私が勤める、障害のある人を対象としたグループホームにはこんな方がいます。
扉が数cm開いていても気になる。ゴミ箱が壁に接している隅の位置でないと気になる。ティッシュやペーパータオルのひらひらの部分が出ていると気になって見えなくしてしまいます。他にもバッグや衣服のチャックが中途半端な位置だと気になります。
几帳面なんだなぁといえばそうかもしれませんが…
歯磨きも、顔を洗うことも、シャンプーするのも一撫でしかしませんので介助が必要です。
言葉で何度促そうとできません。手を持っていってもしません。しかし、前記の〝こだわり〟の部分は静止してもやります。私は仕事でこの人を見ているから大丈夫ですが、見知らぬ人が街でいきなり自分の衣類やカバンのチャックなんかをしめようとしたら怖いですよね?
ましてや、この〝こだわり〟の部分はそれ自体に全くの生産性も何もありません。それどころか、世界中の視界に入る扉のきっちり閉まっていないことに今やっている作業の手を止めて閉めに行かないといけないことの方がその人自身の人生の時間を費やしてまでやらないといけないことが私には理解できません。でも、やめられない。
これは極端にわかりやすい話しですが…
別に健常な人でも起こり得ます。
〝こだわり〟って、その人には意味があっても他人には意味がない場合があるのです。
これって〝我〟なんですよね。癖みたいなものです。だから、我を棄てないと行動が変わらないんです。
でも、変われない人がいるのは仕方のないことなんです。
ただ、ふつう、一般的な人であれば同調圧である程度はその〝我〟も捨てないと社会生活を送れなくなります。
例えば、ネイルしている料理人や、金髪モヒカンの看護師なんていないでしょ?
でも、それを変えられない人もいるの。
でも、それを変えられない人もいるの。 障害を持った人の方が、魂として上であるというのはそこが違います。一般的、ふつうと違ってこうあるべきだという同調圧に屈することなく自分を変えることなく生きていけるのです。
つまり、変化を要しない…完成されているということ。たがら、周りが変わってあげるしかないんです。ただ、周りが変わるまでは忍耐しかありません。
いつも、私は歯磨きの介助をしながら(歯磨きの介助は子どもたちのもするし、上手い方だと思うけれど…下手なスタッフもいるよね?腹立たないのかな?)とか思います。でも、それでも自分で歯ブラシを握ってやろうとはしません。自分の尺度で生きていて、それが全てなんです。変わりません。
ふつうの親ならさすがに病むのもわかります。ある種の神さまのようですから。人知の及ぶところではありません。理解しようと思う方が間違えています。
私もそうでしたから(笑)風が起こるのはなぜか?なぜ海で波が立ち、渦を巻くのか?まるでそんな自然なことのよう。
それを風を起こすな。波を立てるなって思う方がおかしいのです。うちの娘も適応障害です。嫁は認めようとはしませんが。今はバイトに行けていますが…好き嫌いも極端に多く、誘ってくれた同級生がバイトを辞めたら続くの?嫌いな人ができたら続くの?なんて思います。考えても仕方ないのですが…
結局、嫁自身は向き合いたくないんだと思います。それは娘が幼少期に、耳も悪く、目も悪く、鼻も悪かったために何かしら障害がある子だと疑われた過去のせいだと私は予測します。一度、否定されたことを受け止めることってキツいのはわかりますが別に障害を私は悪いとは思いません。嫁のそれは我なのか意地なのか?認めないことの方が本人にとってはかわいそうなことです。
どんなハンディを背負っても、幸せになりますと約束をしてきてこの世界に生まれてきていると斎藤一人さんは言います。
だって、私も子どもの頃アレルギーがひどくある種の注意力の障害があったのか?とすら自分に思います。もし、あの時期のアレルギーをきちんとコントロールできていれば今はもっと幸せな人生を…なんて考えると今の自分は不幸せなのか?となります。
等身大の自分を見つめ、自分を受け入れられたら幸せになれるんです。
足りないのは心のバリアフリーです。障害って聞くと病気のように途端に受け入れたくなくなります。しかし、得意とか不得意だったら誰でもあります。
そう思えたら、いつでも変われるんです。あとは本人次第。変わらないのも変われないのも変わる必要性に迫られていないだけのこと。