現在、Youtubeの動画で『保元の乱』を扱ってみようとおもい、その関連記事を書いてみました。保元の乱は平安時代の終わりごろに京の都で起きた合戦でしたが、「治承・寿永の乱」いわゆる「源平合戦」ほど知られていないかも知れません。しかし源平合戦を語るには避けて通れないほどの大きな出来事であり、日本史における大きな転換点になったことには違いないと思うのです。
動画も制作しました。
ご興味のある方はご覧いただけるとありがたく思います。
保元の乱は平安時代の終わりごろに、京都を舞台に行われた戦いでした。西暦794年(延暦13年)に桓武天皇が長岡京から平安京、つまり今の京都へ都を移して以来、「薬子の変」を除いて兵乱はなく、平和な時代が過ぎていました。保元の乱は、そのミラクルピースを破り、日本を動乱の中世へと導くことになります。そもそも保元の乱は、朝廷内部の皇位継承をめぐる問題に、様々な人物や勢力などの思惑がいりまじって引き起こされた戦乱でした。
しかし不思議ではありませんか?皇位継承をめぐる争いでごとであれば、平安時代を通していくつも存在してきましたが、このような大きな兵乱には至っていません。それなのになぜ保元の乱だけが、京で武力衝突するという事態にまで至ったのでしょうか?もちろん、この当時台頭しつつあった武士たちの存在も大きいでしょう。しかし、この当時の武士たちの力は限定的であり、彼らだけで京の都を舞台に兵乱を起こすほどの力があったわけではありません。では、何故なのでしょうか?まずは、その謎を解きつつ話をすすめていきたいと思います。
てはまず、保元の乱が起きた時代背景から!
保元の乱の時代背景~院政のはじまり~
時は「保元の乱」が起きる85年ほど前の延久4年(1072年)、後三条天皇は20歳となる貞仁親王に皇位を譲り太上天皇となります。後に院政をはじめる白河天皇です。
白河天皇(白河法皇)
後に院政をはじめることになる人物です
父の後三条天皇は170年ぶりに藤原摂関家を外祖父にもたない天皇として登場し、延久の荘園整理令など藤原摂関家に依存することのない政治を行った人物でした。彼の四年にわたる治世により、藤原摂関家は打撃をうけ、摂関政治の全盛期は終わりを迎えます。
後三条天皇について知りたい方はこちらの動画をご覧ください
後三条天皇が皇位を譲ったのは、自らが天皇を後見して政治を行う事で、藤原氏の介入を防ぐためともいわれていますが確かなことは分かっていません。後三条天皇は位を譲ってまもなく病没してしまいますが、その後、白河天皇は子の善仁(たるひと)親王に位を譲ると、自らは太上天皇として堀河天皇を後見するようになります。
それにしても、白河天皇はなぜこのような政治形態を思いついたのでしょうか?そもそもの動機のひとつとしていわれているのが、藤原氏の権力を抑制するためというものでした。外祖父として歴代の天皇の後見役として権勢を振るってきた藤原摂関家でしたから、白河院が直接後見する立場にあれば、そこに彼らの入り込む余地はないというものです。そういう意味では白河天皇は後三条天皇の方針を継承したといえるのかも知れません。
白河上皇による院政の時代は長く続き、政治形態も大きく変化します。まず変わったのは朝廷の上に「院庁」(いんのちょう)という上皇や法皇が政務を行う上位機関がつくられた事でした。院庁には、通常ならたとえ有能であっても栄達できないような中級・下級の貴族の多くが登用され、院の政治を補佐する体制がとられるようになります。彼らは「院の近臣」と呼ばれるようになります。地方の政治も大きく変わりました。院政期にはいると、知行国主が登場するようになり、院の近臣らが任命されるようになります。知行国主は国司の人事権を掌握し、国司は知行国主の意に沿うような政治を行うようになります。知行国からの収入は院の近臣らを潤すとともに、治天の君たる上皇や法皇の懐を潤します。
