力に対して力…恨みに対して恨みは、憎しみしか生まない。
差別とは優越感や劣等感から生まれる。
日本も男女差別が問題視されているが、結局解決することはない。
差別する側は相手を見下している。能力のある側が、なぜ無能な側の常識に合わせる必要があるのか…と。
差別される側は能力に触れず、正義を振りかざして対抗…。
これは、正義なき力と力なき正義の戦い。
そして、勝ったものが正義となる。
もし、人種差別や男女差別の立場が逆転したら、差別はなくなるのか…否、ただ差別のベクトルが変わるだけだろう。
黒人は白人を差別し、女性は男性を見下すだけである。
結局、平等なんてありえない。
弱いものは痛みがわかるから優しくなれる…これも違う。
痛みがわかるから、恨みが膨らむ人の方が大半であり、それは新たな差別を作り出す。
デモが暴徒化するのは人間の欲に対する本性だろう。決して優しさなんて生まない。
しかし、差別に対して警鐘をならすのは必要なことである。
今回のように行き過ぎはダメだ。
差別はなくならないが、強い側の暴走を抑制する必要はある。
差別の緩和は、あくまで強い側の慈悲でしかない。
逆転はもちろんあるが、差別が逆転するだけで差別がなくなる訳ではない。
差別は何かを勝ち取った、何かを作りあげた側のプライドがつくりだしているのかもしれない。
アメリカという国は白人が経済をつくり、世界に影響力のある国を立ち上げた。
日本は男性が戦い命を落とながら守り築き上げたという自負どこかにあるのだろう。
だからこそ、二番煎じの輩に上に立たれることを嫌う。
権力を主張するなら、能力を示せと…
有能な人なら人種や性別を超えて活躍しているが、絶対数が違い過ぎる。それは環境にも問題があるだろう。
でも、それを差別だと訴えても無理がある。
まず、差別と感じている側が独自で環境をつくり、対抗するだけの能力を身につけ、有能な人材を多く作り出すこと。
有能な人ほど差別なんて気にしない。能力だけで判断するからだ。
無能な人たちは、差別でしか優劣を主張できない人たちである。
有能な人たちを集めたら、白人が多かった…男性が多かった…となったとしたら、有色人種の人や女性は能力が足りないにも関わらず差別だと言い出すだろう。
逆に白人や男性が、有色人種や女性に能力で追い抜かれると、~のくせにと差別をするである。
どちら側にしても、能力の低い人たちが差別を生み出している。
本当に優秀な人たちは差別なんて意味がないことを知っている。
人は適材適所に居てこそ意味があり、立場的に優劣があるのは当たり前である。
強い権力を持つものは、強い義務と責任があり、権力の弱いものは、責任も義務もごく僅かなものである。
強い権力のものが、無責任で義務を果たさないからおかしくなる。能力の低いものが分相応の権利を主張するからおかしくなる。
差別はなくならないし、差別はよくないことであるが、適材適所であるのに、簡単に差別という言葉で片付けるのもよくない。
それは本当に差別なのか?自分のおこないに問題はなかったのか?自分の能力に問題はなかったのか?
白人警官による黒人殺害は、差別そのものだろう。それまでにどんなやり取りがあり、個人的にどんな事情があったとしても、人の命を粗末に扱うことは最大の罪である。
しかし、便乗しての暴徒化は結局差別問題を薄めてしまう。喧嘩両成敗なんて結果になったら目も当てられない…