(生まれ故郷の鉄道)


突然鉄道に興味を持った理由は未だに分からない。昨年の今頃から急に鉄道写真を撮ることに魅力を感じ始めたのだが、一時的なものだろうと思っていた。しかし、鉄道写真を撮るだけでなく、鉄道に関して色々興味を持つようになってきたところを見ると、どうやら鉄道へのラブコールは本物のようである。


鉄道エッセイ『鉄道無常』で、著者の酒井順子は「世の鉄道好き達の話を聞くと、物心ついてから次第に鉄道好きになったのではなく、記憶にないほど幼い頃から鉄道に夢中だった、というケースがほとんどである」と言っている。確かに「鉄オタ(鉄道オタク)」と言われる人達はそうかも知れないが、私には「記憶にないほど幼い頃から鉄道に夢中だった」という経験は皆無である。それどころか、小学生の時も鉄道の「て」の字も興味を持たなかったし、それ以降も鉄道に関心を示すことはなかった。そんな私ももう60代となったのだが、こんな年齢で鉄道に興味を持つようになったのである。どうやら、鉄オタほどの熱愛は別として、鉄道好きになるために年齢は関係ないようである。それにしても、何が私を鉄道好きにしたのかという部分が気になる。そこで、小さい頃からの記憶を辿ってみて、そのあたりの手がかりを探ってみようと思った。


私は四国の高知県南西部にある小さな村落に生まれた。四国というのは、周知のように瀬戸内海と太平洋に囲まれていて、本州本土や九州とは海で隔たっているため陸上交通の繋がりがない。そんな中でも高知県というのは、前には太平洋があり、後ろには四国山地の高い山々があり、海と陸の境は山麓の斜面が迫った所がほとんどで、平野部が極端に少ない県である。高知県は土佐と言われた時代から陸の孤島であって、交通の便が非常に悪かった。そんな地に早くから鉄道が普及することはまずない。私の生まれた村落がある町には1970年(昭和40年)4月に鉄道が敷設され、国鉄のディーゼル機関車(汽車)がやっとの思いで往来するようになった。この年はちょうど大阪万博が開催された年で、母親と伯母と私の3人で、大阪に旅行するためにワクワクしながら汽車に乗ったのが、私の記憶する鉄道の最初の思い出である。その時は、宇高連絡船を降りて岡山駅から新幹線にも乗ったのだが、非常に混んでいたので、降り口付近で立ったまま人に揉まれて大阪に行ったことだけが記憶に残っている。小6の時、私は汽車に乗って修学旅行を経験したが、修学旅行の行き先は高知市であった。この時は、汽車に乗っている時間がとても長く感じられた(何時間ぐらいかは忘れたが・・・)。高知県の西部で生まれて小学校の修学旅行が高知市なのだから、どれだけ田舎なのか察しがつくであろう。


中学生になると鉄道が身近なものとなった。というのは、中学校が自宅から遠くにあり、汽車通学をすることになったからである。自宅から最寄りの駅まで10分ぐらい歩き、汽車に乗って3駅向こうに駅を降りると学校まで15分ぐらい歩いた。登校時は、たまに良く話しかけてくれる車掌さんがいて、その人と色々おしゃべりをしたりして楽しく過ごした。中学校では給食がなくて手作り弁当持参だったので、時には登校時に弁当を汽車の中に忘れて惨めな思いをすることもあった。下校時は、部活が終わって夕方帰宅列車の時間までかなり余裕がある時間に学校を出た。というのは、駅の側の売店で買い食いをしている生徒達と遊ぶためである。買い食いは校則で禁止されていた。私は学級委員長をしていたので買い食いはしなかったが、買い食いをする生徒を注意することもしなかった。注意する気にはならなかったし、たまに買い食いしている友達からお裾分けをしてもらうこともあった。


貴社の中でのささやかな楽しみは、一番先頭の車両で汽車の先に伸びる線路が飛ぶように流れ去る光景をたまに見ることであった。時々、安全な場所でまっすぐ伸びる線路を遠くまで見ることも非日常的で面白いと感じたが、走る汽車の先頭からこちらに向かって来る線路の光景は異次元であると思った。その光景を見る度にワクワクしていたことを思い出した。


中学校ではこのような日常で鉄道が利用されたが、今振り返れば、この時の鉄道は、言わば登下校というつまらないルーティンに「余白(余裕)」を与えてくれていたように思う。「ゆとり」と言っても良い。

現在の私は電車通勤をしているが、鉄道が通勤に余白をもたらせてくれていることをしみじみ感じている。電車の中に乗っている時の余白時間だけでなく、駅と自宅や会社の間を歩く時間なども余白として利用している。自宅や会社と駅を繋ぐ道をわざわざ遠回りすることもあるぐらい、この余白時間は私にとって大切である。この時間を利用して、色々と感情や頭の整理ができる。言わば、日常生活の「のりしろ」みたいなものである。


中学校生活の最後、卒業式の後に汽車に乗って帰宅する時、私には苦い思い出がある。中2の秋頃から好きだった女の子になかなか思いを伝えられず、卒業式の前日にハンカチを買って、卒業式の日に渡す予定であったのだが、それもできなかったのである。その女の子は、帰宅時に私が帰る汽車とは反対方向に向かう汽車に乗って帰ろうとしていた。私はホームに佇むその子に声をかけることもなく、帰りの汽車に乗って、出口ドアの窓にハンカチを当てて頬をそのハンカチに押し当てた。おそらく何とも言えない表情で顔を歪めていたと思うが、それを汽車の外から見ていた人がいるとすると、きっと変顔に吹き出したのではないかと思う。春雨上がりで夕暮れの窓は少し曇っていた。その曇りをハンカチで拭って外の街灯を見上げていた私の心を置き去りにして、汽車はゆっくりと街灯を後ろに退けて進み始めた。私の心はさらに曇り初めてザワめいていたのを覚えている。この鉄道が残してくれた思い出は、「青春の苦味」という「のりしろ」として今も残っている。


(次回に続く)