院政の時代には、武士たちの中央への進出も加速します。代表的なものに伊勢平氏の存在があります。彼らは桓武天皇にルーツを持ち、そのうちの一部が伊勢に土着して伊勢平氏となります。そして平正盛の時代に白河院に引き立てられ、院の近臣として頭角をあらわします。一方、河内源氏も京へと進出します。こちらは清和天皇にルーツを持つ軍事貴族でしたが、前九年の役などで武勲をたてて朝廷により引き立てられます。こちらはとくに藤原摂関家と深い関わりをもつこととなります。簡単ではありますが、以上が時代背景となります。白河法皇による院政の時代は長く続きますが、その治世のなかで、やがて保元の乱につながる人物が登場します。それが崇徳天皇でした。
崇徳上皇
ここからは保元の乱の中心となるキーパーソンを軸に話を展開していきましょう。
崇徳天皇(崇徳上皇)
後の保元の乱において反逆者となり隠岐島に流されることになる崇徳上皇は、白河法皇の時代、鳥羽天皇の第一皇子として誕生します。諱は顕仁で、同じ父母のもとに後白河天皇も生まれています。母の藤原璋子、のちの待賢門院は性的奔放さが噂になるほどの人物であり、養父の白河院が藤原忠実に嫡男忠通との婚姻を持ち掛けた時にも、その噂をもとに忠実が婚姻を断るほどだったようです。璋子のことで頭を悩ませた白河院は、璋子を鳥羽天皇の中宮として入内させます。その後しばらくして後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれますが、鳥羽天皇は顕仁親王を叔父子と呼んで忌み嫌います。実は、入内後もしばしば璋子は白河院のもとに通っていて、世間では顕仁親王はじつは白河院の子ではないかとの噂が立つほどでした。事の真相は定かではありませんが、証拠はないにしても噂が立つということは、それだけ崇徳天皇にとってマイナスだったことに変わりはないでしょう。
保安4年(1123年)、白河院は鳥羽天皇に顕仁親王への譲位を迫ります。このとき鳥羽天皇二十一歳、顕仁親王わずか五歳。白河院としては、壮年を迎えようとする鳥羽天皇のもとでは、院政は難しいと考えてのことでしたが、自分と血のつながりがないであろう叔父子の顕仁親王に位を譲るのは、計り知れない屈辱であったことでしょう。しかし治天の君として君臨する白河院の意向を無視することはできませんでした。
鳥羽天皇(鳥羽法皇)
こうしてまたしばらくは白河院による院政は続いていきましたが、その治世はいつまでも続くわけではありません。大治4年(1129年)7月7日、白河法皇は崩御します。享年七十七歳。院政をはじめてから四十三年、太上天皇となってからは堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と三代の天皇を後見した、長い治世の終わりでした。
ここで、白河院の崩御を受けてついに治天の君となった鳥羽院の崇徳天皇への復讐がはじまります。永治元年(1141年)、鳥羽上皇は崇徳天皇を譲位させ、自身と美福門院との間にうまれた躰仁親王(なりひとしんのう)を近衛天皇として即位させます。この時、近衛天皇はわずか三歳でしかありませんでした。鳥羽上皇が院政を行うために幼い天皇を擁立したのは明らかでした。崇徳天皇としては譲位はしたくないところでしたが、鳥羽上皇の意向には逆らえないのと、躰仁親王は崇徳上皇の養子ともなっていたため、譲位すれば治天の君となれる可能性もあったため、しぶしぶこれに応じます。ところが即位の日の宣命には「皇太弟」と記されてあり、ここで崇徳天皇は自分が騙されたことを悟ります。後継者が弟では院政はできませんよね。
意に沿わない退位を強いられた崇徳上皇は、しかしまだすべてをあきらめたわけではありませんでした。崇徳上皇には第一皇子の重仁親王がおり、このとき美福門院の養子となっていたため、もし病弱だった近衛天皇が後継者不在のまま亡くなるようなことがあれば、治天の君として君臨することも夢ではありませんでした。事実、近衛天皇は久寿2年(1155年)7月23日、にわずか17歳で崩御してしまいます。これを受けて、後継の天皇を決める王者議定が開かれましたが、なんとここで決まったのは、崇徳の同母弟である雅仁親王の即位でした。こうして雅仁親王は後白河天皇として即位します。
これはあきらかに崇徳上皇を貶めようとする美福門院や院の近臣の信西らの策謀によるものでしたが、それにしても、なぜ彼らは崇徳上皇を忌避したのでしょうか?鳥羽法皇の崇徳上皇を憎む気持ちのあらわれでしょうか?
