今日、やっているゲームでトップ50の中にランクインした
別にそれ自体がどうこうではなく、このランク付けをして上位の人にはより強いアイテムが手に入るといった特典が貰える。しかし、下の順位の人にはゴミのようなアイテムである。
ふと、この結果に考えさせられたのはシーナ・アイエンガーの『選択の科学』の中であった例え話。東ベルリン市民の話。共産主義であった、この国では「昔はテレビのチャンネルは2つあったが、みんながそのチャンネルを見られた。今じゃすっかり事情が変わってしまった。百チャンネルが見られる人もいれば、全然見られない人もいる。」
これは、昨日書いた「〜からの自由」と同じである。たかだかゲームの世界でも、現実社会よりも酷い格差を見せつけられる。
私もゲームというサービスにお金を出すのは、当たり前だと思うが…例えば20万円の給料の中で10万円もつぎ込むのは違うと思うのである。でも、サービス提供者側もそういうたくさんお金を出してくれる人を囲いたくなるのは心情としてはわからなくはない。
さきほどの、『選択の科学』の中にこんな面白い実験もあった

コーラや、ダイエット・コーラ、ペプシ、スプライトなどの炭酸飲料7種類の中からどれを選ぶかということをしたとき…協力者に「選択肢はいくつあると思いますか?」と尋ねるとどう答えたと思いますか?
その印象的な答えが
「どれもソーダなんだから、ソーダを飲むか、飲まないか」
すなわち7種類の炭酸飲料は別々の選択肢にならなかったということである。
今回のゲームのイベントで、このゲームはもはや私は続かないということを確信した。昨日の話における「〜からの自由」のようにゲームなんてそもそもやってもやらなくても良いのに、優劣をつける。その差を回数による努力なんかの尺度で測るのではなく攻略の速さであったり、運の良さのような不確定要素で評価してしまったのである。
そうなると、呆れたユーザーは波が引くようにサーっと消えていく。あとに残るのは廃課金と呼ばれるお金をかけ過ぎて、辞めるに辞められない人たちだけ。そうなると競争の意味すらなくなる。
ビットコインなんかの仮想通貨の話でも同じような事が言える。仮想通貨で、価格が上がりそうな物を保有することを「掘る」というのだが、AがダメならBにいく。それだけの話。ユーザーは「掘る」しかないのである。選択肢もあるようでない。ゲームも同じです。
結局、「同じもの」でしか無くなってしまうのである。ゲーム業界は特に今移り変わりが早いから凄くそれが顕著である。ヒットとなるものとそうでないものの違いは?
とやはり考える上ではとても参考になる。これじゃないとダメだ!と思わせる為の工夫と考えると、やはり誰もやらないようなニッチな分野になるのではないかと思う。