味を持つようになったのかも知れない」と考えるようになったのだが、薄ぼんやりと、浪人生時代、大阪に住んでいた伯母の長屋で、夜に「カーン・カーン・カーン」の踏切音を心地良く聞いて受験勉強をしていた時のことが思い出された。その時、私にとって踏切音は都会の匂いであるという感覚がした。昨年踏切音を聞いて「都会に憧れている」という気持ちに気づいた時、鉄道が私のその思いを埋めてくれると直感したのである。そんなことがきっかけになって鉄道への興味が増すようになった。


かつて、都会の発展は鉄道に負うところが大きかったと言っても過言ではないだろう。従って都会には様々な鉄道形態がある。それらを存分に見てみたいという夢が私にはあるが、一方で、寂れゆく各地のローカル線も訪ねてみたいという願望がある。

都会というのは、かつて集団就職列車が地方から往来することで形成されて来たという歴史がある。その一例でも鉄道が都会の発展に大いに寄与したと言えるが、同時に地方に過疎化をもたらしたのも鉄道であると言える。そして車社会の到来と相まって、地方の鉄道は赤字路線を数多く産むこととなる。私にはそのよう鉄道を取り巻く社会的課題を何とかしたいという思いがあって、それが鉄道に興味を持った背景となっている。とにかく、鉄道というのは、地方には地方の、都会には都会の「鉄道」が見せる魅力というものがある。私は、そんな鉄道の魅力を末長く写真や文章で記録していきたいと思っている。


踏切の話から鉄道論に逸れてしまったが、とにかく踏切音が私と鉄道を結びつけてくれたと言っても良いだろう。もしかすると、踏切音が、遠い昔大阪万博を経験した時に楽しんだであろう、大都会の電車の思い出を無意識のうちに呼び覚ませたのかも知れない。

ある本に、「人生100年時代の今、定年後は子どもの時に叶わなかった事ややれなかった事に挑戦してみるのも良い生き方である」といった意味のことを書いていた。もしかすると、私が子ども頃に叶えなかった事というのは鉄道に関わるものかも知れない。子どもの頃から鉄道に興味があった訳ではないが、心の奥のどこかで、「鉄道を利用した長い一人旅をしてみたい」という無意識の願望が長く眠っていたように思われる。踏切音は、おそらくその願望を少しずつ意識の領域に呼び出す笛の役割を担っていたのであろう。



夕暮れ時、電車の線路に沿った側道を歩いていると、ふと踏切音が鳴り始めた。赤く点滅する信号機と下る遮断機を見ている私の側を、闇に溶けたオレンジ色の電車が通り過ぎる。何気なく電光に浮かんだ電車の窓を見ると、「私」が物憂げに窓外を見ながら電車の中に居る。その「私」はきっと電車で遠くへ長旅をしようとしているのだ。実際の電車は30分で終着駅に着くのだが、今はそんな現実世界は無視をする。とにかく、一瞬でも空想した鉄道の世界で自分を自由に遊ばせてみる。やがて踏切音がピタリと止むと、そんな空想は呆気なく消えてゆく。・・・これは、先日の夕暮れに経験した幻であるが、そんな錯覚を誘発する夕暮れ時の踏切音は独特だと思う。一瞬にして非日常に人を連れ込んでしまう。鉄道にはこんな魔力が潜んでいる。鉄道への見方や捉え方一つで、その魅力や魔力を引き出すことができる。だからこそ様々な鉄道マニアが存在するのだろう。もしかすると、「多様な“好き”を作り出すことができる」ことこそ、鉄道に興味を持ち始めた最大の理由なのかも知れない。