【太閤立志伝Ⅴ】武将ステータス見直し計画2
先日よく一緒に遊んでいた親戚に土下座して謝罪している夢を見ました。
額が割れるまで地面に何度もぶつけて謝っているんですが
「絶対許さないぞ裏切者、謝るくらいなら今すぐそこで死ね」
と言われ、何度も謝罪の言葉を並べるこちらに対して
足で頭を踏みつけられた後に顔面を蹴られる夢でした…。
その親戚の子にある一件以降、後ろめたい気持ちがあるのは否定できないし
そうやって責められる事で許されようとしている、本心の顕れなんでしょうね。
そんな変わった夢を見て、汗だくで起きたぼくです。
ね!全然よくなってないね!!
ファッキン鬱病!!!
あれから色々切り離して考えられるくらいには、精神状態は安定方向に向かったと
そう思っていたのに、結局全くよくなっちゃいない。
まぁ……昔からキチガイだとか情緒不安定過ぎるとは言われていたので
良くなる訳がないんでしょうけどもね。
前置きが長くなりましたがそんな気持ちの悪い独白は要りませんね。
他に話題がないのでお察しください。
さて…以前にこんな感じのタイトルで書いた記事があったと思います。
その時に『評価が低い武将を再評価する』という形でステータスをここに書き連ねたと思います。
再評価する・ステータスを見直すという言葉に偽りはありません。
だが……『弱い武将を再評価する』と言ったな。
あれは嘘だ。
▂▅▇█▓▒░('ω')░▒▓█▇▅▂
正しくは『全体的に評価を改められる武将を再評価』する、です。
そりゃまぁ、ネットで調べられる範囲の事しか知らない糞雑魚プランクトンが
その武将や歴史の何を知ってるんだwwwwwwwww知ったか乙wwwwwww
ですよ。
そして別に隠すつもりでもないので今ここで名言しておきますと
某ほにゃららの野望等の、既に評価・再評価をされているステータスを
太閤立志伝5に合わせて若干弱体化のテコ入れをして
コンバートしてるだけに過ぎません。
まぁ中には個人的な感想で弄った武将も居ますが…。
これを見てしまった方は、そういう点を念頭に置いて頂き眺めて頂ければ幸いです。
筆者の掌はドリルです、いくらでも言い訳します。
さて…前置きが本当に長くなってしまったので、ここからちゃんと武将の事を記していきます。
飯田覚兵衛
統率57 武力59 政務24 知謀31 魅力41
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統率57 武力67 政務43 知謀48 魅力52
名を飯田直景、通称を覚兵衛という。
日本槍柱七本の一人に数えられ、加藤清正の三傑の一人。
若い頃より清正に仕え、槍を振るった。
しかし、この飯田覚兵衛…戦働きのみならず、普請も得意とし加藤清正公の居城で知られる
隈本城の築城には彼の才覚が遺憾なく発揮され、覚兵衛の手がけた180mに及ぶ
百間石垣の郭には「飯田丸」の名を残している。
他にも、名古屋城や江戸城の普請にも奉行として参加しており、覚兵衛の築城センスと
その技術の信用の高さが覗える。
清正没後の熊本藩が改易されると、清正の盟友であった黒田長政に召し抱えられた。
根津甚八
統率31 武力76 政務22 知謀46 魅力47
⇓
統率75 武力76 政務44 知謀48 魅力67
この武将は講談「真田十勇士」の登場人物の一人である。
そのモデルと思しき人物として、禰津小六(根津貞盛)という実在の武将が存在する。
一から全部書くと凄く面倒なので、端折った上に端折って記します。
大和絵師だった父と旅に出るが死別、丹波で豪族の家に居候している事があるが
後に何を思ってか海賊に転属。過去に筧十蔵が甚八の下で世話になっており、その頃に
十蔵と義兄弟になる。そして…来る大坂夏の陣にて、真田信繁(幸村)の影武者を務め
討ち死に。
一説に依るとその正体は浅井井頼であったとするものもある。
要は……『よくわからない』のである。
何せ現代まで現存している資料が、殆ど無い上に講談に依る所が多い為
そもそもの存在が疑わしいのだ。
ぶっちゃけ、偶像のヒーロー像みたいなものだから、皆好きに想像して☆
という所なんだと、ぼくは思っています。
浅井井頼
統率56 武力61 政務51 知謀53 魅力70 寿命42
⇓
統率66 武力82 政務69 知謀66 魅力75 寿命89
そして噂をすれば影。
浅井井頼も出自が不明瞭な人物。
あまり歴史に興味のない人からしたら、同じ浅井だから浅井長政と親子か何かだろ?
