昨日は、朝からボランティア研修に参加してきました。

 

娘が、受験生(新6年生)になり、時間ができると確信して、今年に入って新たに行動を起こしてみたことの二つ目、ボランティア活動です。(一つ目は、お菓子教室)

 

以前から、何か人の役に立てることないかな、と漠然と考えていました。

そう思っていると、これだ!と思うことが舞い込んでくるものです。

 

お友達に、「どんなことがこれからやりたいの?」と聞かれたときに、そういうことって最近、考えたことなかった、と思いました。それで、自分の過去を振り返って、改めて、そのお友達に話してみました。

「そういえば、子供の人権を守るようなことをしたくて司法試験を受けたことがあった」。

そうなんです。結婚を期に、仕事を辞めて、2年間大学の法学部で勉強していた時期があったのです。司法試験には合格しませんでしたが。

 

そんな志をすっかり忘れていました!子供たちがやや手を離れ、自分の時間ができたら何をやりたいかと考えた時に、ここに戻りました。

 

交友関係が広いお友達にお話ししたことで、ご縁が繋がり、千葉でシェルターを運営している方とお知り合いになることができました。

 

1年に1度、ボランティア研修を行いボランティアを募集しているということで、今年の研修初日に行ってきました。

 

子どもシェルターとはどんなところか、児童虐待とは、施設でどんな支援がなされているか、等々。

用事があったため、最後まで聴講することができませんでしたが、どのお話も興味深いものでした。

虐待、という問題だけに限ったことではなく、家庭生活全般に言えるお話しばかりで、家庭生活の重要性を再認識しました。

でも、今朝の私は、笑顔も明るさもなくイライラと娘を叱っていましたガーン

 

虐待とか家庭内の問題とか、浅い次元ではいろいろ情報は入ってきますが、現場の方から直接お話を伺うというのは貴重な経験で、お話の内容も納得できることばかりでした。

 

思うのです、虐待する大人、虐待された子供、だけでなく、全ての人に対して、自分の物差しではなく、自分との違いを前提にするだけなんだと。

一人一人が、それを心がけるだけで、優しい社会になるんじゃないかな。

手を差し伸べるとか平等とかそんな大袈裟な事とではなく些細な事なんじゃないかと。

もしかしたら知っているかもしれないけど、と説明してあげるとか。

家庭でも同じで、小学生だから中学生だからわかって当然、ではなく、私が感じることを子供たちが感じるとは限らないはずですよね。

 

印象的だった話の一つが、左右という言葉。中学を卒業して社会に出た子が左がこっちで、右がこっち、という感覚が身についていないがために、仕事場で指示の意味が分からず失敗を繰り返し、仕事を続けられなかったというお話。確かに、体の大きさも大人と変わらない人に指示を出すときに右と左の意味が分からないとは想定しないですよね。虐待を受け続けた子の中には、家庭で当然教えてもらっていると思われていることが身についてなく、学校にもまともに通ってこなかった場合、いろいろなことが身に着かないままの子がいるはずです。そんな些細な事もそうなんだよね。

当たり前のことが当たり前ではないのです。

 

もう一つ、印象的だったのが、現場で携わっている人たちがとにかく明るくて楽しい。明るく楽しい人って本当に大好きドキドキ

こちらの気持ちもすっかり明るくなりました。