今日は、お通夜に行ってきました。なぜだろう。看護師を辞めると決めてからの方が、ずっと人の死に触れることが多くなりました。

 嫁からは、「とりあえずこれでしばらくはないはずよ」と予言めいたことを言われたけれど…周りで人が亡くなる時は3人ほど続くのだという。

 今回亡くなった方は、私にとっては知人レベルと言っても差し支えないと思います。

 何か特別な病気にかかった訳でもなく、自宅で家族の看取られて寿命を全うした。そんなお話。

 ほぼ先週は毎日、身内のように顔を見に行っていた。日に日に、力が衰えてくる様子を見ながら私はあまりいい気持ちにはなれなかった。

そんな中、一度会った献身的に家族に声をかける訪問看護師の働く姿に…私は素晴らしいな。と心から関心した。

 なぜなら、私はこの場にいながらつまらないお涙頂戴のドラマでも見せられているような気分で立っていたからである。

 家族は、在宅ではなく病院で看取ることを選べたはずなのです。しかし、家族だけでの看取りは精神的にも肉体的にも辛過ぎて…言ってみれば〝間〟が保たないから私の妻が呼ばれ、私も妻に呼ばれる…と。畳の上の大往生と言えば聞こえはいいが、通夜にきていた親戚も、喪主になった息子も毎日出入りしていた私より最期に接してないという事実。家族も〝我〟や〝意地〟を通して家で看取ると決めたんなら赤の他人の私の時間という命の欠片を奪わないで欲しいという憤りさえ感じていました。

そういう自分にも気付いているから自分はサイコパス的だなぁと自嘲的に、そしてブルーな気分にさえなっていました。




 そんな中、私は朝から里山ボランティアというものに行ってきました。

里山とは何か?ボランティアとは何か?

そんな講義もほどほどに山を歩くこと3時間。なかなか疲れました笑い泣き緑の山や、自然。その存在を意識することは少ないかもしれませんが、自然というものは人が手を加え、調整しないと大変なことになってしまうのだということでした。

放置しておけば、放置竹林となりまさに〝密〟といった感じに竹がバンバン生えてきてそれ以外の草木が育たないところになるという。そうなると、動物の食べ物がなくなります。今朝も畑に、アライグマにサツマイモを荒らされていたばかりなので身に染みる話です。きちんと管理していなければ、土砂災害や河川が切れて洪水になったりすると言います。社会利用化というか商業化というか。それが進むと、廃棄物つまりゴミ捨て場になってしまうことも多々あると。実際に、山を3時間も歩き回るとそんな違法投棄のゴミがそこかしこにありましたえー?

里山とは、山のような自然と町のような社会との境界。その最前線なのだと感じました。

ところで、
私は昨日のブログで師匠んとこの自転車のボランティアはしないとか書いたところだし、過去にもボランティアやってます!って話すやつは嫌いってブログに書いたことがあります。

 大げさかもしれないけれど、この本質を考えると、奉仕。サービスの〝本質〟が見えてくるような気がします。

就活の材料として、社会奉仕活動で介護のボランティアをしてます。という人いるとしてます。その人からしてみれば、空いた時間に学校でいう内申点稼ぎのためにやっている活動と…金銭の授受があっても、冒頭の訪問看護師のように好き好んで人の生き死にに関わるようなしんどい仕事を毎日する人。どっちが美しいでしょう?

確かに、専門的な技術も知識もなくて差出せるものが時間しかなくて(無賃)のボランティアでもいいというのはありだと思います。

しかし、それが何十年もやっててもお金を生み出さないものであるとすれば…

果たしてこのサービスはそもそも必要なものなのか?と疑ってみる必要もあるのではないか?と私は考えます。

実際、今回の里山ボランティアは市の環境課やNPO法人さんときちんとお金を生み出しています。つまり、誰かが(お金を出しても受ける)価値や必要性があるサービスであるということではないでしょうか?そういった方々がその上で、知識を広めたい関心を持ってもらいたいと休日返上でやっている活動でした。

 反対に、自転車のボランティアの方は?というと…まず自転車の乗り方やマナーを教えてもらうのにわざわざそういった団体の門戸を叩くか?ってこと。3歳の息子でもチャリんこ乗れるよ。いきなりスポーツバイクに乗る人よりも、周りになる人がいてその人の影響もあって始めるって場合も多いでしょうよ。じゃあ、その人に教えてもらうよね?そして、ネットの時代。〝答え探し〟は、かなり容易になっているから1人でも正しいことって見つけられる。

あー、やっぱり師匠には悪いけど行かないでおこう。私の時間はそんな安くない。最終的にはやりたい人がやったらいいさ。時間の使い方は自由なのだから。しかし、しがらみってめんどくセーなぁ笑い泣き