鎌倉時代の終わりから南北朝にかけての動乱の時代。公家の出自でありながら文武両道に優れ、合戦では足利尊氏と互角以上に渡り合った若き美貌の武者がいたことをご存じでしょうか?彼の名前は北畠顕家。後醍醐天皇の腹心として仕えた北畠親房の子として生まれ、16歳のときに、のちに南朝の後村上天皇となる義良親王を奉じて遠く陸奥国へと下向し、幼い義良親王を支えつつ、厳しい東北の地で後醍醐天皇の覇業を支え続けます。足利尊氏が鎌倉で反旗を翻した際には、自ら陣頭にたって戦い、尊氏を畿内から追い落とす武功を立て、九州へ落ち延びた尊氏が反撃を開始すると、再び遠征の途につき鎌倉を陥落させる活躍を見せます。しかし、度重なる合戦から次第に劣勢に立たされ、石津の戦いで遂に高師直に敗れて、数え年にして僅か21歳の短い生涯に終止符を打ちます。北畠顕家はどういう人物だったのでしょうか?
鎌倉時代の終わりごろ、ちょうど後醍醐天皇が即位した文保2年(1318年)3月2日、北畠顕家は北畠親房の長男として生まれます。父は、後醍醐天皇の寵臣として仕え、南朝の正当性を主張する「神皇正統記」を著した北畠親房。顕家14歳の頃に「元弘の乱」が起こり、世相は騒然となります。後醍醐天皇は密かに討幕の計画を立てていましたが、ことの次第が幕府の知るところなり、後醍醐天皇は窮地に立たされます。当時の鎌倉幕府は北条得宗家が政治の実権を握っていましたが、モンゴルによる元寇以来、御家人の間に不満が高まりつつあり、後醍醐天皇を中心とする討幕の計画も、こうした風潮の中で練られたものでした。
実はこれ以前にも討幕の計画が練られたことがありましたが、その時も幕府に計画が露見し、罪が天皇自身に及びそうになったのですが、その時は必死の弁明により難を逃れたといった経緯がありました(正中の変)。そのため、今回ばかりは幕府の追求から逃れられないだろうと思い詰めた後醍醐天皇は、京を抜け出し笠置山へと立て籠もります。ところが、笠置山は幕府軍にあっけなく攻め落とされ、後醍醐天皇は隠岐の島へと流されてしまいます。ところがその後、日頃より北条氏の専横に憤る御家人らの不満が、これを機に爆発し、護良親王や河内国の楠木正成、播磨国の赤松円心らが各地で蜂起します。周囲の武力蜂起はさらに広がり、幕府側から後醍醐天皇方へと寝返った足利尊氏により六波羅探題が陥落し、さらに新田義貞により鎌倉が攻め落とされて、鎌倉幕府はあっけなく滅亡してします。
こうして念願叶って討幕に成功した後醍醐天皇は、後に「建武の新政」と呼ばれることになる、朝廷を中心とした新しい国づくりをはじめます。後醍醐天皇は、自らの政治的な試みのひとつとして、時期は異なるものの、日本各地に自らの皇子を送り、その先で拠点化をすすめていくことになるのですが、その拠点のひとつとして陸奥が選ばれ、ここに義良親王を据えて陸奥将軍府とします。その目的は東北から関東にかけての支配を確実にしていくことでした。そしてその際に、陸奥守として選ばれたのが北畠顕家でした。(元弘3年(1333))ちなみに、同じ頃に成良親王が鎌倉へ送られて鎌倉将軍府がつくられています。
陸奥将軍府が立てられた陸奥はかつては蝦夷の治める地であり、荒くれ武者の住まう坂東からさらに遠く、鎌倉時代にはいってからもこの地が「辺境」の扱いであったことに変わりはなかったかと思われます。しかも寒冷地であることから冬の寒さはひときわ厳しく、武士たちを含めてそこで暮らす人々を統治するのは至難のことであったものと思われますしかもこの当時、義良親王がわずか6歳の若年ならば、それを補佐する顕家も16歳でしかなく、父の北畠親房が行動を共にしていたとはいえ、さぞ歳若い二人には厳しい環境だったのではないかと思われます。しかし、何不自由なく育てられたであろう都育ちの若者は、多感な年頃をこの厳しい奥州の地で過ごすことで、自らを逞しい人物へと成長させていきます。
