学びは螺旋状に展開してゆく。

つくづくそう思います。


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幼い日々を過ごした16階建てのマンションには螺旋状の非常階段がありました。

非常時に使った事はなくて、何キロも先で行われる花火大会を観覧する時に行ったり来たりしたのを思い出します。

大体10階くらいから眺めるのですが、幼い私は途中で飽きて螺旋階段を登る事に夢中になります。

階段は目隠しなどされていない為、ふと外側に目をやれば大パノラマが広がります。高いところに登るのが好きなのは〇〇?、、、なんて言葉もあるけれど、じつは高所恐怖症。

登りたいけど怖い。

怖いけれど見たい。

ある年の花火大会の時、1階から登ってみようと思い立ったのです。

始めのうちは一段づつ数えたり、友だちや兄弟とふざけ合いながら登っていきます。

そのうち疲れてきて1人減り、2人減り、、、。

「もうやめよっかな」と思ってふと外を見ると、視点がぐっと高くなった事にきがつきます。見慣れた景色なのに、いつもよりちょっと拓けた感じです。

面白いなあ。

登れば登るほど少しづつ光に近くなるような気がしてきます。劇的に景色が変わる事はないのですが。

この時、私の中で「やめないで一歩ずつ」の成果を何処かで感じていたのかもしれません。

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英語独学を始めてから、意外と足を引っ張られるのは教材との相性ではなく「どういう姿勢で取り組むか」「どういう風に気持ちを保つか」だったりします。

なぜかなと思うと、英語に限らず、何か一つを選びとって取り組んでいくと、

小さい事にとらわれずガンガン進め!の時期と、

1つ1つを拾い上げて歩け!の時期が交互に訪れるからです。

この二つのフェーズの切り替え時期が不安を呼び起こします。

ーやり方が間違っているんじゃないか?

ー今まで無駄なことをしてきたんじゃないか?

ーいくらやってもダメなんじゃないか?

実際はそうではなくて、一周してちょっと高い視点になって戻ってきただけ。

目を凝らしてみれば、一周前よりも視野は広がっているのです。でも、その一周はほんの誤差なんです。

変化というとどこか劇的なものとインストールされているわたし達には誤差はあまりにも誤差なので気がつかないのです。


そうであっても、この二者間を行ったり来たりしながら少しずつ螺旋階段を登っていく。

これが私の英語学習のイメージです。


あの夏の幼い日、近所迷惑だと怒られた階段登りではあるけれど、まさかうん10年たって、英語独学の心の支えになるとは。


これまで頑張ってきてくれた過去の自分に感謝しようと思う。

無駄なことは1つも無い。

、、、てな事をつらつら書かないとやってられないなあという時もある(笑)

書いたものを見直しますか?
覚えるまで突き詰めますか?
正直なところ、わたしは書きっぱなしです。
通勤時にちらっと見ることはあっても、マスターしてから次!、ということはあまりしません。
どんどん入れて、どんどん忘れて、忘れたら何度でも同じことを調べて・書きます。
僅かに残ったものが、身についたこと。