実はこの当時、近衛天皇の病没は、崇徳上皇に近いとされていた藤原摂関家の頼長による呪詛によるものとの噂があり、鳥羽院や美福門院などによって信じられていたようです。頼長は日記により、そのような事実を否定していますが、仮に崇徳上皇が治天の君として実権を掌握したならば、誰が損をするのでしょうか?
まず美福門院はどうでしょうか?彼女が鳥羽院に寵愛される以前、鳥羽院の寵愛を受けていたのは崇徳上皇の母である待賢門院でした。待賢門院には白河法皇の後ろ盾があり、白河院が存命であればこそ宮中で影響力を持ちえたのですが、白河院が亡くなると、代わって美福門院が寵愛されるようになり、待賢門院は蚊帳の外に置かれてしまいます。こうした中で、待賢門院は美福門院を呪詛したとされる事件を起こし失脚してしまいます。待賢門院は失意のなか落飾し、保元の乱が起きる10年ほど前に亡くなっていました。崇徳上皇からすれば、美福門院は亡き母の敵ともなりえそうです。
藤原璋子(待賢門院)
藤原得子(美福門院)
では信西ら院の近臣としてはどうでしょうか?そもそも崇徳上皇は藤原摂関家の藤原頼長に近いとみなされていたため、崇徳上皇による院政は彼らにとっても都合の悪いものとなりそうです。そもそも、後三条天皇以降、没落しつつあった藤原摂関家に代わって院政が登場し、院の近臣と呼ばれる人たちが権力の中心に躍り出たわけですから、藤原摂関家が崇徳上皇と共に上昇するのは何としても阻止したいと思うところでしょう。
しかし、院の近臣の中には、摂関家出身の藤原忠通がいました。これをどう考えればよいでしょうか?実は、摂関家内部でも対立関係があり、保元の乱の当時、摂関家は大殿である藤原忠実と忠実の次男頼長、そして忠実の長男である忠通との間で対立するようになっていました。そしてこの摂関家の対立が大きな歴史の歯車として、保元の乱の要因を紡ぐことになるのです。そこで次は藤原摂関家の内部対立について話を進めていきましょう。
藤原摂関家の内部抗争 藤原忠通 対 藤原頼長
保元の乱のもう一つの対立は、藤原摂関家の内部抗争でした。かつては藤原道長を輩出し、「一家立三后、未曽有なり」と言わしめるほどの権勢を誇った藤原摂関家、その摂関家も白河院政の時代には斜陽の度合いを深めつつありました。
切っ掛けは後三条天皇の治世から。この藤原摂関家を外祖父にもたない天皇が登場したことで、藤原摂関家は大きな打撃をうけはじめます。まず、荘園整理令により経済的基盤であった荘園が大幅に減らされてしまいます。後三条天皇は白河天皇に位を譲るとまもなく病没しますが、その後、白河天皇は子の堀河天皇に譲位して院政をはじめることになります。しかし、まだ院政の基礎は固まっておらず、しばらくは剛直で道理を重んじる藤原師通が関白として辣腕を振るい、堀河天皇を補佐する体制で白河院や院の近臣らを抑え、安定した政治が実現します。
もしこの師通がながく生きながらえたなら、その後の摂関家の没落はなかったのかも知れません。しかしもともと健康に問題を抱えていた師通は三十六歳という若さでこの世を去ります。師通の跡を継いだ忠実はこのとき数え二十二歳と若く、いまだ権大納言でしかないため関白にもなれず、内覧に留め置かれます。この時を境に、白河院政に主導権を奪われるようになってしまいます。
ただ忠実が能力的にそれなりの力量のある人物であれば、摂関家の巻き返しもあったのかも知れません。事実、過去においては藤原時平や道長のように、たとえ内覧であったとしても摂関同様の実権を振るった例もあったほどです。しかし、忠実は政治的未熟さから様々な不祥事を起こし、白河法皇の機嫌を損ないます。特に、致命的であったのは娘の勲子の入内問題に関してでした。
