さて、今回は「正しさ」とは何か、正しさを追求するとどうなるのか、について考えを深めたいと思う。



一番最初に「一般的に人は正しさを好むこと」「論理的な正しさを判断するのが難しい場合は、論理以外の基準で正しさを判断する場合があること」「その場合、対象によって正しさの判断基準は変わること」を簡単に述べたが、そもそも「正しい」とは一体どういうことなのだろうか。


初めの議論では、「多くの人が合意、納得できるような、少なくとも当事者が後悔しないような判断」だと述べた。また「多くの人に影響が及ぶ判断」においては、「最大多数の最大幸福を実現できる判断」だと述べた。この辺りをもう少し掘り下げてみたい。


確かに誰も神の視点を持ち得ない以上、絶対的な正しさはあり得ないため、「絶対的な正しさの定義」もあり得ない。なのでいくら正しさについて突き詰めて考えようとしても、その正しさはあくまでも共通了解の域を出ない。
そのことを前提として考えたときに、おおよそ上記に述べたようなざっくりとした定義となる。この定義こそ、正しさの裏付けも何もないのだが、共通了解の可能性を最大限に高めようとしたときに、自ずと導かれる定義だと考える。


だとすると、ここで一つ注目したいのは、「共通了解」と「幸福」の関係性である。「多くの人が合意、納得できるような共通了解可能性の高い判断」が、すなわち「最大多数の最大幸福を実現できる判断」だとすると、多くの人が幸福を求めていることの当然性が前提となっている。果たして本当にそうなのだろうか。
この問いについては、おそらく多くの方が実感を持って理解できることと思うが、ここではあえて論理的に説明することにこだわりたい。そのために、「自分の幸福を求める当然性」と「より多くの人の幸福を求める当然性」の二つの当然性に分けて考えてみたい。


まず「自分の幸福を求める当然性」については、「幸福」の定義を考えれば自ずと導かれる。
「幸福」とは、「不平、不満がなく、満ち足りていること」を表す。その反対を考えると「満ち足りていないこと」となるが、人が生きる上で「満ち足りていない」人生を望むことは考えにくい。誰だってできるなら不満は少ないほうがいいし、「満足した生き方をするためにどう生きるか」を日々模索していることと思う。

仮に「満ち足りた人生はつまらないから、あえて不満を求める」という人がいたとしても、それを求めている時点で、その人にとっては「不満のある人生」こそ、すなわち「満ち足りた人生」だといえる。そうなると、結局は「満ち足りた人生」に帰結することになる。言い換えれば、その人にとっては「不満があること=幸福」なのだから、幸福を求めていることに変わりはないことになる。

このように考えると、「幸福」の定義からして、人が自分の幸福を求めるのは当然といえる。


次に「より多くの人の幸福を求める当然性」についてだが、こちらは少々複雑になるので、順を追って考えてみたい。


まず先に述べた「自分の幸福を求める当然性」を前提とすると、全ての人は自分の幸福を求めて生きているといえる。ここで、「より多くの人の幸福を求める当然性」を「他者の幸福に生きる権利を侵害しない当然性」と言い換えると、それを満たさない態度は、誰かの「幸福に生きる権利」を侵害しうることに繋がる。


ここで持ち出したいのは、人々が長い歴史をかけて勝ち取ってきた「自由」の概念である。「自由=幸福」とは当然限らないが、人々が幸福を求める以上、「幸福に生きる自由」は保証されて然るべきである。

もちろん、それが保証されないことが前提である社会も多く存在してきたのもまた事実だが、自由を与える以上に市民を幸福にできた社会があったかといえば、それはおそらく否だろう。少なくとも人々の「幸福」という観点において、自由は保証しないよりするほうがベターであることはほぼ相違ない。


そのように考えたとき、誰かの「幸福に生きる権利」すなわち「幸福に生きる自由」を侵害することは、何を意味するだろうか。


人々の自由が保証されるための大原則として、「他者の自由を脅かさない限りにおいて」という前提が含まれる。その前提が保証されないと、誰かの自由と引き換えに、誰かが自由でなくなるからだ。
そうすると、「誰かの幸福に生きる自由を侵害すること」は、自分も自由でなくなるリスクに晒されることを意味する。それでは自分が幸福になれない可能性が出てくるので、自分が幸福になるためには、他者の自由を侵害しないことが条件となる。

つまり、全ての人が自分の幸福を求めていることが前提とされる限り、「他者の幸福に生きる権利を侵害しない当然性」すなわち「より多くの人の幸福を求める当然性」は、満たされることになる。



ここまでくれば、もはや言いたいことは明確である。
ここまでの議論で、「正しさ」とは、「最大多数の最大幸福を実現できる判断」といえることがわかった。だとすると、「正しさを追求する態度」は、すなわち「最大多数の最大幸福を追求する態度」ということになる。

「正しさ」にこだわることに何の意味があるのか、なぜ人は「正しさ」を好むのか、といった問いへの答えは、つまりそういうことである。「正しい」ことは、人々を幸せにするのだ。「正しさは世界を救う」というのは、大げさな誇張表現でも何でもなく、紛れもない事実なのである。



と、ここまで述べて、あまりにも正しさへの興味を断ち切れない自分を何としても肯定するために、わざわざこんなにも長たらしく書いてみたんだなと、改めて自分を否定したくない気持ちの強かさに驚かされる今日この頃である。


ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。