尾崎豊は現役の頃、熱烈なファンがいて、ファンというより信者化しているとさえ言われていました。
「尾崎の歌で救われた」という人がいっぱいいて、ライブに来る人たちの尾崎を見つめる目がちょっと怖いと思った、という人もいたという。
NHK「で歎異抄」の解説をしているのを聴いて、尾崎が宗教化してしまうのはこういうことなのかと思いました。
親鸞は「阿弥陀様は私だけをお救い下さるためだけにおられる」と述べていて、これこそが宗教の救いの本質なのだ、と解説していました。
それを聞いた伊集院光さんが「若い頃、この音楽は自分のことを歌っている、自分のために作られたみたいだ、この歌が自分を救ってくれた、と思ったことがありますが、それと似ていますね」と語っていました。
まさか、尾崎豊のことかな?わかりませんが。
みんなのために存在するのだけど、一人一人が「自分のためだけにこの歌はあるのだ、この歌は私を救うために作られたのだ」と思えるところが、尾崎の歌の凄さなのかな。宗教化する理由なのかな。
「現代には情報は氾濫しているが、物語がない。物語とはそれに出会った人が、出会う前には戻れない自分になってしまうほどの力をもったものだ」という解説もしていました。
尾崎は自分自身の物語を生きて、それに出会った人を変えていく。
亡くなってからは伝説化して、いまだに今を生きる人々に影響を与えています。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
親鸞は宗教家なのに煩悩を克服できずに、どうしょうもない自分と向き合い続けて、この悪人正機説に行きつきます。
いくつかの罪を犯し、自ら苦悩してそれでも前を向いて生きていく。
それなら、悪人の烙印を押されても、往生できない訳ないじゃないか。
それでも神様は見放さずに見守ってくれているよ。君(僕)が苦しみながらも良くなろうと努めているならね。
頭ではなくこの胸にわかるまで。永遠の胸で。
この歌の最後で「僕はいつでもここにいるから」というのを聴くと凄く安心します。
私ももはや尾崎教の信者かも?