この時、白河院から、祇園女御の養女となっていた藤原璋子を、忠実の嫡男の忠通に娶らせて、代わりに忠実の娘の勲子を鳥羽天皇のもとに入内させるという計画が持ち込まれたのですが、忠実は璋子の性的奔放さを懸念してこれを辞退してしまいます。そこで白河院は璋子を鳥羽天皇のもとに入内させて中宮としてしまいます。衝撃を受けた忠実は、鳥羽天皇へと働きかけ、鳥羽天皇も白河院からの自立を目指していたこともあり、勲子の入内の話は進みます。ところが、このことを知った白河院は激怒し、忠実の内覧の職を剥奪してしまいます。
白河院とすれば、自分がすすめた入内の話は断りながら、鳥羽天皇との間で入内の話をすすめられたことに憤りを感じたのでしょう。ともあれ、その後10年ほどの間、忠実は宇治に逼塞し、代わりに嫡男の忠通が関白となります。この事件は藤原摂関家の権威をさらに低下させるものとなりました。保元の乱において中心的人物のひとりとなる藤原頼長は、この忠実の宇治での謹慎期間の間に生まれることになります。忠実はこの次男を溺愛しますが、失意の中で授かり、手元にあって諫められる存在であったことも、溺愛の理由だったかも知れません。そしてその溺愛のほどが、やがてくる保元の乱へとつながっていくのですが。ちなみに、娘の勲子ですが、彼女が鳥羽天皇のもとに入内できたのは、白河法皇が亡くなってからのことで、入内したときすでに39歳の、女盛りを過ぎた頃だったとか。これもひとつの悲劇ですね。
時は流れて大治4年(1129年)白河法皇が崩御します。これによって鳥羽院政がはじまり、忠実はこの時内覧に復帰します。白河法皇から入内を拒否された娘の勲子も入内をはたし、院号宣下を受けて高陽院となります。
しかし、摂関家内部の父と子の仲は最悪の形で破綻することとなります。切っ掛けは嫡男の忠通に子の基実が生まれたことにありました。以前から、嫡男に恵まれなかった忠通は、弟の頼長を養子に迎えていましたが、実の子が生まれたことにより頼長との養子関係を解消してしまいます。自身に子がうまれたとあっては、実の子に自分の地位を譲りたいと思うのは親として当然の成り行きですよね。当然、頼長は怒りましたが、頼長を溺愛していた忠実も同様に不快感をあらわにします。
さらに深刻な亀裂を生んだのは、近衛天皇に対する入内問題でした。頼長が養女の多子を近衛天皇に入内させたのに対して、忠通も養女の呈子を近衛天皇に入内させるなどして対抗したのです。頼長を溺愛する忠実はついに堪忍袋の緒をきってしまい、忠通を義絶し、藤原氏の長者の地位と京極殿領などの荘園、屋敷である東三条殿、そして代々の宝物である朱器台盤などを忠通より奪い取り、頼長に与えてしまいます。鳥羽院はこの時、藤原摂関家の対立に深入りすることを避け、忠通を関白に留め置いたまま頼長に内覧の宣旨を下すなど、曖昧な態度を取り続けます。
晴れて執政の座についた頼長は、精力的に政務をこなします。頼長はのちに愚管抄において「日本一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才(ざえ)に富む」とその学識の高さを賞賛されるほどの秀才ではありましたが、その苛烈にして妥協を知らない性格により、人々から悪左府(あくさふ)と異名をとるほどの人物でした。しかし、彼の苛烈な政治への姿勢は次第に周囲との軋轢を生んでいきます。頼長の周囲はいつしか敵ばかりとなり、近衛天皇からも嫌われる存在となってしまいます。
切れ者過ぎて嫌われるというのは、どの世界にも往々にして起こりえることですよね。頼長はその典型例だったといえるでしょう。政治というのは時に現実との妥協であり、理想や理念を押し通すだけで実現できるものではありません。しかし頼長はそういった妥協がまったくできない人物でした。また、太政官の官人を殺害した犯人が恩赦となった際に、これを人を送って殺害させるなど私的報復の記録も多く、毀誉褒貶の多い人物だったようです。結局、彼のこうした態度が多くの敵をつくり、自身と父の忠実を苦境に追い込むことになったといえるでしょう。
