兄弟姉妹!今日も主を礼拝出来ましたか?そして主にあって健康管理も・・

 

私はアメーバーにアップする度毎に、同じメッセージを語るように神さまから明示されています。もはや私からは耳障りの良い話など一切なし・・それは真実を伝えるのが私の使命だからです。それに、その事は知っていると言い訳する人が多いからです。知っているなら何故行動に移さないの?何故?信じてやらないのか・・・人間素直が一番です。

 

この朝もすでに31度と大変高温が連日続いています。熱中症に気を付けて水分をしっかりとること、一日最低でも1・8Lの水が必要は飲んでね!特に、高齢者は昼間にしっかり水分補給が必要です。

 

世界で一番、今日の気温が高い国は赤道に近いアフリカで気温が50度でしが、アフリカのジブチでは過去、71.5度を記録した国です。殺人的な暑さです。これも人類が招いた結果です。誰のせいでもありません。

 

このように、私たちの人生も異常といえるような厳しい辛さ、激しい痛みや苦しみ。そして悩みなどの葛藤など・・まさか?こんな事に出会うなんて信じられない?こんな事は決して受け入れられない? このような事が日常茶飯事世界の片隅で起こっているのです。

 

私たちの信仰も日々試されています。主の再臨が近いからです。しかしそんな最悪環境や状況の時こそ、信仰が強固にされるつまり、信仰がバージョンアップされる時でもあります。

 

しかし、私たちはこれらの出来事に対して、素直に受け止めることが出来ず、不平不満が勢いついて口から泡の如く溢れ出てくる始末です。神さまの御言葉は真実であることは疑う余地もありません。しかし、実際は疑っている自分がそこにいるのです。これはサタンの仕業です。私たちが神さまの御言葉を信じないように、不安や恐れ仕掛けてくるので、だから信じる事が出来なくなるのです。

 

しっかり真実な神さまの御言葉に立ってください。全治宇宙が変わっても変わらないものは神さまの御言葉だからです。

 

そうではなく、神の約束を信じて受け入れるなら間違いなく、私たちの信じた通りに、私たちに起こります。それは人間の公約ではなく、永遠に変わらない神さまの約束された御言葉だからです。

 

ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働いて益としてくださる」と神さまが約束されたからです。約束された神さまは真実だから、神様がこの言葉の責任者だから、信じない者にならないで、信じる者となられますように主の御名により祝福いたします。

 

最近の私は、会話や祈りの中で私の人生の終わりも近づいて来ている事のために祈る時間を多く持っようにしています。だから今日、やるべきことは今日の内にできるだけやるようにしています。私は12年前にすでに遺言書も公正役場で作成し、夫がなくなってから直ぐに、遺産贈与の手続きも終えて主の召しに相応しい人生を歩みだしています。

 

だから私の息がなくなるその瞬間まで日々、主に聖霊の油と聖霊の導きによって最後まで主の仕事ができるようにと祈っているのです。息子たちにもその心つもりをしておくようにお伝え、息子たちには、信仰はこれからの人生を正しく導いてくれる指針となる。よって、お前たちの人生を必ず有意義で、価値ある人生として歩むことが出来るからね。お母さんが昇天したからと言って、大声で泣いてくれてもお母さんには伝わらないすでに息絶えているのだから・・・だから、生きている間に、イエス・キリストを救い主と信じ、信仰に立って「強く。雄々しく。大胆」に歩んで行く事を強く希望していますと言っています。

 

私たちの人生は旅のようなものだからです。

 

旅にも色々あります。私の友達やすごく旅行が好きで、暇を見つけては、今度はどこの外国旅行に行こうかな?というぐらい外国旅行が大好きです。それも一人参加のツアーで行くと言っていました。だから冒険があって、いろんな人との出会いがあるので、いつも心にはときめきがある。その旅行中でも現地でハプニングが多く起きて、ハラハラ・ドキドキするが、ガイドがいるから比較的安心して旅行が楽しめる。そう言って携帯に現地で撮った写真を卓球の休憩の時に見せてくれます。

 

旅で出会いたくない旅は命の危険を伴う旅です。

 

私たちの信仰の旅も同じ事が言えます。イスラエルの民がエジプトを出てから約束の地に入るまでのことを思い出しましょう。それはまさに荒野の旅でありました。そこには敵との多くの戦いと困難出来事が待ち構え得ていました。そして彼らは荒野の旅において、神が約束して与えて下さった「乳と蜜のながれるカナンの地」に入る事ができなかった事が書かれています。

 

如何して彼らは約束のカナンの地に入る事が出来なかったのでしょうか。今日はイスラエルの失敗から、如何したら「神の安息に入る」ことができるのかを学びます。第一に、心を頑なになにしてはならない。

