共有スペースでは、いろんな人たちが行き交い居合わせます。



電車、飛行機、バス、駅、飛行場、

ショッピングモール、レストラン、ホール、エレベーター、職場の休憩室や廊下まで。



まったり幸せな人、

楽しくて仕方のない人、

単にヒマな人、

ゲームに夢中の人、

重要な試験を控えている人、

会議のプレゼン前で頭がいっぱいの人、

重い病気で病院に通っている人、

失意のどん底にいる人




ほとんどの人は良識のあるふるまいをして、人に迷惑がかからないようにしているものですが、



しかし、残念なことに、一部の良識のない方が公共の場で、あるまじきふるまいをするー



大きな音を立てたり、大声で話したり騒いだり、要するに、そこに居合わせた人たちへの愛や思いやりが足りない行いをしているのも事実です。




当の本人は、それが公共の場の迷惑行為であるとわかっていない、ことが、問題解決を阻む最大のポイントですね。




公共の場でのマナー、つまり居合わせた人への愛や思いやりを示す行為は、勉学や学習と同じくらい大事であることの認識が足りていないのです。



おしゃべりにおける必要にして最小限の音量の訓練という教育が、学校で教わるのではなく、各家庭の躾に任されてきたために、



どんな家庭環境で育ち、その人を取り巻くのがどのような社会環境か、にすっかり委ねられてきた結果なのです。



公共の場でのおばさんのおしゃべりの声がとても大きいのは何故でしょうか。



あの世代の多くを占める専業主婦は、一日の大半を自宅で過ごし、家族の社会活動を垣間見て身の回りのお世話することでしか、社会との接点がない、からではないでしょうか。



要するに、自分で生活費を稼ぐ苦労をすることがなく、自分の身が直接社会に触れることがないために、そのような環境にいる人が公共のマナーに理解が乏しいのも無理はありません。



朝の通勤ラッシュ時に、今日一日の仕事のスケジュールに思い馳せたり新聞を読んだり、睡眠不足を補うべく目をつぶる人たちの中、



おばさんがハイキングの出で立ちで大きな声でこれからの道程を楽しく談笑したり、自分たちが電車を降りる人の邪魔になっているとは思いもせず、押されないように大騒ぎして踏ん張ったりする様子は、本当に目も当てられません。



カフェやランチタイムのレストランなどでも、きっと同じようなことが繰り広げられているから、「 おばさん」と言われるのでしょう。



そのような人に育てられた人は、社会に出てから徐々に学習していくことになるのでしょうか。




欧米では、たとえば夕食のときに、同じテーブルを囲んだ人たちと楽しいおしゃべりをするのは、むしろ大事なエチケットですが、



その声の音量が決して他人のおしゃべりの邪魔にはならない程度の大きさであること、このコントロールの訓練が、日本の作法を含む教育には欠けている、というのは明白です。


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イギリスの小学校の給食の目的が、実にこの教育のためだというのを聞いて驚いたことがあります。



学校給食の目的のひとつは、集団で食事をするときの美しい会話が、いったいどの程度の声のセーブを必要とするかを身につけさせることだと。



日本人も、ある場面では他国から賞賛を受けるほどの礼儀正しい民族なのですから、そこを糸口に、ホンモノの美意識が広まっていけば、と願うばかりです。



そうして、静かに話すマナーが身につければ自ずと、



適切な場所では携帯をマナーモードにしたり、


キー音をオフにしたり、


飲食スペースでなくちゃんとトイレで赤ちゃんのうんちのオムツ替えをしたり、


爪を切ったり、家族どなりあいの喧嘩は家の中で、


咳が出ている時はマスクをしたり、


電車の中ではメイクや縫い物をせず、


禁煙場所でタバコを吸ったり、歩きタバコをしたり、吸い殻を道にポイ捨てしたりせず、


電車の中に匂いのキツイ食べ物を持ち込んだり、キツすぎる香水をつけたりせず、


犬の散歩で飼い主が糞を片付けなかったり、


公共の場で走り回る子供を親が注意しなかったり、スーパーのカートのカゴに子供を土足で乗せたりしない、



つまり、居合わせた人たちに愛と思いやりを持ったふるまいもできるようになるのでは、

と期待します。




一方で、高齢で耳が遠いために声が大きな方や、あやしても泣き続ける赤ちゃんには、大らかに許せる、そんな、あたたかい社会になることにも。