東京の高校で生物を教えていた中山伊佐男(なかやまいさお)さん(86)が国会図書館に通うようになったのは33年前だった。目的は数十万ページもある太平洋戦争の米軍資料の中から「TOYAMA」を探すことだった▲旧制中学4年生だった1945年8月2日未明、東京から疎開した先の富山市で米軍機の空襲を受けて、母親と1歳の妹が亡くなった。葬儀はできず、拾い集めた木切れで遺体を焼いた▲なぜ母と妹は焼き殺されたのか。長い間抱えていた疑問を解く糸口は、機密解除で公開が始まった米軍の資料から見つかった。国会図書館が購入した文書を2年がかりで読み込んでいくと、驚くような事実が浮かび上がってきた▲富山空襲は焼失面積当たりで比べると東京大空襲の10倍近い量の焼夷(しょうい)弾が投下され、市街地の99・5%が壊滅していた。母と妹は軍需工場を狙った爆撃の巻き添えになったと思っていたのに、住宅地を焼き尽くすことが目的だったと知る。2人は逃れようのない標的とされていた▲富山だけのことだったのか。他の都市の空襲も調べてみた。米軍は住宅地だけを最も効率良く焼き払う計画を綿密に立てていた。無差別爆撃ではなく住民が標的の爆撃と確信した中山さんは、全国の20都市以上の空襲の実態を調べた。被災者が国家賠償を求めた大阪空襲訴訟では原告団の証拠として提出されたこともある▲生物教師となったのも、母と妹を失った日から「命とは何だろう」と自らに問い続けてきたためだ。空襲で理不尽な死を遂げた人たちの命に思いを巡らせながら、米軍資料から真相を解き明かす日々は戦後71年たったこの夏も続いている。

 

当時9歳(柳町国民学校3年)私たち家族6人(父母姉妹弟1歳になっばかり)は市内(住宅地稲荷元町45)二階建五軒長屋の一隅で暮らしていたが私のみが夏休み始まる頃数件の疎開道具と供に市の郊外の農村地宮成(父の生家)に預けられる 空襲当夜は宮成から南方5~6Kmに真っ赤に燃え盛る巨大な火の海と上空の赤とんぼの様なB-29から絶え間なく数限りなく落下する火の矢のような焼夷弾を-音は記憶から消えている-何時までも視続けるばかり 翌朝伯父 従兄(当時小6) 足尾のあんちゃん(神通中5年 当時都会地?から寄宿していた)の4人で焼け跡の様子を見に出掛けたが一面焼け野原の市街地は焼け爛れ燻りの後のようでそれほどの熱さは感じなかったように思う たぶん住いの近くに着いたのだと思うが間もなく何処ともなく現れた弟を背負った母と姉と妹 暫く経て現れた父 其の儘数時間後宮成へ戻り其処で八月一杯家族6人厄介になる