邪魔なわけではないんです…
日本人にとっての第二言語といえば、英語とがハングル語とかが多いのかな、と思うのだけど、更にもう一つ言語が増えると、頭の中がこんがらがってくる。
鈴木家の場合、海外に出ると、私はもっぱら英語が専門なのだが、KENSOはスペイン語の方が得意だ。英語とは違い、スペイン語には本人もそれなりに自信があるらしい。生活の中で覚えただけでなく、きちんと先生から習ったことも手伝ってか、彼のスペイン語は単語の羅列ではなく、きちんと話せるし書けるレベルに一応達している。彼いわく、スペイン語には、英語のようにこもったり、舌を使ったりする発音はなく、英語を使うときのように、わかっているのに発生するとうまく伝わらないということもないから楽なのだそうだ。まぁ4年も5年もスペイン語だけで生活したわけだから、そのほうが楽というのも当然なのかもしれないが、とはいえ同じ動詞が主語によって全く違うスペルに変化するし、名詞も男性女性と形が違うスペイン語は、私にとっては今でも英語よりずっと難しく感じられる。
というわけで、私はスペイン語が片言でつい英語を使ってしまうし、KENSOはアメリカに行ってもスペイン語が出る。
これがややこしい。
私たちはそもそも、頭の中で母国語である日本語と《それ以外》という振り分けを無意識にしているらしい。だからスペイン語しか通じないメキシコにいるときには問題ないのだが、これがひとたび英語圏に入ると、《それ以外》の枠の中にある英語とスペイン語の振り分けがうまく出来ず、ごちゃ混ぜになったりする。
例えば、アメリカの入国審査でのこと。メキシコから帰国する際、私は時々アメリカに寄って帰るのだが、中途半端に4,5時間、深夜のフライトでぐだぐだになっている中で審査を受けると、つい数時間前までの癖で、《YES》でなく《Si》と返事をしてしまう。アメリカはスペイン語がかなり共用語になっているから、審査官が気をきかせて、
『スペイン語の方がいいか?』
と英語で聞いてくる。すかさず私は、
『No no,Ingles por favor(いいえ、英語でおねがいします)』
とスペイン語で答えている。この訳のわからぬアジア人の返答に審査官は複雑な表情になり、それでもスペイン語を話しているし…と何気にスペイン語で長い質問をしてきたりするから、私は更に?になり…、そのくせ質問に対し『Si…no no,Yes』みたいないちいちややこしい返答を繰り返してわけがわからなくなる。
言語をめぐるエピソードは色々ある。
先日、メヒコの友人夫婦が日本に遊びにやってきた。
彼はスペイン系メキシコ人の内科医で、奥さんのフェルナンダは画家だ。
彼らとは不思議な縁で友人になった。KENSOが体調を崩して彼の病院に行き、その後カフェやワインショップで偶然に何度も顔を合わせ、KENSOはその医者と会えば挨拶をかわす顔見知りになった。しばらくして偶然友人に誘われた個展で或る女流画家の絵を買い、その画家と大変に気があった。一緒にカフェに行ったり、ワインを買いに行ったりする友人になって、ある日私たちが彼女のアトリエを訪ねると、奥から男性が出てきて、
『これ、私の夫よ』
と紹介された彼が、その内科医だった。
これ以来、私たちは夫婦同士で仲良くなった。
因みに彼の名は《ホルヘ》という。ホルヘと聞くと日本人には馴染み薄いかもしれないが、彼の名前のスペルを英語読みすると、《ジョージ》になる。《J》はスペイン語で《ホタ》で、ハ行で発音するのだ。
そこで《J》の代わりにジャ行になるのが《Y》だ。
《Japon(ジャポン)》は《ハポン》、日本円は《Yen(エン)》で、これはどこに行ったって《エン》のはずが、一つ間違うと《ジェン》になってしまう。
