私がニューヨークに行ったのは、19886月半ばだった。

 

旅行ではなく、そこに住むということにとてもワクワクしていた。不安は全くなかった。すでに夫が3カ月前から暮らしていたし、英語はなんとかなるだろうと思っていたからだ。

 

13時間の長飛行を経て、ようやく近づいたニューヨークJFK(ジョン・F・ケネディ)空港。着陸直前に飛行機から見えたロングアイランドの街並みは美しかった。

 

6月は緑の季節。木立の中に整然と立ち並ぶ白とグリーン、ブルーなどのかわいい家々。プール付きの庭や広々とした道路が続き、土地の広さに感動した。

 

空港に降り立つと、まずカーゴを運転する大柄な黒人の男性が見えて、「ああ、アメリカに来たんだ」と実感した。まるで映画の中に入り込んだみたいだ。

 

ロビーに出ると、夫が迎えに来てくれていた。少しやつれたように見えたが、元気そうでまず安心した。アメリカ生活にはもうだいぶ慣れた様子でパーキングまで案内してくれた。

 

車は、黒塗りのアメリカ製ポンテイァック・ボネヴィル、3,800CC。いかにもアメ車という感じの大型車で、前に3人、後ろに3人が悠々と乗れる。前に3人乗るために、オートマチックながらベンチシートでコラムシフトになっている。

 

 

 

 

ニューヨークの道路は、当時財政事情が悪く、どこも穴ボコだらけだった。ボネヴィルはスプリングが柔らかく、ボコボコの道を走ると、ぼよーん、ぼよーん、と揺れるのでおかしかった。お尻にはやさしい。

 

道が広くて、ハイウェイは片側3~4車線が続き快適だ。車も大きい。さぞかし燃費が悪かろうと思うが、アメリカはガソリンも安い。当時1ガロン(約4リットル)で1ドルちょっと。1リットルで30円くらいだったろうか。

 

でも車は汚い。傷があるのはもちろんのこと、バンパーが取れていたり、ガラスの代わりにビニールが張ってあったりしても平気で走っている。車は見た目じゃなく走れればいいんだ、ということか。アメリカ人が人目を気にしないということはいずれすぐに分かった。

 

私たちの家は、空港から Belt Parkway を北上し、さらにLong Island Expressway (通称LIE)にぶつかったところで東に向かい、数十分走ったところにある、Port Washington (ポート・ワシントン)という小さな港町にあった。

 

港といっても、対岸のコネチカット州に挟まれた Long Island Sound (ロングアイランド湾:sound には「安定した、入り江、瀬戸」の意味がある)の、さらに奥まった Manhasset Bay(マナセット湾)にあるので、波はなく、水面はいつも穏やかで湖のようだ。

 

町の中心を抜け、坂道をくだると海が見える。海に面して公園があった。緑の芝生に白いベンチ、そして目の前には海。海には、白いヨットがたくさん浮かんでいた。海があって緑が多く、さしずめ葉山のような趣のところだ。

 

そのさらに奥にManorhaven (マナヘブン) という地区がある。マナヘブンは、通りがアルファベット順にきれいに並んでいてとても分かりやすい。A Ashwood Road, B Boxwood Rd, C Cottonwood Rd, ・・・と続き、私たちの家は、H Hickory Rd.(ヒッコリーロード)にあった。

 

このAM のつく通りは南北に走っていて、どれも東西を走る Manorhaven Boulevard (ブルバードは大通りの意味。省略記号は blvd.) に接している。マナヘブン・ブルバードの南側は、ビーチとベンチがあるタウンパークになっていて、夏になるとビーチで泳げるし、公園内にはプールまであった。

 

 

 

 

それぞれの家には番号がついていて、これが住所になる。道の片側が偶数、反対側が奇数。郵便局や配達の人にはとても分かりやすい仕組みだ。我が家の場合は、56B Hickory Rd, Port

Washington という住所だった。

 

 

 

 

 

家は、duplex house (デュープレックス)という、2階建ての一軒家を真ん中で縦2つに分けた形。なので、うちがBならお隣がAだ。お隣は、独り暮らしのドイツ人の奥さんでとてもいい人だった。私が着いて挨拶に行くと家の中を見せてくれたが、さすがに調度品がヨーロッパ風で素敵だった。

 

うちはダンナさんが引っ越してまもなく、ほとんど家具はない状態。ドアを開けるとすぐに、日本で済んでいた2LDKのマンションがそのままスッポリ入りそうなリビングルームになっていて、外観からは想像できないほど広くて驚いた。

 

よくドラマや映画で見る家のように玄関も廊下もなく、すぐにリビングなので余計に広く空間を使えているのだ。日本のように、それぞれ空間を仕切ることがない。日本から持って行った家具はすべて小さくてスカスカな感じ。その後、少しずつ買い替えてアメリカサイズになっていく。

 

1階にそのリビングとダイニング、キッチン、トイレがあり、2階はベッドルームが3つとトイレ付きバスルームがあり、これにプラスだだっ広い地下室まであった。まだ子供がいなくて夫婦2人だけなので、無駄に広すぎるような気がしたが、後にいろいろな家を見ていくと、これでもむしろ小さめの家だということが分かる。

 

道路に面したところに、車が各家庭2台おけるスペースがあり、裏には芝生の庭がついていた。これで、月々の家賃は1,100ドル。当時の日本円にして14万円くらいだった。夫の会社からの補助もあり、私たちの負担は、日本の賃貸マンションのときとさほど変わらなかった。

 

とりあえず、この日は荷物を置いたらすぐ、時差ボケで寝てしまう前にと車でマンハッタンに連れて行かれた。飛行機から見たら、ビルの墓場のように見えた摩天楼だったが、ロングアイランドから、ブルックリンブリッジを渡る前に見えるマンハッタンのなんと素敵なこと!絵葉書の写真さながらに美しくて感動した。

 

ダウンタウンから6番街を北上して、たくさんの店が立ち並ぶ5番街を観光客よろしく闊歩して、7番街とブロードウェイの交差点、そしてかの有名な42nd Street にあるTimes Square (タイムズ・スクエア)に行き、たくさんの車と人の洪水に目が回りそうになる。

 

 

 

 

その後、どこかのおしゃれなイタリアン・レストランに入り、ワインでアメリカ初上陸と無事の再会を祝って乾杯した。

 

隣のテーブルに、ワーキング・ウーマンらしき中年の女性2人組がやはりワインを飲んでいたが、そのうちの1人がアメリカは初めて?と聞いてきたのでイエスというと、“Oh, welcome to New York!とグラスをかかげて祝ってくれた。うれしい歓迎だった。

 

帰りは、軽い時差ボケとワインのせいで、もう意識が朦朧としていた。摩天楼がポワーンとかすんで見えたが、それはそれでキラキラきらめいてとても素敵だった。