さて、こうしてはじまった「建武の新政」でしたが、武士たちの心をつかむことは出来ず、僅か2年半ほどで崩壊してしまうこととなります。その最初の綻びは、足利尊氏による謀叛という形であらわれることとなります。過去に関連動画をあげていますので、この動画の備考欄からご覧頂けたらと思いますが、この時の尊氏謀叛の切っ掛けとなったのは、鎌倉幕府の執権であった北条高時の遺児である時行が武力蜂起して鎌倉を攻め落とした中先代の乱にありました。この時、後醍醐天皇の許可を得ることなく鎌倉に出陣した足利尊氏は、時行軍を打ち破り鎌倉を制圧しますが、そのまま鎌倉にとどまり、功績のあった武士たちに、勝手に恩賞を与えてしまいます。このことが後醍醐天皇の怒りをかい、足利尊氏は反乱軍として新田義貞を差し向けられてしまうことになります。この戦いは、結局、鎌倉へ攻め上った新田義貞の敗北という形となり、敗れた義貞は京へと逃げ帰ってしまいます。勢いにのった尊氏軍はそのまま攻め上って京を制圧。ここに至って後醍醐天皇による建武の新政は瓦解してしまうのですが、この時、尊氏討伐に奥州から挙兵したのが北畠顕家でした。
顕家は(太平記によれば)5万の軍勢を引連れて上洛を開始すると、瞬く間に鎌倉を制圧。そのまま勢いに乗って畿内へと兵を進めます。驚嘆すべきは、この時の行軍スピード。本拠地の多賀城から近江坂本までの1000キロメートルの距離をわずか二〇日余りの間に駆け抜けます。これはスピードにすると、一日50キロほどの速さでで駆け抜けたことになり、まさに豊臣秀吉による「中国大返し」を上回るスピードでした。この驚異の行軍スピードを生み出した要因のひとつは、糧秣の問題を徹底した略奪に頼ったからともされています。顕家の奥州軍が通った跡地には、太平記がいうところの、「在家の一宇も残らず草木の一本も無かりけり」の状態であったとか。ともあれ、顕家は各地で尊氏方の軍勢を破り、ついに畿内へと到達します。
この頃、後醍醐天皇は京を脱し、比叡山延暦寺の後援のもと近江坂本に籠り、楠木正成や新田義貞らとともに京に居座る足利尊氏の軍勢と戦っている最中にありました。顕家は坂本に到着後、後醍醐天皇に謁見を果たします。思い起こせば歳若き少年の頃、後醍醐帝の前で「陵王」を舞ってから5年、その舞の美しさ、凛々しさから「花将軍」と称えられた若者が、今奥州の精鋭を引き連れ、希望の光となって後醍醐天皇の御前に姿を現したのでした。あの頃、顕家が披露した「陵王」は、中国北斉の美貌と武勇を併せ持つ武将がモデル。陵王は、獰猛な容貌の仮面を身に着けて戦っては次々と勝利をものにしていったといいます。その猛々しい姿を一面にもつこの若者が、まさに後醍醐天皇の窮地を救うべくこの場に姿をあらわしたのでした。味方の士気はいやがおうにも高まりました。
北畠顕家の到着で勢いを得た、楠木正成、新田義貞ら後醍醐天皇方の軍勢は、京に立て籠る足利尊氏の軍勢と戦い、尊氏を京より追い落とします。この勝利を喜んだ後醍醐天皇は北畠顕家を鎮守府大将軍に任じ、大将軍の称号を許します。その後、尊氏はなおも畿内に踏みとどまり京の奪還を目論みますが、摂津国の豊島河原で顕家らの軍勢に敗れて、さらに九州へと落ち延びていきます。後醍醐天皇は尊氏追討を命じ、北畠顕家は新田義貞とともに足利軍の残党を追って各地を転戦し、京へと凱旋を果たしますが、奥州で蠢動する足利方の勢力を討滅するため、帰還の途につくこととなります。
こうして遠征は一応の成果をあげたものの、尊氏を取り逃がしたことがその後の運命の暗転をもたらすこととなります。畿内を追われたのと同じ年の、南朝の延元元年、北朝の建武3年(1336年)3月、九州へと落ち延びていった足利尊氏は、多々良浜の戦いで後醍醐天皇方の菊池氏を破ると、そのまま勢いをつけて上洛戦を開始したのです。そして、湊川の戦いで楠木正成と新田義貞の軍勢を打ち破ると、瞬く間に京を奪還、後醍醐天皇はまたもや廷臣らとともに比叡山へと逃れ、抗戦を余儀なくされます。
この時、後醍醐天皇や廷臣らと共に比叡山に立て籠もったのは、新田義貞や名和長年、千種忠顕ら後醍醐天皇股肱の臣らであり、楠木正成はすでに亡く、北畠顕家も遠く奥州にあってすぐに援軍に駆けつけることが出来ない状況にありました。しばらく一進一退の攻防が続くなか、次第に後醍醐天皇方の力は削がれていき、名和長年や千種忠顕らも討死してしまいます。窮地に陥った後醍醐天皇は、三種の神器を差し出すことで足利尊氏と和睦を結びます。この時、和睦に反対していた新田義貞は、後醍醐天皇の二人の親王をつれて比叡山を抜け出し、木の芽峠を越えて金ヶ崎城へと落ち延びていきます。