こうしてスペイン語で日本語を発声すると、時々なんだか不思議なことがおこってしまう。
私たちは、成田にホルヘとフェルナンダを迎えに行った。
『イロッコ~~~~っ!!』
と、私の名前が早速微妙なことになっている。スペイン語では接頭の《H》は発音しないため、《HIROKO》がつい微妙に《イロコ》になる。とはいえこれは名前だし、更に《ロコ》は《とち狂った》とか《気が狂った》という意味であるため、彼らも意識して《ヒロコ》と発音するのだが、時々やはりクセでやんわり《イロコ》になる。
それでも、久しぶりの再会に、彼らが運んできたラテンの陽気な空気に私たちも大喜びなのだが、日本で彼らのスペイン語を聞くと、とんでもない間違いを繰り返している。
彼らは二十日間の滞在で、最初と最後の合わせて一週間をうちに滞在し、それ以外はツアーを申し込んであった。京都に奈良、広島の宮島と静岡と各地を観光する予定になっていて、静岡が観光に入っているのは、《どうしてもこの目でご来光が見たい》というフェルナンダのリクエストで、明け方目指して富士山に登るためだ。
『ケンソー、今日から三日は君の家に世話になるよ』
成田で彼らをピックアップして車に乗り込むと、几帳面なホルヘは早速日程を確認し始めた。
『あぁ、勿論だよ』
『そしたら、それから二週間は京都や宮島を観光して回って、最後にまた数日とめてもらうけどいいかい?』
『勿論さ。で、その間の《オテル》は予約してあるんだね?』
スペイン語では、Hotelも頭の《H》が取れて、発音は《オテル》だ。
『あぁ。ツアーだから大丈夫だ。ツアーの集合が三日後、集合場所は…』というと、フェルナンダが答えた。『トキオ駅よ』
『OK。うちから東京駅なら一本だよ。《総武線》に乗ればいいから』
『ソーブ?』
『あぁ。総武』
『いや』とたんにホルヘの顔が曇った。『違う…』
『えぇ。違うわ』
ホルヘとフェルナンダはそろって苦い表情をして、とたんに書類を確かめる。『ケンソー、今、何線だって言った?』
『だから総武線だよ』
『違う』几帳面なホルヘが日程表と詳細の書かれた紙をじっと見つめ、字面を指でゆっくりなぞっている。『ジャマ…ノテ』
『ジャマノテ?』
『そう』フェルナンダが日程表を運転中のKENSOの顔面に強引に差出して、繰り返している。『ソーブじゃない。ジャマノテのトキオ駅よ』
そこからの数日間は鈴木家にとって強烈な異文化交流になった。
『イロコの家族が近くにいるなら、ぜひ紹介してくれ。ファミリア皆で食事をしよう!!』
と言われて実家に連れて行ったところ、私の両親は挨拶でいきなりだきつかれ、頬にキスをされた父は
『オヨヨヨ…』
と言葉を失った。更に彼らは常に相手の目をしっかりとみつめて会話する。考えてみればアメリカ人もそうだったが、現地にいるときにはそれを特別に感じることもなかった。しかし場所が日本だと、どうも違和感がある。結局父は食事の間中、頬にフェルナンダの口紅をつけたまま、気の毒なほど目のやり場に困っていた。帰り際、彼らが挨拶を始めると、
《また抱きつかれるのでは…》
と両親の背中はがっちがちに硬直していた。
芸術家のフェルナンダの要望で美術館めぐりをしてみたが、街中でも驚くほど声がでかく、上野公園の路上ではサルサを演奏するチリ人をみつけて一緒に踊りだした。これでKENSOは自分の試合に彼らを招待するのをビチッっとやめた。
どうなることかと心配したホルヘ夫婦の日本滞在だったが、二週間後、ツアーを終えて戻った二人は実にご機嫌だった。ツアーガイドはとても親切で、そのツアーに参加した他の旅行者はツアーを終えると共に成田から帰国したらしく、更に三日をうちで過ごすホルヘとフェルナンダを、ガイドはわざわざうちの近くへ送迎までしてくれたらしい。人懐っこいホルヘ夫婦は、ガイドとも個人的に友達になっていた。