程度だと思う。実際関係上としては親子で間違いないと思う。
ただ、実子かそうでないかと問われると難しい。
インターネットで調べられる範囲でも解るが、その点も曖昧なのだ。
満福丸の弟で次男(または三男)とする説もあるが、養子であるという説もあるのだ。
そして上述した通り、根津甚八のモデルと目される人物でもある。
(面倒だから)詳しくは記さないが、もう少し知りたいという方はこちらを参照ください。
端的にまとめると、大坂夏の陣にて討ち死にしたという定説が一般的であるが
ぼくとしてはその後落ち延びて、京極作庵と名乗り松江で余生を送ったという説を推したい。
里見義康
統率39 武力40 政務49 知謀38 魅力51
⇓
統率48 武力51 政務49 知謀38 魅力51
……(´・ω・`)……
特に書く事がないです。
というのもですね…目立った戦績や、逸話が殆ど無いんです。
書けそうな事としては…『割と勝ち組の部類だった人』くらいですかね。
小田原の役前にちょっと太閤殿下の勘気に触れ、その後の文禄の役では
肥前名護屋にて滞陣するにとどまる。
関ケ原の戦いの際には、結城秀康の麾下に組み込まれ宇都宮城で
上杉軍の南下を阻むにとどまる。
殆ど大きな戦には駆り出される事もなく、最終的に12万石の国持ち大名になった
はっきり凄い偉人だ!とは言い難いかも知れない、そんな人物である。
まぁ…結局江戸幕府が完全機能する前に、病に倒れてしまった
ちょっと不幸な人に見えなくもないんですがね。
あと、一切大きな功績が無い訳でもなく…今現在残る館山城の改修を行い
近世の城下町を作り上げたという偉業がある。
千葉県に足を運ばれる際には、是非一度は訪れて見学して欲しい。
(別に千葉県からお金を握らされてる訳じゃないからね!!)
竹中重門
統率58 武力55 政務79 知謀60 魅力69
⇓
統率66 武力55 政務79 知謀74 魅力69
父は≪今孔明≫と名高き竹中重治、通称竹中半兵衛の嫡子。
かの林羅山に師事していた事もあり文筆にも優れていたという。
小牧・長久手の戦い、小田原の役に従軍し文禄の役では名護屋城にて駐屯
慶長の役では軍目付として渡海している。
そして関ケ原の戦い…始め重門は西軍に属していた。
同西軍の将、犬山城主・石川貞清を稲葉貞通・典通父子、稲葉方通、加藤貞泰
関一政ら諸将と共に援助した。
しかし東軍の中村一忠・一栄らに攻められると、加勢の西軍諸将は極秘に
東軍の将、井伊直政に密書を送り、内応を約定して引き上げようとした。
そしてその中には、重門も含まれており直政の仲介で東軍へと寝返る。
(因みに貞清がその後どうなったかは、こちらを参照されたし)
幼馴染である黒田長政と合力し、共に激戦地で奮戦する。
更に伊吹山に逃れ、関ケ原の庄屋にて匿われていた小西行長を捕縛する。
(この時、竹中家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞の両名が、共々行長の身柄を草津まで護送したと伝わる)
この功から徳川家康より感状を受けた。
その後は二条城の普請や大坂の陣にも参列しているが、いずれも大きな評価は見受けられない。
1631年江戸にて死去。享年は59.。
父・半兵衛の36年という短い生涯と比べれば、この時代の人間として見ると
結構長く生き永らえたのではないだろうか。
余談だが竹中氏は1万石未満の旗本でありながら、交代寄合として
大名同様参勤交代を赦される扱いを受けていたという…。
余程お上から信用されていたか、逆に警戒されていたのか…。
長宗我部盛親
統率62 武力72 政務31 知謀27 魅力64
⇓
統率73 武力72 政務33 知謀38 魅力70
以前津野親忠でも少し話が出た、軽すぎた頭の神輿の方。
幼名を千熊丸とといい、長曾我部元親の四男として生を受ける。
(どうでもいいけど有名な武将で千熊丸って幼名多いですよね…)
1586年の戸次川の戦いで、兄・長宗我部信親が戦死すると誰が家督を継ぐかという
身内同士の骨肉の争いが起こる。
父・元親も嫡男を喪った事に大きく落胆した程に、信親は将来を嘱望されていた。
かの織田信長公ですら、自身の養子に欲しいと言わせしめた程である…
興味のある方はこちらをご参照ください。
盛親は短気で粗暴で傲慢であった事から、家臣団の内でもあまり人望がなく
世子には相応しくないと反発する家臣も少なくなかった。
だがそこは(心が壊れかけの)パッパの力!!