久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇がわずか17歳で崩御します。この時、近衛天皇は呪詛により死に至らしめられたとの噂が流れ、忠実と頼長は失脚してしいます。これは院の近臣である信西の策謀との説が有力ですが、頼長が周囲から孤立していたことも、噂の影響を強めたのかも知れません。忠実は鳥羽院の后となっていた高陽院を通じて鳥羽院の信頼を取り戻そうとしましたが、その年の12月に高陽院も世を去ってしまったため、その望みも失います。
そのわずか一年後、さらに悪い事態が起こります。鳥羽法皇が崩御したのです。時に保元元年(1156年)7月2日。その後、事態は風雲急を告げることとなります。
近衛天皇が崩御して、そのわずか一年ほどで跡を追うように鳥羽法皇がこの世を去るわけですが、この間、崇徳上皇と藤原忠実と頼長はどのような心持で日々を過ごしていたのでしょうか?危うい緊張状態が続く中で、それでも兵乱もなく平和であり続けたのは、ひとえに治天の君たる鳥羽法皇が存命であればこそでした。ここでもう一つ、保元の乱のキーパーソンとなる二人の人物を紹介しましょう。それが源為義と平清盛です。
平氏と源氏の登場
保元の乱は皇位継承問題や宮中の権力闘争が複雑に絡み合っておきましたが、それらは保元の乱以前にもたびたび起きてきた問題であり、とくに珍しいものではありません。保元の乱が異なるのは、そこに武力の介入があったことにあるといえます。その武力の提供元はいわずとしれた源氏や平氏と呼ばれる人々が中心でした。
そもそも彼らはどのようにして登場し、朝廷の権力闘争に関わるようになっていったのでしょうか?
源氏と平氏は同じ天皇家にルーツを持ちます。このうち平氏は桓武天皇の系統から出た高望王が臣籍降下により平高望を名乗ったことにはじまります。この平氏からは関東で反乱を起こした平将門や平忠常などが輩出されることとなります。平氏のなかでも平維衡を祖とする一族は伊勢に根をはり、伊勢平氏となります。この伊勢平氏の中から平清盛の祖父と父にあたる、平正盛、忠盛が現れ、白河法皇の北面の武士となり、やがて院の近臣へと出世していくこととなります。
伊勢平氏躍進の切っ掛けは清盛の祖父正盛にありました。承徳元年(1097年)、白河法皇の愛娘である郁芳門院が亡くなった際、その菩提を弔うため、正盛は六条院の御堂に所領の伊賀国山田・鞆田村を寄進します。これを切っ掛けとして白河法皇の院の近臣となった正盛は、その後北面の武士として活躍しつつも、隠岐守・若狭守などを歴任し、出雲国で源義親が濫行を働いて討伐の対象となった際には、追討使に任じられ見事勤めをはたすなど活躍をみせます。
次の忠盛も引き続き白河院に仕え、盗賊の追捕や海賊の討伐などで活躍し、伯耆や越前などの受領も歴任します。受領などが財などを寄進することを「成功」といいますが、この方面でも積極的に活躍し、鳥羽院の時代には得長寿院を寄進するなどして鳥羽院の歓心を勝ち取り、内昇殿を許されるなど父に劣らない活躍をみせます。平家物語に登場する「殿上闇討」事件は有名なくだりですが、まさにこの時の話ですね。
忠盛は保元の乱が起きる三年ほど前に亡くなり、清盛が跡を継ぎますが、政治的なバランス感覚の良さは祖父の正盛や忠盛に負けず劣らずといったところで、祇園闘乱事件で延暦寺の強訴に巻き込まれるなど一時的なトラブルはあったものの、引き続き院の近臣として活躍します。
一方、源氏の方はどうでしょうか?
