ある愛のカタチ | ことばのチカラLite

ある愛のカタチ

「ピーーー」遠くから汽笛の音が聞こえてきた。釣り船が通ってからしばらくするのに、なかなか跳ね橋が閉まらない。「ピッピーー、ピー」汽車の運転手はなお執拗に汽笛を鳴らす。もう直前まで汽車は迫っている。係員が居眠りでもしていたのか跳ね橋の桁はようやく下り、大事故はギリギリのところで免れた。
 「バカヤロー!」管理事務所とすれ違いざまに運転手は窓に立つ秀雄に向かって罵った。しかし秀雄は悪びれもせず笑みを浮かべ手を振っている。汽車に乗って遠足に向かう何も知らない子供たちは元気に秀雄に手を振り返した。乗客の大人たちはそれには無関心で、自分の関心ごとで汽車に揺られている。
 佐藤秀雄は来年40を迎える。生来曲がったことが嫌いで、上に対しても言いたいことを言ってしまう彼に本社勤務は正直つらかった。昨年跳ね橋管理事務所の田村さんが12月の誕生日で定年を迎えたため、志願して跳ね橋勤務となった。
 今日は妻の恵子が母の看病で町外れの病院まで出かけることになり、愛娘の恵美を職場に連れてきていた。恵美は2月で3歳になる。年末に七五三の写真を撮ったばかりで秀雄にとっては生きる希望である。
 遠くから汽笛が聞こえてきた。いつもはその時間になると体の方が先に反応し、汽笛を待つほうなのだが、朝から胸騒ぎが止まらず調子が悪かった。あわてて桁を下ろそうとボタンを押した。しばらくして、後ろから悲鳴が聞こえた。遊んでいた恵美にとっては突然のことだった。急に足元のギアが回りだして右足に激痛が走った。「お父さん痛いよ!」。秀雄はあわてた。ギアはボタンを押してから動作するまでタイムラグがあるため、ギアを戻して恵美を助けると跳ね橋を下ろすのには間に合わない。汽車は迫ってくる。
 秀雄は即座に覚悟を決めた。途端に恵美を授かってから今日までの幸せな日々が走馬灯のように流れた。現実には一瞬のうちだったのだろうが、走馬灯はゆっくりと回っていた。
 娘との別れ、心は決まっていたはずなのに左手の人差し指は橋げたを下ろすボタンの上で凍りついたように動かない。とめどなくあふれる涙。無情にもそこに2度目の汽笛がけたたましく鳴った。「すまんな、恵美。お前を助けられん父ちゃんを許してくれ。」
 それまで凍り付いていた左手の人差し指がゆっくりとボタンを押した。
 秀雄は汽車を見送った。悲しげな笑みを湛え、手を振った。