子どもの頃、本を読む理由はその人の思いを知るためだと教わったように思うぼけー

もちろん、そこで終わるのではなく…それを使い〝未来を見通す目が欲しい〟。そして、あわよくば〝未来の問題を解決する術まで知っておきたい〟のではないかと思う。

経験として知っている人も、学習として学んだ人も等しく同じである。違いがあるとしたら、前者は自分の感覚を通してだけになるのでやはりその境遇に出くわすか否か。他者も同じ状況になるかは、伝え方がよほどでなければ伝わらない。他者にイメージさせて、自分の立場に置き換えさせてやっと…〝こうだったのかな?〟である。〝?〟は想像の域を超えないため外せない。それは後者も同じか。

 今日も仕事で起こった問題は、こんな内容だガーン

「私はできるのに、なぜあの人はできない?」といった内容だえーん

当たり前の話だけど、同じ人間でないからである。以上、証明終了なのだけれど…

 私はできているというのは、果たして本当にできているのか?いささか疑問である。慢心では無いのか?無いと言い切れるのであれば、適切な助言を与え、出来ない人でもできるように指示をしてあげれば職場としても、その人のためにとっても良いではないか?

 先人ら教育者に求められること、というのはそういう事であるひらめき電球


よく思うが、自分の感覚だけで〝できる〟という人はその業界におけるトップを走る人なのかという事である。勝手に好き放題言っているだけで、大して正しくもないから人に教えることもできないのではないのか?噛み砕いて教えられないという事は、きっちりと理解できていない事と言われても仕方ないのではなかろうか?

 教育者では無いから、それを伝える義務はないというのであれば…その人ができるという正当性の証明だって出来ない。

それどころか、自分がそのように指導出来ないというのであれば…その人が関わって、部下が成長したのではなく元々できる有能な部下だったと言えるのではないか。そうであれば、上の人間が無能であってもいいのだ。それが、その人の有能さを示す理由にはならないえー?

 人はどうしてこうも自分を他者によくみせようとするのだろうか。

意外にも自分を大きくや、強く見せようとするのは、未来への不安があるのかもしれない。いつだって、今この瞬間の自分は諸行無常の最先端にいるわけだから。

その不安を少しでも打ち消すことが、学ぶことであり、生きて何かを経験することである。