子供の頃

商売をやっていた九州の実家である日

母と父が「蛇が何かを飲み込んで

喉がつっかえて凄く首が横に伸びているネ~」と真夏の暑い日

父がと母がその蛇を見て話していた。

近くの裏山から迷い込んできたのかな?と

喉が苦しそうだね~と(笑)(笑)

子どもながらにそうなんだ~と何も不思議ではなかった。それならよく見かけた・・・

もしかして蛇が何かを飲み込んでいるんではなくそれこそ

その形が「ツチノコ」だったのではないのかな?

そこは桜並木はある、セミはいる、綺麗な小川がある、蛍はいる、綺麗なちょうちょなど沢山いる自然な所だった。

古代貿易港、古墳日本一の所で今となっては小さな小さな町で宣教師も沢山往来していたり海外の船や江戸時代は大阪、京都文化が伝わり大阪の堺あたりのコメの相場の基準だった所らしい。

もう一つ感じるのはこの小さな町に(長崎県島原にも嘘の様に近く玉名から高速船で45分で長崎

江戸から来ると宮崎県の高千穂から九州横断で「南関」と言う南の関所を抜け長崎までかなりの近道)

卑弥呼にも関係している場所

未だに長崎と言うと原爆のイメージがあるけど

実は長崎の歴史には島原の乱や坂本龍馬あたりのあのあたりの歴史がの方が自分にとっては強い

玉名市はその昔には宣教師も沢山来ていたそうだ

そのせいなのかこの小さな町でハンサムボーイが右も左にもかなりいた。(笑)

何をやっても上手な人たち

私が高校生くらいまではネ(女子もたまになんてェ~…綺麗と言う美女も埋もれていた。

(熊本市内よりこの辺りの方がイケメン、が多く子供心に不思議だった。皆時代劇役者の様にイケメン

うちの父も、父の兄妹も見事にその辺まではいい顔しているし街の仮装行列も盛んだった。

何故だか玉名は言葉も熊本市内より佐賀県の人たちによく似ている。

町中の三代前~(もっと前室町時代当たりまでは)多分宣教師絡みの海外の血が絶対入っていた最後の世代だと思うわ

ばってん~って言う言葉は室町時代からbut itから来ていると聞いた事があるけど違うのかな?

その後帰郷してもハンサムボーイ見た事ないとんでもなくみんな不細工(笑)…と言うのかよそ者が増えている様な気がする。

女子より男子に多かった気がする。

ハンサムボーイと名の付く物

話はかなり横道にそれたけど

西南の役の激戦区の場所

現在毎年「俵まつり」等の歴史のあるお祭りがある。

いだてんのモデルの場所

今となってはただただ国道が出来て九州縦断に通り過ぎる場所でしかない

その下に日本の歴史が沢山埋もれているんだけどもうそれを知っている人がいない

 

河童の話はよく父、に聞いた。

近くに高瀬菊池川があってここには夕暮れ時に河童がでる。

どんなのか?と聞くと頭に皿、背中に甲羅で川面に沈んでいるので夕方は泳いではいけないと言っていて。

父は子供の頃見たと言っていたけどこの辺りには子供の頃から橋の下に乞食も住んでいてその爺さんが遠くで見て河童に見えたのかな?けど河童は小さな子供の大きさと聞く

戦後はすぐは戦争で親のいない子供も沢山いただろうから子供の乞食もいたのだろう~

なのでその河童は信じていないけど

「つちのこ」は子供の頃それがそれであればよくみかけた。昭和45年くらいまでは・・・?

ツクヅク思う。

 

思い出とは形が残らないので幻なのか?

寂しいものだ。

自分にとっての思い出は明日の活力になる。