(続きです)

 

 

カウンセリングで私が父親のことを話すと、先生は「じゃあ、そのお父さんのことを今はどう思う?徹底的に『異常だ!』とやってみて。」と言いました。

 

だけど私はここから、何一つ父を「異常だ!」と糾弾することができませんでした。

父を糾弾しようとして色んなことを思い出すと、子供の頃の悲しさとか辛さが蘇ってきて、泣くことしかできなかったんです。

 

 

 

そうしたら先生が見本を示すように、私の代わりに父のことを『異常だ!』と言い始めました。

 

「子供の成長を潰すような事ばかり言って、そんなのは暴力だよね。絶対にやっちゃいけないことだよ。」とか。

 

「子供の心に暴力振るって、自覚もないなんてどうかしてる。」とか。

 

先生は色々と言っていて、私はそれを泣きながら聞いていました。

 

だけど先生が「だいたい、仕事ができる人っていうのは大変がったりしないんだよ。大変がるよりも、楽しんだり面白がったりしているの。大変だ大変だって言ってる人は仕事のできない人。できないから大変だって言ってるの。」と言った時、私は咄嗟に訂正したんです。

 

「父は、仕事が大変だって実際に言っていた訳じゃないんです!家で不機嫌そうにしていた父を見て、私が勝手にそう感じただけなんです…。」って。

 

咄嗟に言った自分の言葉に、私はすごく違和感を覚えました。

どうして私は父を庇ったのだろうか…。

 

 

 

この違和感について考えていた時にふと思ったというか、わかったんです。私はどうして父のことを「異常だ!」と書けなかったのか。

 

勘のいい方はもう気付いているかもしれないですけれど…。

 

私は幼稚園の頃にみんなの前で挨拶をする父を見て、嬉しかったんですね。あの時「わたしのおとうさん、すごいでしょ!」とすごく誇らしかったんです。

私はできることなら、そんな父のことを徹底的に「異常だ!」なんてやりたくはなかったんだと思いました。

できることなら父には、私の中でずっと誇れる存在であってほしかったんです。

 

だから先生に「そんな人は仕事ができない。」と言われたのが嫌だったんだと思います。幼稚園の頃に戻ったような気持ちになって「違う!私のお父さんは仕事ができるもん!」と主張したくなったんだと思います…。

 

 

 

だけど仕事のできる誇らしい父親像を抱えていたら、私はいつまで経っても父に支配され続けて憂鬱に生きていくことになりますよね。

 

この父親像をズタズタに壊してしまえれば、私はきっと、物凄く楽になるような気がしているんです。

そしてこれが総大将じゃないか、とも薄々感じています。(薄々かよ)

 

 

なかなか捗らないんですけれどね…。

頑張ります。