夢見親父 -4ページ目
<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4

自問自問2

自分は「闘争心」というものが少々欠けている…と思う。

もちろん「負けず嫌い」や「決して譲れない」という面は
あることはあるけれど、所謂「勝負してどっちが上か?」
…ということに関してはほぼ無関心に近い。
(もしくは無関心を装うことに慣れてしまったのかも)

どうしてこうなってしまったか?

原因はいくつか思い当たる。

もともと負けず嫌いなのだが、こと勝負ごとについて弱く、
また勝つための努力もせず負け続け、拗ねてこうなった。
気位があまりに高く「負ける」という事実と向き合えない。

要は「勝てない勝負はしたくない」→「闘わない」

まぁ、こんなところであろう。

一方、向上心が無い訳ではない…とも思っている。
しかし元凶は、今までの人生において全てが「そう」だったのだけれど、
ソコソコやってしまうとソレで満足してしまう…という悪癖である。

一つのことに異常なまで没頭する瞬間はあるのだが、
いつも極める前に飽きてしまう。

根気の問題なのか?

「我慢する」ということに関しては、仕事上もそうだが、
かなりのレヴェルまでは訓練されているバズだ。

やはり、「(勝てない)真実を知りたくない」ということなのだろうか。
それとも、「勝負するくらいなら逃げてしまえ」ということか。

そろそろ。
いくらなんでもそろそろ。
自分と向き合わなくてはいけない時が来ている。

センチモード

「夏」という季節を、この先あと何回迎えるのだろう。

もう少し真剣に生きなきゃ。
いくら何でも手抜きし過ぎだよな。

…なんて毎回同じようなことを想って。
そして知らないうちに最終回を迎えるのだろう。


やばい、泣きたくなってきた…ガーン


ぐうたらな己を少し懲らしめよう…と思ったんだけど…


やり過ぎたーっショック!

自問自問

「思いやり」って、あくまで"さりげないもの"であって欲しい。

「過度な思いやり」は脅迫になりかねない。

気を使い過ぎてしまうのは
=「私こんだけ尽くしてる」
=「私はここにいる」
=つまり自己満足。

結果として相手にも気を使わせる。

「思いやり」とは、ほんのちょっとの平和や安心・満足を与えるものなのだと思いたい。

自分が満足するために畏怖や窮屈を与えてはいないかい。
「思いやり」を装った武器で心の中に攻め込んでいないかい。

…などと。
疲れてくると「こういうこと」を考え始める。

しかも、「こういうこと」を人目につくような処に平気で書くのは、
まさに思いやりがないことの証なのだ…とも思う。

スタート

ヒトには
「出来ること」と
「出来ないこと」があり、
また、
「やりたいこと」と
「やりたくないこと」がある。


出来ること = やりたいこと
…かと云うとさにあらず、
出来ないこと = やりたくないこと
…も同様。


計算得意だけど、経理の仕事をしたい訳じゃない。

ピアノは弾けないけど、ピアニストになりたかった。

…とかね。


何が自分に向いていて、何が不向きなのか。
何がやりたくて、何がやりたくない事なのか。

自分でもわからないけど、
自分にしかわからない。


スタートにしては「メンドクサイ」ことを書いているけれど、
これが肝心。


そんなようなことを綴っていけたら。
少しでも永く。


と願いを込めてみる。


<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4