KENSO的エンターテイメント論
今やクラシックは私達の一番の趣味だ。メキシコで覚えた。メキシコは元スペイン領で、シティーには欧州人が多い。治安の悪いエリアを避けて、外国人居住区に移り住んだ私たちの周囲では、頻繁にクラシックのコンサートが行われていて、欧州の質の高いオーケストラやオペラも数多く来ていた。今は劇場として使われている古い城では、時々無料で練習演奏なんていうのもあったから、KENSOの試合のない日には、二人で散歩をしながら劇場に顔をだし、コンチェルトやピアノなんぞをのんびり聞いて帰ったりしていた。
メトロポリタンオペラだろうが、ベルリンフィルだろうが、ポスターを見て飛び込んでも十分チケットが取れたし、《これでいいの…?!》という金額だったメキシコだが、日本となるとそうはいかない。そんな行き当たりばったりで良いものを聞くことは難しいし、それなりの予算もかかる。
それでもフジコさんのチケットは取った。
KENSOはフジコさんのピアノが大好きなのだ。CDも沢山持っている。彼は全くの音楽素人だから、細かい音楽性について語ることは出来ない。感想はもっぱら《印象》だが、彼曰く、フジコさんの音色は、
《心臓を打ち抜かれるほど悲劇的で、痛烈に寂しいのに、涙が出るほど情熱的》
で、あるらしい。
言葉で説明するのは難しいが、KENSOはその手の音色が好きなのだ。試合前や、朝一番の巡業バスで毎朝新聞を読むときには、悲劇の歌姫マリア・カラスのオペラを聞いているらしく、
『マリア・カラスの歌声があまりに痛すぎる時は、読み終わってから名人・志ん生師匠の古典落語を聞く』
なんてことを言っている。そういえば以前、フジコさんの特集番組を見た時、フジコさんが
『私は毎朝必ずマリア・カラスを聞くんです』
と仰っていたから、なんとなく、《痛いほど切なく、その一方で強烈に強く、情熱的》というのは、フジコさんの音色にも、マリア・カラスの音色にも共通する色なのかなと思ったりする。
とはいえそれは、練習や才能で出るものではないかもしれない。
『彼女たちの音色の根源にあるのは《生き様》だよ』
と、KENSOは言う。
確かに、マリア・カラスの人生は壮絶だ。舞台の上の彼女とは反比例して、私生活はズタボロだった。結局、歌に人生を賭けるしかなく、それなのに最後にはその声まで奪われた。それでもソプラノにこだわって高い音を出し続け、酷評を受けながらも歌い続けたのがマリア・カラスだ。フジコさんにいたっては、あれだけの才能がありながらも、売れたのはついここ十年の話で、それまでの壮絶な生き様や生い立ちには、(他人事と叱られてしまうかもしれないが)心底圧倒される。
それでも彼女は淡々と、静かにピアノを弾き続けている。それが、凄いな…、と思う。
それにしても今では大人気のフジコさんだが、人気に火をつけるきっかけになったのが、NHKの特集だったというから、やはりファンは彼女の《生き様》を知ることでその音色を更に深く感じるようになったのかもしれない。本当に見る目のある《通》ならば、そんな生き様をしらなくても、その音色を聞くだけで全てを感じるべきなんだろうけど、わかりやすく、目に見えることしか理解出来ないのが《人間》だから、そうした彼女のバックグラウンドを知り、人々は更に感動したのだと思う。
残念ながら私もKENSOもその一人にすぎないのだが、それにしても、一流と言われる芸術家やエンターテイナーは、その裏側に壮絶な人生を抱えていることが多い。《壮絶》とまではいかなくても、長い下積みがあったり、ホームレス同然、ゴミ箱を漁るほどの貧乏時代があったり、大事故で命からがら生き残ったり…何らかのハンディを抱えていたり。
どうしてかなぁ…とKENSOと考えた。
所詮一介のプロレスラーにすぎないKENSOだが、それでも人様の前で舞台に上がる者のはしくれとして、彼曰く、人を心底感動させるというのはそう簡単なことではないらしい。相当のパワーがいるのだという。
そりゃそうだ。だって、人間は誰しも、生きていれば、他人にはいえない様な現実を抱えるもので、苦労は特別な人だけのものじゃない。みんなそれぞれに苦労を抱えて《壮絶な人生》を生きてくるわけで、そうした人様を一様に感動させようと思ったら、それはそれは至難の業だ。派手なプロモーションや《なんちゃって》な後付けストーリーでそれらしく飾れば、一時のブームにはなるとしても、にわかな知識や芸では、確かに、心底、人様の心に響くことはないのかもしれない。
だって、人間は皆それぞれ、人生と戦ってるわけだから。顔がきれいなら、とか、才能があれば、とか、やもすれば人はエンターテイメントを簡単に考えがちだが、そうして人間はそれぞれに様々な辛さや苦労を抱えて生きてきているわけで、その皆を本気で感動させようと思えば、べらぼうなパワーがいるのは当然だろう。そうした人様を本気で感動させるだけの底力と精神力は、確かに、それ以上の艱難辛苦を嘗めてきた人間にしか出せないのかもしれない。
『そう簡単には、人を《心底》感動させるなんて出来ないんだね、きっと』
というのがKENSOの結論だ。