源氏というと一般的には清和源氏にはじまる武門の源氏を指すことが多いでしょう。とりわけ源頼信を祖とする河内源氏が有力で、この系統の中からのちの源頼朝や足利尊氏につながる八幡太郎義家が登場します。義家の代には東北で前九年の役や後三年の役が起こり、河内源氏は大きな活躍をみせます。河内源氏は中央政界への繋がりも強く、保元の乱の当時は源為義が河内源氏の嫡流となっていました。
源為義は保元の乱の当時、崇徳上皇側について戦い敗れて刑死することになる人物ですが、源義忠暗殺事件に関連して源義綱を追捕する大役を果たして、わずか14歳で左衛門少尉となるなど、最初のキャリアは華々しいものでした。
ところが、その後、平正盛や忠盛が活躍する一方でその昇進は低迷します。低迷の原因は為義本人による不手際や、為義の郎党など周囲の身内同士での不祥事などが重なったためでもありました。例えば為義本人に関していえば、尊勝寺領信濃荘の年貢強奪事件で犯人が捕らえられた際には、その横領物を奪って逃走した人物を匿い、検非違使の再三にわたる督促を無視し続けたり、源光信の郎党が殺人を犯したのちに赦免された時には、自らの郎等であるとして光信と口論となり、京の都であわや合戦寸前となるなど周囲を騒がせたりと、何かと粗暴さが目立つようになります。
また彼の郎等についても、例えば延暦寺の悪僧を追捕する際、誤って前紀伊守の藤原季輔に暴行を加えたり、上野国の国衙領の雑物を奪い取り検非違使に告発されるなど、これまた為義同様に粗暴さが目立つものでした。こうしたことは白河院の不信の原因ともなり、為義の立場を悪いものとします。
その状況は白河法皇亡きあとの鳥羽院政のもとでも変わることはありませんでした。そして保延2年(1136年)、遂に為義は鳥羽院により左衛門少尉を辞任させられてしまいます。
為義の官位が低迷する一方で、同じ源氏でありながら順調に昇進を勝ち取る人物もあらわれます。それが為義の長男、義朝です。保元の乱では父や兄弟たちと別れて戦い、後白河天皇側に勝利をもたらした人物のひとりとなります。
義朝は為義の長男として生まれ、少年期には東国にくだって、上総氏らの有力豪族の助けを借りつつその地で勢力を伸ばし、保元の乱が起きる10年ほど前には京へと戻ってきていました。ちなみに、その後鎌倉に幕府を開くことになる頼朝は、この頃に義朝の嫡男として誕生しています。
義朝は京に戻ると、院の近臣であった妻の実家の後ろ盾をもとに鳥羽院に接近し、31歳にして従五位下、下野守に任じられ、翌年には右馬助も兼ねることとなります。河内源氏の受領就任は祖父義親以来50年ぶりとなり、この時点において、官位の低迷していた父、為義の立場を超越します。
一方、子の義朝に官位で抜かれることとなった為義は、その頃すでに藤原摂関家の忠実・頼長に臣従するようになっていました。鳥羽院の勘気を被って逼塞していた為義としては、ここで摂関家に近づき、なんらかの後ろ盾を得たいと思ったのでしょう。実際、為義は大殿である忠実の意向をうけて興福寺に赴き、忠実の意に沿わない悪僧15名を捕らえて奥州に配流しています。これ以降為義は、忠実・頼長父子の警護や、摂関家領の荘園の管理などを担うようになります。
その後、忠実・頼長は鳥羽院により遠ざけられることとなるのですが、当然のこととして、摂関家と主従関係をもつ為義と、為義の長男義朝は対立するようになります。
