正しさについて考える。



人は正しさを好む。
正しいものと正しくないものを提示されたとき、ほとんどの人は正しいほうを選ぶ。
人間はそういうふうにできている。
まずはそれを大前提として話を進めたい。


さて、正しさの根拠はどこにあるだろうか。
誰一人神の視点を持ち得ない以上、究極的には、正しさに100%はないといえる。
ただ、正しいと合意できる可能性を限りなく100%に近付けることはできて、そのベースにあるのが論理だ。
論理的に正しい時には、人はその正しさに妥当性を感じ、納得せざるを得なくなる。
そしてその論理をベースに今日まで積み上げられてきたのが、すなわち科学である。
だから科学は、人が論理を捨て切れない以上、真っ向から否定するのは難しいといえる。



と、ここまでは正しさを考える上での最低限の前提だが、世の中には当然、論理だけではどうにもできない問題も多くある。
哲学的な問い(なぜ生きるのか等)然り、政策決定(税率を上げたほうがいいのか等)然り、人生の選択(結婚するべきか否か等)然り。

もちろん正解などないかもしれないが、それでも多くの人が合意、納得できるような、少なくとも当事者が後悔しないような、そんな判断ができるようになりたいと思うのは普通だろう。
そう考えた時に、何を根拠に判断するのが正しいのか、考えてみたいと思う。ただし何の問題についての正しさを考えるかによって、その判断基準も変わりうるため、ここでは特に政策決定など、自分だけでなく、多くの人に影響が及びうる問題の正しさについて、考えてみたいと思う。



一般に、論理以外の手段によって物事の正しさを判断しようとするとき、その根拠を大別すると、大きく3つに分けられると考える。
・自分(他者)の信念
・伝統・文化・宗教など
・統計

ちなみに統計とは、「その判断によって予測できる結果の統計的データ」を根拠としている場合のことを指す。


今回は多くの人に影響が及びうる問題について考えるため、その場合の正しさとは、「結果的に多くの人が納得できる判断」を指す。さらにいえば、多くの人が幸せになれる判断、つまり「最大多数の最大幸福を実現できる判断」といって差し支えないだろう。

そう考えると、上記3つを比較するまでもなく、自ずと根拠は絞られる。
信念だけでは人々を幸せにはできず、伝統・文化・宗教で人々を幸せにするためには、多くの人が同じ背景を持つ必要があるが、価値観の多様化が進む昨今、それも現実的とは言い難い。
したがって、多くの人に影響が及ぶ判断の正しさを考える場合、論理的には、その根拠として統計しか残らないのは、正しさの定義からして必然といえる。



そうすると、「いかにして正しい統計のデータを入手できるか」が極めて重要になる。が、幸い時はビッグデータ時代、インターネットの発達とAIの台頭によって、正しい統計データの入手はかなり容易になっている。
これに拍車をかけるのがスマホの普及で、人々はいつでもどこでも、即座に統計データ、もしくはそれに類する情報にアクセスすることができる。
つまり現代は、「正しさへのアクセス可能性が飛躍的に高まった時代」であるといえる。


このことは、人々にどんな変化をもたらすだろうか。すでに観測されている現象があるので、最後にそれについて述べてみたい。



その現象とは、「人々の意見の画一化」である。ただし画一化といっても、それは統計に裏付けられた、極めて洗練された、言ってみれば「限りなく正しさに近い」意見の画一化である。


例えばヤフーニュースなどのコメント欄を思い浮かべてほしい。あるニュースに対し、誰もが気軽に意見を投稿でき、それらを自由に閲覧することができるのだが、匿名で自由に投稿できるのだから、さぞかし様々な意見が飛び交っているのかと思いきや、そのほとんどは同じような内容のオンパレードである。
例えば24時間テレビのニュースであれば、そのコメントのほとんどは批判的な内容で、肯定的な意見はほぼ皆無といっていい状況なのである。


ただこの状況には少し補足が必要で、まず表示されるコメントの順番に、多少恣意的な要素がある。デフォルトで表示されるのが、「いいね」が付いた順なのだ。これだと確かに、一度多数派になれば、余程のことがない限り、その後も多数派になり続ける(まず多数派が表示されるため)。また投稿する側も、「いいね」欲しさに、多数派にウケるようなコメントばかり投稿するようになる。

ただし、この状況自体は正しさを否定する根拠とはいえず、むしろ強化するともいえてしまう。それは結局、統計こそが正しさの一番の申し子であり、その統計を駆使して投稿されたコメントが、ことごとく「いいね」をもらっているからである。いくら多数派に迎合しようとしても、それが統計的に正しくなければ、「いいね」はもらえないからである。

またシステムを提供するプラットフォーム側(ヤフーニュースでいえばヤフー)の作為的操作(特定の意見をデフォルト表示にするなど)も考えられなくはないが、コメントには「いいね」の反対の「よくない」も付けられるため、これらの合計から算出される「いいね率」を見れば、その意見が本当に多数派かどうかはすぐに判別がつく。(さすがに「いいね」や「よくない」の数までリアルタイムで操作しているとは考えにくい)



ここまでくると、「多数派になるのは本当に統計的に正しい場合だけなのか」「そもそも多数派は統計的に正しいのか」といった批判が考えられるが、ここがこの現象の肝ともいえる部分なので、しっかりと検証したい。


例えば閲覧者が何も考えずに「いいね」を付けていれば、確かに多数派だからといって正しくない可能性も考えられる。無料ニュースサイトは閲覧者の民度が低いから、有料制のサイトじゃないと正しい意見には辿り着けない、と言う人もいる。また内容でなく、「いいね」の数に便乗して「いいね」を付けている人も、少なからずいると思われる。

しかしそれでもなお、現代が「正しさへのアクセス可能性が飛躍的に高まった時代」であることを考えると、統計的に正しくない意見が多数派になる可能性は、限りなく低いと個人的には考える。
肝といっておきながら個人的な見解の域を出ないのは恐縮だが、仮に統計的に正しくない意見が多数派になりかけたとしても、その真偽はちょっとスマホで検索すれば、すぐに判明してしまう。その「バレる」リスクをくぐり抜けようとしたところで、閲覧者が多くなればなるほど、人々が正しさを好む以上、数の論理でいずれは淘汰されると考えるのが自然である。


実際、多数派となっているコメントを見ると、その多くはかなり鋭く、問題の核心をついている。また閲覧する側にとっても、そうした数の論理を無意識に理解しているからこそ、その正しさに信憑性を感じ、「いいね」を付けていく。そうして「限りなく正しさに近い」意見の画一化が図られていく。まさに「正しさの再生産」といった状況が、そこには生まれているのである。



と、ここまで書いて、ふと「だからこそ人々は多数派の正しさを疑わなくなり、虚構の正しさが暴走する可能性が出てくる」とも思えてきたが、もう疲れたのでこれ以上書くのはやめておく。よかったら誰かその危険性を指摘してください。


ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。