最近、本気で嫁に謝ったことがあります。もう、ほんと土下座ものです。

ケンカというほどでもないのですが事あるごとに口論になっていたのですが…
ハタと気づいたのです。
それは、自分の考えを押し付けようとか正しいから、支配しようとしていることです。
斎藤一人さんの本の中に『夫婦』である理由は、他人との違いを知るためとあります。
そして、違うものをどれだけ何と言おうと変えられないのです。
我とか癖とかエゴとか。もうそんなものの押し付け合いなんですよ。
それに気づいた時、争うことの無意味さを感じました。実際、言葉では何度も聞いていることだしわかっているつもりでも…実践できてないのね
子育てのことでもそう。
私は、「娘が自立出来なければもうその時には離婚しよう」とまで話していました。このことを本当に謝りました。私は自分の行動を変えるといって、我を押し通すために〝離婚〟という言葉を使い脅迫したようなものだと。取り引きのように話をもって言っていますが、そういうことです。
しかし、私自身は娘の自立のためになんら行動を変えていません。言い方を変えれば嫁に命令しただけです。
じゃあ、本来どうすべきだったか?
というと。見守るだけなんです。放置でもなく、これは娘の人生の課題です。クリアできなければ、かわいそうですがしょうもない男に養ってもらうか、はたまた私のよく知る精神科の病院や施設にぶち込まれるか…生活保護をもらいながら慎ましく生きるか…身を売って生活していくのか…親としては助言はした。でも娘(本人)が聞き入れたくないのです。なぜなら娘にも、これまで積み重ねてきた経験という名の『我』があるから。
どうにもできません。本人が辛かったら、生活態度を改めるだろうし、それも出来なければ…親が助けきれないところで死ぬかもしれません。
それも仕方無きこと。まぁ、なるようになるのです。己を助けるのは己しかないんです。誰かが助けてくれるという場合もあるというかもしれませんが、その場合本人が助けを求めてすがってきます。その時に助けてやったらいいのです。結局、今は助けを求めてないのです。
どうにもならないで助けをすがったくる娘の姿を見たとき、後悔に苛まれるのは嫁です。死ぬ間際、心配しながらこの世を経つのも業です。その責任は自分で負えばいい。ならなければならなかったでツイてたでいい。
結局は、私自身が十分に『課題の分離』がきちんとできていないから辛かったのです。
冷たいようですが、私の問題ではないのです。だって、私の習慣や行動ではないから変えられないんです。
変えられるのは自分の受け止め方とか、立ち振る舞いです。
私は、こうすべきが正しいと思っていても、嫁においては違うのだから…
まぁ言っても仕方ないよね。親離れと子離れこの人たちの課題なんだなぁと客観視して私の考えを押し付けるまでもないと。私は私の生き方で、自分の正しさを見せたらいいんです。
ビジネスにおいても同じです。
お客さんが困ったり、欲するニーズがあって、自然とそれに気づいた人が商品を作って、提供する。
凝り固まった、我や欲望から生まれた「俺は金儲けしたいから、高く売れるこの商品を売ってやるんだ!ほしいだろう?」という流れではビジネスは成り立たないと思うのでです。誰も買わないでしょう。
水が流れるが如く、火のないところに煙が立たないように、そういった形にはならない自然の摂理のようなものです。
これを今生の修行や課題と捉えるかも自分次第。我を捨て、その自然の〝流れ〟のようなものが見えればきっとよりよい自分に出会えるのではないかと思うのです