7-11「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

 

人は何を第一に考えているのかによってその人の行動が決まります。

仕事優先する人は仕事が中心とした生活になり、健康のこと中心にしている人は、健康管理をするために健康サブリメントやスポーツジムに通っては、体に良いと思われる健康のために色々な事を試すために奔走します。しかし、イエスのことを考える人は天国の事を考えるので、いつも平安に満たされます。これは本当に不思議です。

 

疑っているあなた信じて御覧なさい。イエス・キリストを救い主と信じている人には神様がともに働いてくださるので、心はいつも主の平安で満たされます。何故なら、イエスさまが全ての重荷を取り去ってくださるからです。アーメン。

 

出エジプト記17章に「イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。

 

「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」

 

そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。」これはイスラエルがエジプトを出て荒野に導かれたときに起こった出来事です。

 

そのお蔭でイスラエルは430年間エジプトの地で奴隷として仕える事になります。

 

しかし、そんな地獄の苦しみの中で彼らが主に助けを求めて祈ると、エジプトの奴隷の地からイスラエルを救い出してくださったのです。これは人間的には全く考えられないことでしょう。しかし神さまは力強い御手をもって事実、彼らをエジプトから連れ出されたのです。

 

エジプトの奴隷の地から開放された民たちは一体どうなってしまったのでしょう。彼らはどうなったでしょうか。彼らが導かれたのは厳しい荒野でした。荒野というと皆さんは先に話したように想像を絶するような危険と隣り合わせです。荒野では干ばつのために川や湖が干上がり、動物たちも水を求めて戦い、人も飲水を求めても森林も伐採された荒野に、食べるものがないので餓死し、枯れ切った獣の骨の屍を見ます。

 

荒野で生きていくには本当に死を意味するほど危険と隣り合わせなのです。ている状況を映像でみますが、荒野と書くぐらい大変厳しい環境だと言う事です。その中でも水がないというのはイコール死を意味しています。

 

飲水の事でイスラエルの民がモーセに対して激しく攻撃をしてきました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」モーセも困惑したでしょう。

 

エジブトでの430年間、奴隷として受けた苦役をから開放してくださった神さまがどうしてこんな荒野に私と民たちを導かれたのか?モーセも知りたかったでしょう。だからモーセ主に叫びました。すると主はナイルを打ったあの杖で、ホレブの岩を打つようにと命じられました。それでモーセがそのとおりにすると、岩から水が勢いよく流れ出てきたので、彼らはそれを飲んで満足したので全員、落ち着きを取り戻します。

 

何故、こんな事が起こったのでしょうか。何が問題だったのでしょうか。

 

彼らの心が頑な、つまり強情だったのと、彼らはこれまで何度も主のみわざを体験したにもかかわらず、信じることができなかったのです。少しでも状況が不利になるとすぐにつぶやいて、神と争ったのです。それで主は怒りをもって誓ったように、「彼らを神の安息に入れない」言われたのです。

 

私たちも神の救いのみわざを経験し、何度も神の恵みを体験しているにも拘らず、常にイスラエルのように心をかたくなし、常に心が迷い、神の道を悟ることが出来ずにいるクリスチャンがどれだけ多いか?そうなるとイスラエルのように「神の安息」に入ることができなくなるのです。私たちは信じる事です。神さまは愛と哀れみに満ちておられる神さまだと言う事を・・・

 

 詩篇103:8「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」これが私たちの信じている神さまです。私たちが何度も何度もつぶやき、主に対して不平不満を言っても、主は私たちを赦してくださいます。怒るのにおそく、あわれみ深い方なのです。しかし、いつまでも心をかたくなにして、常に心が迷い、神の道を悟らなければ、最終的には神の怒りお審判が下ります。

 

ですから、そういうことがないように、イスラエルのように心をかたくなにしないで、心を柔らかくして、神のことばを素直に受け入れなければならないのです。マルコ9:21-24イエス様の質問にたいして父親は「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは答えはこうです。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 

するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」色々と言われていますが?私は、父親は弟子たちにてんかんの霊を追い出してもらえなかった事について、失望していたのでしょう。しかし、弟子たちも大きな失態を起こしています。

 

弟子たちはすでに悪霊を追い出す力と権威が神さまによって与えられていたからです。しれが活用出来なかったのです。それを知った父親が「もしできるなら?」と言ってしまったと私は解釈しています。それに対してイエス様は、「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」そしてイエスはこの子から悪霊を追い出し癒してくださいました。信じない者にならないで、信じる兄弟姉妹になられますように、主の御名により祝福致します、