『最後の食事は、ナオキも呼ぼう!!』
ナオキというのは、そのツアーガイドで、ホルヘたちは、最後の日の夕食は鈴木のファミリアと、世話になったツアーガイドも呼びたいといいだした。深いことは考えず、いつもにぎやかに大勢で食事をするメキシコ人らしい発想で、二人は自らガイドの携帯に連絡し、彼をうちに誘った。客に誘われても断るかな…と思ったのだが、なんと彼は本当にやってきた。
私とKENSO、ホルヘとフェルナンダは四人で近所のデパ地下でテキーラを5本買い、コーラも5本買って、駅に《ナオキさん》を迎えに行った。人ごみの奥を覗き込んでいると、改札の手前のあたりで小柄で人のよさそうな男性がケーキの箱を持って出口に迷っている。
その姿を見たとたん、ホルヘが叫んだ。
『あそこっ!!ナオキ~~っ!!』
すかさずフェルナンダが更に大きな声で呼ぶ。
『ジャマダ~~~っ!!ジャマダさ~~ん!!』
『はじめまして。山田です』
ツアーガイドの山田さんは、今回のツアーで取った写真を持ってきた。寺院の写真や、宮島の鳥居の写真に混じって、富士山の写真もある。明け方の富士山で、《勘弁してくれ》とばかりに顔面蒼白のホルヘと、ノリノリのフェルナンダが映っていた。
《うわわ…》
と思ってみていると、更にショートパンツにTシャツ姿のホルヘとフェルナンダが少年の様な満面の笑みで水に飛び込んでいる写真が出てきた。
最悪だ。案の定だが、lきっとまた勝手な行動を取ったのだろう。この二人のハイテンションを連れて山田さんは散々だったに違いない。
『海水浴の予定って…ありましたっけ?』
因みに…と遠慮がちに尋ねた私に、山田さんが苦笑いで首を振る。
『ですよね』としか答え様がない。『すみません…ご迷惑かけて』
『いや、いや…お二人は明るくて。悪気がないのはわかってますから』
山田さんは人のよさそうな笑顔で笑っている。その間もフェルナンダは
『ジャマダさん、テキーラ、もっと!!』
『ジャマダ!!食べて、もっと!!』
そっとトイレに立つ山田さんにわざわざ注目を集めて、
『ジャマダっ!!どこに行くのっ?!』
私とKENSOは何度もフェルナンダに《彼はジャマダじゃないの。ヤマダさんよ》と繰り返すのだが、ラテン気質丸出しの彼女は、すかさず山田さんと肩を組んでこう言う。
『細かいことはきにしないよ。な、セニョール ジャマダ。あなた、ジャマダでいいでしょ?』
気づくとKENSOまで
『ジャマダさん、ビチッと一杯いきましょう!!』
明日は帰国するにもかかわらず、その晩ホルヘとフェルナンダは本人たちの希望で朝まで飲み明かし、酒臭いまま成田に向かい帰路についた。私たち同様、山田さんも付き合って飲み明かし、一緒に成田に見送りに向かった。出国ロビーでも、山田さんはジャマダジャマダと繰り返され、荷物検査の列に並ぶと、最後の最後、極めつけに叫ばれた。
『ジャマダ~~!!あなた良い人ね~っ』
この程度の二日酔いと寝不足も、三十五才を過ぎると洒落にならない。《ぐったり》を通り越し、ふわふわしながら駐車場に向かいながら、山田さんがつぶやいた。
『因みにホルヘさんたちが飛び込んだのは海じゃないんです』
その言葉にKENSOがはたと振り返ると、山田さんが頬を引きつらせて言った。『旅館の池です』
言語ってのはなかなか難しい。ここでの常識も、他では通じなかったりする。私もアメリカやメヒコにいたときには、笑わせるつもりもないところで爆笑されたりしていたけれど、きっとこんな感じだったのだろうと思う。
ホルヘ夫婦は、初日本旅行で、良い思い出を作れただろうか…。