その対立が顕著にあらわれたのが、関東で起きた大蔵合戦でした。もともと義朝は高祖父頼義以来ゆかりのある鎌倉に拠点をもち、南関東とりわけ相模一帯に強い影響力を持っていましたが、義朝が京へ上洛する際にその守りを子の義平に任せていました。そこで為義は、関東における義朝陣営の切り崩しのため、嫡男となっていた義賢を北関東へと送り、義平への対抗馬とします。義賢は秩父氏などの勢力を後ろ盾として武蔵国比企郡大蔵の地に居館を構えることとなりましたが、そこへ義平率いる軍勢が突如として襲いかかり義賢を討ち取ってしまいます。
この事件は、義朝と誼を通じる武蔵国の知行国主、藤原信頼のはからいにより京の都ではさほど問題とならずに済みましたが、この事実をもって、もはや為義と義朝の関係は修復不可能なものへとなっていきます。ちなみに、この時助け出された義賢の子の駒王丸は、その後の源平争乱の中で木曾義仲として登場することになります。
さて役者は揃いました。
叔父子と呼ばれ鳥羽院から忌み嫌われ、朝廷の政治からは疎外され治天の君にすらなれなかった崇徳上皇。衰退する藤原摂関家の中にあって、近衛天皇呪詛の疑いをかけられ、追い詰められることとなった摂関家の大殿忠実とその子頼長。源氏内部の親子対立の中で鳥羽院に忌み嫌われ、疎外され、藤原摂関家の側に追いやられてしまった源為義と、鳥羽院の側についた義朝。
時代の流れは、近衛天皇が亡くなってわずか1年ほど後に急加速します。保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れたのです。
そして保元の乱へ
鳥羽法皇は病に倒れると後顧の憂いをなくすため、源為義や平清盛らに誓約書となる祭文を書かせて美福門院に差し出させます。為義は摂関家の大殿忠実とその子頼長との間に主従関係を結んでいたためでしたが、平清盛の場合は、彼の義母である池禅尼が崇徳上皇の子の重仁親王の乳母でもあったための措置でした。意外にもこの当時、清盛は崇徳院の側と思われていたのですね。
6月1日、鳥羽院の容体は絶望的となります。もしもの兵乱に備えるため、法皇の住む鳥羽殿の守りは源光保、平盛兼ら北面の武士によりかためられ、後白河天皇の里内裏である高松殿の守りには、源義朝、源義康らがあたることとなります。
7月2日、この日の申の刻ごろ(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御します。この時、崇徳上皇は臨終の見舞いに訪れますが、対面を拒否され憤慨して引き返すという事件が起きます。鳥羽院は最後まで叔父子として忌み嫌う崇徳を許さなかったのかも知れません。
7月5日、勅命により検非違使の平基盛、平維繁、源義康が召され、京中の武士の動きを停止する措置がとられます。この時、巷では「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞がたちはじめていました。
7月6日、藤原頼長の命で京に潜伏していたという容疑により、大和源氏の源親治が平基盛に捕らえられるという事件が起こります。
7月8日、その日は鳥羽法皇の初七日の日でしたが、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されます。そして、蔵人の高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の東三条殿に乱入して邸宅を没官してしまいます。没官というのは、人身または財などを刑罰として取り上げることであり、これはあきらかに忠実、頼長を謀叛人として処断するという行為の現れでした。ここに至って、忠実と頼長は窮地に立たされます。平安時代を通して藤原摂関家の当主が罪人となるのは前代未聞のことでした。ここには、摂関家を貶めようとする信西の策謀があったとされていますが、真相はどうなのでしょうか?