かくして建武の乱は終息に向かうかに見えましたが、その後、花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が京を抜け出し吉野に籠るという事件が起きます。そこで後醍醐天皇は、尊氏に渡した三種の神器は偽物であり、正当な朝廷は吉野にあることを宣言。ここに、その後60年余りにわたって続くことになる南北朝時代がはじまるのです。
その頃、北畠顕家は活動の拠点を多賀城から霊山城にうつしていましたが、奥州は足利勢がいまだ勢力を保つなど状況は芳しくなく、上洛できる状況ではありませんでした。それでも、後醍醐天皇や北畠親房からの度重なる救援要請に抗し切れず、ついに再度の上洛を決意します。ときに、南朝の延元2年、北朝の建武4年(1337年)8月11日、北畠顕家は霊山城を後にし、南下を開始します。『太平記』によると、このときの軍勢は奥州54郡から集められ、その兵力は10万余騎であったとされています。そしてこれが彼の最後の遠征となりました。
奥州軍は以前ほどのスピードはないものの、各地で足利方の勢力を打ち破ります。8月11日に義良親王を奉じて霊山城でた遠征軍は、8月19日には白河関を越えて下野に入り、12月8日には足利方の小山城(祇園城址)を落として小山朝郷を捕え、12月13日に利根川の戦いで斯波家長を破ります。そしてその勢いのまま鎌倉に攻め入り、12月24日にはこれを陥落させます(杉本城の戦い)。この一連の勝利により関東一円から味方となる武士が駆けつけるようになり、太平記によればその数は50万にも膨れ上がったといいます。その後も進撃は続き、1月2日に鎌倉を出発した顕家は、1月12日に遠江国橋本、1月21日に尾張国、その翌日に黒田宿に到達します。そして、待ち構える足利軍の主力を美濃国の青野原で打ち破ります。(青野原の戦い)
このまま勢いにのり、北陸にいる新田義貞と合流(この当時金ヶ崎城は落城し義貞は杣山城にいた)すれば、再び京の都を奪還するのも十分可能なように思われました。しかしどうしたわけか、顕家は義貞との合流を選ぶことなく、伊勢方面に大きく舵を切ります。新田義貞と不仲であったとするなど諸説ありますが、ともあれこの頃には、さしもの奥州軍も度重なる戦闘に兵力の損耗は大きく、疲労は限界は近づきつつありました。
その後も北畠顕家と奥州軍は、足利方の北朝軍と戦闘を重ね、2月14日に櫛田川、2月21日に三条口、2月28日に般若坂と戦いは続き、この般若坂の戦いで顕家軍は敗北を喫します。この頃には顕家も敗北を悟ったのか、ともに上洛戦を戦った義良親王を吉野の後醍醐天皇のもとへと送り、自身は河内国に退きます。その後も一進一退の攻防は続き、天王寺、阿倍野と戦闘を重ねます。その最中にあって、顕家は後醍醐天皇にあてた諫奏文を書き残します。それは、建武の新政が失敗したことに鑑みて、帝王として行うべき政治の姿をさししめしたものであり、顕家の遺言となるようなものでもありました。
そして迎えた最後の日、南朝の延元3年、北朝の暦応元年(1338年)5月22日、北畠顕家は「石津の戦い」で高師直率いる北朝軍と合戦に及び、落馬したところを遂に討ち取られます。享年21歳でした。
いかがだったでしょうか?一般的に南北朝時代というと、日本史の中ではそれほど親しまれていない時代といった印象がありますが、北畠顕家ともなると、とりわけほとんど知られていないといったところではないでしょうか?そういった存在でありながら、実はこの時代においてもっとも活躍した武将の一人であるともいえるでしょう。足利尊氏が鎌倉で反旗を翻し京を占領したときも、もし北畠顕家と彼の率いる奥州軍がいなかったならば、尊氏が京を追われ九州へ落ち延びることもなかったでしょう。尊氏からすれば最も恐れるべき存在だったのかも知れません。もし顕家がその後も生き続けていたらなば、歴史はもっと違う形になっていたのかも知れません。
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