今日は、前回述べた「現代は正しさへのアクセス可能性が飛躍的に高まった時代だからこそ、限りなく正しさに近い意見の画一化が起きている」という現象について、その恩恵と弊害について述べてみたいと思う。



前回、「人々が多数派の正しさを疑わなくなり、虚構の正しさが暴走する可能性がある」ことについて、問題提起だけに留まってしまったので、まずはそのことも含めた、弊害の部分から述べたいと思う。


前回述べたとおり、ネットの発達とスマホの普及によって、基本的には、確かに多数派が統計的に正しくなる可能性はかなり高くなっているといえる。ただし「多数派=正しい」という図式があまりにも普遍的になり過ぎると、人々が自ら正しさを検索することをサボるようになり、もはや「その意見が多数派かどうか」ということだけを根拠に、正しさを判断しようとする可能性が出てくる。


これは例えば、ヤフーニュースであれば、そのコメント欄だけを見て、そのニュースに対する見解の正しさを判断しようとする、といった態度である。
こうした態度が多くの人々に常態化すると、前回「統計的に正しくない意見は自然に淘汰される」と述べたが、そうした正しさの自浄作用が働かず、ただただ虚構の正しさが肥大化し、やがて暴走してしまう現象も、大いに起こりうる。


フェイクニュースなどがまさにその典型だが、こうした現象は、特に正しさの判断が難しい問題や、人々の見解が分かれて拮抗する場合に起こりうる。実際は拮抗しているのに、虚構の正しさの暴走によって、あたかもある意見が圧倒的多数であるかのように見えてしまい、それにつられて人々がそちらの意見に偏ってしまう、ということになりかねない。


正しさというより、好き嫌いを判断する場面においてもまた、この現象が起きやすい。
例えば芸能人のゴシップ記事を想像してほしい。芸能人の好き嫌いの判断においては、「どちらが正しい」などは当然なく、個人の自由でしかないはずだが、そのコメント欄を見てみると、やはり画一的な意見しかない。批判されやすい人の記事はすべて批判的な意見で埋め尽くされ、好感度が高い人の記事は、好意的な意見で埋められる。
これは「そもそも好き嫌いの判断をするほどその芸能人に興味がない」という人々が、「多数派=正しい」という図式に何となく引っ張られ、画一的な意見を肥大化させていると考えられる。


今述べてきたことと関連して、もう一つ意見の画一化による弊害を述べると、それは「多様性の欠如」である。
もちろん、多数派を占める意見の大半は、基本的にはネット上にある膨大な情報やビッグデータに基づいて、ある程度は洗練されたものであるため、言ってみれば「多様性に揉まれた末に導き出された意見」といえる。
しかし、実際にその意見を根拠に正しさを判断しようとする人の多くは、その意見と「いいね」の数だけを見て、その正しさを確信し、自分の意見としてしまう。ゆえに、そもそもそれ以外にどんな意見があるかを知らず、見ようともしないのだ。

なぜその意見が正しいといえるのか、他にどんな考え方があり、それらはなぜ間違っているといえるのか、などについて、そもそも知らず、説明ができない。
そうした比較考量の機会の逸失は、人々の思考を短絡化させ、想像力を乏しくさせてしまう。
つまり、本来多様性に触れる絶好の場であるはずのインターネットが、正解主義に陥ることで、逆に多くの人から多様性を失わせている。



と、ここまで、人々の意見の画一化現象についての弊害ばかりを述べてきたが、最後にその恩恵についても、簡単に触れておきたいと思う。


まず一つは、正しさが洗練されることで、「一般的に見て明らかにおかしい」意見が正しいと判断される可能性が、極めて低くなったことが挙げられる。

ネットがない時代には、「正しさへのアクセス可能性が制限されていること」と、「普遍的に数の原理が働きにくいこと」を理由に、どうしても力が強い者の意見が支配的になりやすい側面があった。閉じたコミュニティでその成員も限られていると、どうしても原始社会に似た、弱肉強食に近い状況が生まれかねない。学校におけるスクールカーストや、スポーツ界にはびこる体罰容認の体育文化などがいい例だ。
しかし正しさが洗練されることで、そうした状況を予防したり、客観的な立場から異議を唱えたりすることが可能になる。


もう一つ恩恵を挙げるとすれば、先に述べてきた弊害をよく理解し、きちんとリテラシーを持った上で、真摯に正しさを追究する態度を忘れなければ、現代はそうでない時代に比べ、格段に真の正しさまでの距離が近くなったといえることである。

ネット上には、正しく検索することさえ怠らなければ、無数の多種多様な意見が転がっている。それらをどう認識し、理解し、自分の正しさの素養としていくかは、当人の態度次第といっても過言ではない。画一的な正しさを安易に鵜呑みにすることなく、常にその背後に隠された多様な意見にも想像力を働かせることで、限りなく真の正しさに近い考えに至ることが、少なくとも他の時代に比べたら、かなり容易になっているといえる。



と、「人々の意見の画一化現象」の恩恵と弊害について一通り述べたところで、今日はここまでにしたいと思う。

次回は、本議論における「正しさ」とはどういうことなのか、正しさを追求する態度がもたらしうる可能性について、もう少し掘り下げてみたいと思う。

最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。