今読んでいる『木の命 木の心』の中で、宮大工という職人の世界で師匠が弟子に鉋がけをやって見せて「やってみい」とだけ言われて教えられるということが書かれていた。上手く出来ないけれど、目の前でやられたことを見せられているので言い訳も出来ない。だから、どうやったらできるのかと考える。出来るように腕を磨くと。それは非常に時間のかかる教え方だけれども、感覚を人に教えるのは難しいことだし、教えたところで出来ないと。だから、同じように家族のように過ごし人として育てていくのだと。こんな世界もあるもんだと思いながら学習の軸をどこに置くかだと思うのです。この本の中でも、本を読んだり、ラジオを聴いたり、ニュースを見たりなんかのことを最初のうちはしなくても良いと書かれていますが…それでも、歴史の本や、宗教の本を読んでいるという。当たり前です、自分の関わる仕事をただの建物を建ててるのか宗教的意味や歴史的価値があるものと知って仕事をするのではやはり仕事への向き合い方、心構えは変わる。
そんな職人の世界の中、同じ職人でも頑固だとか癖が強いと思う人物がいるという。
しかし、建物を建てることは到底一人で出来る事ではない。だから、
「百工あれば、百念あり、これを1つに統ぶる。これ匠長の器量なり。百論ひとつに止まる、これ正なり。」
法隆寺大工が代々口伝で伝えていることと、宮大工の西岡常一さんは語っています。百人いたら百人の考えがあり、この百人の心をひとつにまとめるのが棟梁の器量だと。
「百論をひとつに止める器量なき者は慎み惧れて匠長の座を去れ」
下の者の意見をまとめられんのは自分に器量がないからだというのです。木の癖が読める、腕がいい、計算が出来る、これだけではだめなんです。棟梁というからには工人に思いやりを持って接し、かつ心をまとめなければならん。と。
私の知る個人事業主の多くは、ここに書かれた工人や、職人気質な方が少なくない。だから、自分の腕に誇りを持ち、家族を養っているというのだからそういう自信があってしかるべきです。
しかし、自分以外に任せられる存在がない、育てる思いがないという人が少なくない。伝える努力もせずに。
以前、京都の友人が言ってたように、「人を雇って事業をしなきゃ経営なんてする意味がない」という。その場合、経営者の仕事は従業員に与える仕事を見つけてくることだと。
職人も色々だけれど、経営者も色々。個人事業主で職人のように働くことを望む人もいれば、京都の友人のように棟梁のようになりたい人もいる。
私は、自分の最高のチームを作りたいと思うのだから後者に当てはまるだろうか。だったら、前者より時間がかかっても仕方ない。
大きな仕事は人の考えを無視して、支配する力だけでは出来ない。もしそうやったとしても心のこもった仕事ができない。心のこもった仕事をせな、建物は美しくないし、長く持たせられない。
と西岡常一さんは言います。
はたから聞くと明らかに後者の方がいいように聞こえる?のは私だけ?ですが、適材適所。生き方もそれぞれかと思います。