何度も言うが、所詮一介のプロレスラーに過ぎないのだけど、KENSOもやっぱり今となると、彼なりに《苦労様々》と思う部分が随所にあると感じるらしい。WWEをクビになったこと、メヒコでも散々悲惨な目に遭ったこと(詳細はのちほど詳しく、ここでひとつづつ紹介していこうと思うが)、テレビショーのレギュラーすら、試合が悪ければ翌週には簡単におろされ、無報酬になるという流動的な中で試合を鍛錬してこられたこと。だから帰国してからのKENSOは、テレビカメラがあろうがなかろうが、常に緊張感を持って、いつ放送されても恥ずかしくないだけの試合をしようと心がけていられる。
更に彼が受けたこの数年の荒行の中で、もっとも大きいのは自動的に肉体的鍛錬をさせられたことだ。
彼は肺に穴が開く肺気胸を二度もやっている。その時、医者に
『プロレスはもう出来ない』
と言われた。それが原因でWWEを辞めることにもなったのだけど、彼はそれでもプロレスをあきらめなかった。
答えは一つ。
《僕にはプロレスしかないから》
自国に帰ればそれなりの待遇で、もう少し楽が出来ただろうけど、ハッスルに数ヶ月参加して行き着いたのは
『これじゃ駄目だ』
という結論だった。
一度、一流の舞台を踏んだものの性かもしれないが、《にわか》では納得できない。
《アメリカで見た○○選手のような、本物になりたい》
そう思って進んだ先は、世界第二位のプロレス団体があるメキシコだった。しかもそこが標高1500メートルの高山地帯だから、富士山の三合目から五合目にも近い標高で、ただでさえ空気の薄い場所で自動的に肺を鍛えていたKENSOはそれだけ肺にリスクを抱えながらも、それ以来、日本でどんなハードな試合をしたって息が上がることはほとんどなくなった。
そんな無茶な苦労をしなくても、同じだけのトレーニングをすればいいことだけど、新日本で鳴物デビューをして、すばらしいお膳立てをいただいていたあの頃のKENSOだったら、それと同じだけのトレーニングを自らに課すことはきっとできなかったに違いない。
実は、彼は大学時代にアキレス腱を断裂している。明大ラグビー部に入った直後で、そのときも医者には
『いくらなんでもラグビーは無理』
と言われたらしい。その後数回に渡る靭帯の損傷や網膜はく離があったものの、結局彼はそれでもラグビーを続け、レギュラーを取り、日本代表候補になった。続けた理由は、
《僕にはラグビーしかないから》
それがあったから、彼はプロレス界に入ってからのどん底も、体当たりで乗り越えたのかもしれない。博打を打つような思いだっただろうけれど、それでもどこかで《無駄にはならない》と信じてこられたのだろうと思う。
時に人間は逃げ場を失うような窮地に追い込まれる。けれどそうして嫌でも苦労をさせられたことは、神様に感謝だって、KENSOはいつも言う。
『客をなめたら絶対に駄目なんだよ。僕たち舞台に立つ人間が一番肝に銘じておかなくちゃいけないことは、ファンをなめるな、ってことなんだ。客の気持ちを考えず、リングの上で、自己満足でやりたいことをやるマスターベーションみたいな試合は客にはすぐに通じる。舞台に立つレスラー本人どころか、それを管理する社長やエージェント以上に、ファンの目は厳しいよ。内側を見抜いてるんだから』
ここまで書きつないでひどいオチなのだが、結局KENSOは試合があり、フジコさんのピアノリサイタルには行けなかった…。びびるほど落ち込んでいたが、日本では、半年も前に申し込まなければチケットが取れないのだから仕方がない。私は母を連れ立ち、母はお土産にフジコさんの新作CDをKENSOにプレゼントした。
ここ一週間、朝目覚めると、我が家には必ずフジコさんの《ラ・カンパネラ》が流れている。CDには、最近のラ・カンパネラと三十年前にフジコさんが弾いた同曲も入っているのだが、素人の私たちが聞いてもわかるほど、二つの音色は全く違う。良い悪い、ではない。《違う》のだ。
私たちは彼らの芸を見て、《芸》そのものだけでなく、その《人》を感じているのかもしれない。
確かに、KENSOの言う通りかな、と思う。
エンターテイナーや芸術家に限らず、人は上に上ろうとすればするだけ、絶対不可欠な厳しい鍛錬があるのだと思う。神様から大きな才能を授かった芸術家たちは、その才能を開花させるために尋常ではない《精神的体力》が必要で、時に強烈な悲劇や災難を受けるのは、いやおうなしに精神鍛錬をさせられているということなのかなぁと思う。
選ばれた芸術家やエンターテイナーたちの場合、《自ら》ではなく、追い詰められなければ出来ないような、窮地でのすさまじい《精神的鍛錬》が必要なのかもしれない。
それが彼らの血や肉になって、いつか《芸》として人様を感動させることになるのかな。
すべては才能を開花させるためなのかな、と。
だから逆に言えば、目に見えなくても、陽の目を見なくとも、一生懸命生きて、本気で取り組んでいれば、《本物》は必ず伝わる。ファンは必ずそれを見抜いてくれる。伝わるときは来るわけだ。
KENSOは今日も、iPHONEを片手に朝っぱらからラ・カンパネラでビチッと目覚め、プロレス道に打ち込んでいる。
『朝から暗くない?』
と尋ねるものの、
『ネクラの本質が呼び起こされるから、かえっていいんだ』
とわけのわからない言い訳をしている。それで彼が彼らしく頑張れるなら、そりゃそれでいいとして…。
いつか、彼もプロレス界の《本物》になれますように、と祈りつつ、私も朝から《フジコ漬け》になるのである。