こうした状況の中で、崇徳上皇は行動を起こします。
7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに白河北殿にはいります。またその動きに合わせるようにして、10日の晩頭には頼長が宇治から上洛して白河北殿へとはいります。
そもそもなぜ崇徳上皇や頼長は白河北殿を選んだのでしょうか?一説では、平清盛の本拠地である六波羅に近く、清盛の武力に期待を寄せたからではないかといわれています。先ほども触れたように、清盛の義母である池禅尼は崇徳上皇の子の重仁親王の乳母でもあったので、崇徳上皇からすれば味方になってくれる可能性があったためでした。事実、この段階では清盛は自らの去就を明らかにせず、どっちつかずの態度を取り続けていました。
この時、白河北殿に終結した顔ぶれは、崇徳上皇や藤原頼長を除いては、藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、崇徳の従者である平家弘、源為国、そして頼長と主従関係にある源為義、平忠正、源頼憲などでした。
対する後白河陣営も武士を動員し、高松殿の警備を強化します。源義朝、義康に加えて、源頼政、源重成、源季実、平信兼、平維繁らが続々と召集され、守りを固めます。また同じ日に藤原忠通、基実父子らも高松殿に参入します。平清盛はしばらく去就を明らかにしていませんでしたが、結局後白河陣営につくことになり、後白河陣営は数の上で崇徳上皇の陣営を圧倒します。
さっそく両陣営で軍議が開かれます。崇徳上皇の陣営では源為義が先制攻撃として高松殿への夜襲を行うか、もしくは崇徳院を奉じて東国に下向し源氏累代の家人を組織して抵抗する案をしめしますが、頼長により退けられます。頼長としては信実率いる興福寺からの援軍を待つ方が得策との判断がありました。一方、後白河の陣営でも軍議が開かれ、源義朝と信西が先制攻撃を主張し、後白河天皇や藤原忠通は決断をためらいます。そして日付の変わった11日未明、ようやく決断は下されます。
保元元年(1156年)7月11日未明
後白河陣営の平清盛三〇〇騎、源義朝二〇〇騎、源義康一〇〇騎の総勢六〇〇騎が白河に向けて出撃します。保元の乱の勃発でした。この時、軍勢は三手に分かれて白河に向かい進撃します。最大の三〇〇騎を率いる清盛は二条大路を進み、これに次ぐ二〇〇騎を率いる義朝は大炊御門大路を、そして一〇〇騎を率いた義康は近衛大路を進みます。
両軍は鴨川を境に激突し、数で勝る後白河陣営が優位に戦闘をすすめるも、崇徳上皇側の必死の防戦により戦闘は膠着します。ここで活躍したのが崇徳上皇方の為朝でした。後に吾妻鏡に「我が朝無双の弓矢の達者なり」と記されたほどの強弓の使い手であり、大炊御門の門を攻めた清盛が、腹心の伊藤六、山田是行を相次いで失うなど大きな犠牲を払います。
戦況は膠着状態のまま夜が明けますが、状況が大きく動いたのは、辰の刻(午前八時ごろ)のことでした。この時ようやく、義朝や清盛たちは白河殿に火を放つことに成功します。ここに至って崇徳上皇側は総崩れとなり、それぞれ白河北殿を抜け出て落ち延びていったのでした。ここに保元の乱は、後白河天皇側の勝利として終結します。
敗れたすとくじょうこうがたには惨めな結末が待っていました。
すとくじょうこうは為義らとともに東山のにょいさんに登り、そこで降伏を決意し為義らと別れ、剃髪して出家を遂げます。その後、仁和寺に出頭し、かくしょうほっしんのうに取り成しを頼みますが断られ、かんぺんほうむの旧房に移って、ついにはみなもとのしげなりの監視下に置かれてしまいます。その後すとくは、7月23日には讃岐へと配流となり、この地で余生を過ごし、8年後の長寛2年(1164年)にこの世を去ります。
一方、源為義はすとくと分かれた後はしばらく潜伏するものの、16日には子の義朝のもとへと出頭します。為義の降伏により、他の潜伏していた武士たちも次々と投降を決意します。
しかし武士たちに対する処罰はもっとも厳しいものでした。7月28日には忠正が、7月30日には源為義とたいらのいえひろが一族もろとも斬首されるに及びます。この時、義朝は自らの手柄と引き換えに父の助命嘆願を訴えたとされますが、聞き入れられることなく、自らの手で父や兄弟の刑を執行します。
次にふじわらのよりながですが、彼はしらかわきたどのが焼け落ちる中、騎馬で御所を抜け出そうとしたところをみなもとのしげさだの放った矢が頸部に刺さり深手を負ってしまいます。その痛みに耐えながらもよりながは、大井川を渡り、おぐらいけをえて木津へと逃亡を続け、奈良に逃れていたただざねに対面を求めます。しかし、よりながを溺愛したただざねとても、罪人となったよりながに面会することは出来ず、これを拒絶してしまいます。失意のよりながは、7月14日に矢傷がもとで命を落としてしまいます。
いかがでしたでしょうか?こうして保元の乱は後白河天皇がたの勝利で幕をおろしました。しかし、それからわずか四年後に、今度は平治の乱が起こり、京の都はふたたび戦乱の渦に巻き込まれることとなります。こうして400年続いた平安時代もおわり、世は武士の時代となっていくのです。