逆らう者は総て天誅!!!そして反対意見を強引に黙らせた。
何故そうまでして盛親でなければならなかったのかという理由ですが…
超溺愛していた長男・信親の娘を、息子の誰かに娶らせたかったという説があります。
それには次兄・香川親和、三兄・津野親忠は些か歳が離れすぎている……。
おまけに既にこの二名は、他家の跡継ぎになっている。
じゃあ消去法で四男坊なら丁度良さそうだ!
なんて説があります。
まぁ真実は定かではありませんが…。
そして、既に時は豊臣政権下であるのに、何故名前に
豊臣秀吉に因んだん字が一切入っていないのか。
wikiやネットの書き込みだけを流し読みしているだけでは、その含む所は読み取れませんが
容易な推測として…豊臣に倅を奪われた事で恨みを抱いた、または信用を無くしたか。
奪われたと書きましたが、別に豊臣は直接命を奪ってはいません。
前に書いた仙石権兵衛の無謀な突撃が原因です。
で、そんな軍監を寄越した豊臣を恨む。そんなところでしょうかね?
ちょっとここまで長くなりすぎたので端折って…。
因みに長宗我部は関ケ原で、ちゃんと戦わせ貰えませんでした。
詳しくは宰相殿の空弁当を参照ください。
そうして長宗我部家は西軍に属しておきながら、干戈を交える事もなくすごすごと土佐に帰ります。
そして改易のお申し付け。
盛親「(^p^)」
まぁそこから更に替地の問題とかでもめるんですが…。
そこは以前津野親忠の項目で書きました、久武親直の讒言により
兄・親忠を殺☆害。
それからはもう滅茶苦茶や!な感じであっちもこっちも大騒ぎで一揆が起こる。
それが理由で替地の話も反故にされ、浪人にならざるを得なくなります。
更にそれから時は進み、大坂の陣に突入する。
ここも細かく書くと更に更に長くなるので、結末だけ。
部隊は大損害を受け大敗、盛親は大阪城に留まり戦闘には参加せず
戦の成り行きを見守った。
そして…京都八幡付近の橋本近くの葦に潜んでいたところを
蜂須賀至鎮の家臣長坂三郎左衛門に捕らえられ、伏見に護送された。
その後京都の大路を引き廻された後、六条河原にて斬られた。
また、盛親の子や親族も悉く山内らの手により処断された。
が……平成27年に、盛親の次男・盛高の子孫を名乗る人物が現れ
鐙の片方を蓮光寺に持ち寄ったというニュースが報じられた。
殆どwikiとか他サイト様の文言を参考にしているとは言え
完全コピペしてるわけじゃないから結構疲れました。
最後に書いた長宗我部がぶっちゃけ書ききれない!
情報量多すぎィ!!
しっかり誤字・脱字が無い物を読みたい方は是非自分でも調べてみてください。
特に盛親に関してはとても端折っているので、是非wikiだけでも全文目を通して頂きたい。
それでは、本日はこの辺で!