江東マンション神隠し殺人事件 | 読むと頭が悪くなる

江東マンション神隠し殺人事件

かわいそうな被害者や遺族、極悪非道な犯人という構図で裁判は進んでいったみたいだけど、釈然としないもやもやが晴れる事はなかった。その原因がやっとわかった。被害者遺族や検察は犯人を極悪非道に仕立て上げるために矛盾した言動や誇張した言動が非常に目立ったためだった。被害者に同情していたら普通の物言いに聞こえていた話が冷静に考えてみると明らかに矛盾していたのだ。

その一番顕著な例が、犯人の反省の姿勢を演技と切り捨てている点である。この事件は、死体が無くなっていたので殺人に関する物証が無く犯人の供述が無ければ殺人罪は適用できなかったはずである。すなわち、殺人罪を適用する時だけ犯人の供述を採用しておきながら、それ以外の犯人に有利になるような供述はすべて演技と切り捨てているのである。もし本当に犯人の供述が信用できないのであれば、殺人を犯した物証を用意しろという話ですよ。犯人が自白したから犯人は殺人罪で裁かれている事を被害者も検察もどう考えているのだろうか。もし犯人が黙秘していたら、住居侵入・わいせつ目的略取、死体遺棄にしかとえなかったはずである。もっと言えば、もし犯人がまったく何も言わなかったら、下水で発見された被害者の肉片が犯人の死体損壊によるものであることすら証明するのは不可能だったはずである。すなわちこの事件は犯人の自供によって成立しているものである。それなのに、自分の都合のいい供述以外は演技や嘘だと言って切り捨てるのは酷くないだろうか。

物証も用意できずに犯人批判しかできない自分の無能さ、自白だけで有罪にする低級な司法それらに違和感を覚えていたのかね。


もう一点理解できないのは、検察が必死に被害者遺族の悲しみをアピールしていた点である。殺した犯人の生い立ちや動機が情状酌量になるのは、現在の判断基準に問題あるきもするがわかる気がする。しかし、殺された側の事情が刑罰に影響をあたえるとしたらおかしくはないだろうか。民事の裁判なら、被害者側の事情も影響するだろう。また、犯罪と被害者の個人的事情などが関連している場合は、裁判でそれがアピールされる事もありだろう。しかし、無差別的な犯罪の場合、犯人は相手の事情を考慮して犯罪に及んでいるわけではないので、そこで被害者側の意見いうのはどうなんだろうか。そんな風潮があるから逆に考えるガキが、誰も悲しまない人だったら殺してもいいだろうと考えて、ホームレスを襲ったりしているのではないだろうか。殺人がいけないのは被害者遺族が悲しいからではなく社会秩序の維持や殺人が社会的損失のためという事をもっとはっきりさせるべきじゃないだろうか。そもそも、死んだ人には何の権利もないんだから遺族だからと言って裁判にでてくるのは法のもとに平等の精神に反するんじゃないだろうかね。被害者が死んでいる場合、被害者遺族も私も別に同じ立ち位置だと思うんだけど違うのかね。


まあ何にせよ、人間一番の敵は慢心だという事ですね。被害者は何の根拠があってか知りませんが防犯対策の為に最上階の部屋を借りていたそうです。また、夜は1人で出歩かないとか考えられる限り防犯に気をつけていたそうです。何に恐れてそんなに防犯に力を入れていたのか知りませんが被害者の姉は裁判の証言によると殺人事件にあうことはまったく考えていなかったそうです。目的もなく防犯に力を入れていた被害者は、自分達はこんなに防犯に気をつかっているから安心だと慢心していたのではないでしょうか。もちろん安心と安全は無関係です。今回の犯行にしても、帰宅後施錠する前に押し込まれるなんて一般的な強姦対策をとっていれば十分に防げた可能性があります。

そもそも、もう少し近所付き合いをして姉妹2人で住んでいることを犯人にアピールできていれば違う結果になっていたのではないでしょうか。近所付き合いなんて防犯初歩の初歩でしょう。最上階に住むよりもっと手軽にできた事はなかったのでしょうか。そもそも、値段の高い最上階に住むことは、自分達は裕福だと泥棒にアピールする結果になって、逆に狙われやすくなるなんて事は無いのでしょうか。もしくは、最上階なんてただ不便で売りにくい物件を逆に値段を上げてプレミアつけて不動産屋が売っているだけって事は無いのでしょうか。