階段をおりる途中で、夜勤の看護士とすれ違った。


手に、盆に乗せたガラス製の物を抱えていた。



お疲れさまですといったが、相手は返事をしなかった。



聞こえなかったのかもしれない。


そういえば最近ぼくの声には張りがなく、


聞き取り難いとよくいわれる。




心の暗さが声にも表れているらしい。


肩に重さを感じて、首をぐるりとまわしてみた。


ひどく疲れていた。


今日だけのことではない。


病気のあとのような重い疲労感が、毎朝、目のさめた瞬間からはじまるのだった。






三階まで降りてみると、


貧相な女の子はまだ同じ姿勢で座っていた。


先程見かけてから三時間以上が経っていた。


同じ姿勢をそんなにもながい間保っていられることが不思議だった。



女の子のほうへ歩み寄り、隣に腰をおろした。


この時はじめて、女の子が何をしていたのかを理解した。


女の子は指で琥珀色のロザリオを手繰っていた。





「消灯だよ」



ぼくはいった。



女の子はロザリオを手繰る指をとめた。


ゆっくりぼくに向けられた女の子の眼に、







一瞬ぼくは怯んだ。







なんの感情も湛えていない、静かな眼だった。





無色といっていいほど薄く、眼というより空虚な穴のようだった。


それはぼくに向けられていたが、


見られているという気がまったくしなかった。


背中に寒いものが走るのを感じながら、もう一度いった。





「もう消灯だ。帰らないのかい」






女の子は蚊の翅音ほどの細い声で、すみませんと謝った。


そして再びうつむいた。


近くで見ると、まる顔の目鼻立ちは整っているが、


眉が薄く、


その下で無色の目ばかりが大きかった。


薄い唇は形が良く、


しかし血が通ってないかのように白かった。





謝ることはないとぼくはいい、


昨日も一昨日もここできみを見たよといった。





「ここで祈ってばかりじゃお見舞いにならないよ。病室へ這入らなくていいのかな」





そのとき雨が降り始めていることに気がついた。




傘は自転車に収納していた。


看護士が早足に廊下を歩いて過ぎた。


立ち上がり、女の子が立ち上がるのを待って、


廊下を階段のほうへ進んだ。



女の子の身長は、ぼくの顎のあたりまでしかなかった。


ぼくも男としては小柄なほうだ。





「塾帰りなの」と訊ねた。




いいえ、と女の子はこたえた。







「勤め先からの帰りです」






思わず振り返った。


化粧気のない顔がうつむいていた。


クリーム色のトレーナーの胸元は、男の子のように薄かった。







病院の外の雨は思ったより烈しかった。


女の子は雨具を持っていなかった。


女の子を家まで送り届けることにした。