今日はまた寒い。。。
なのに
身も心も氷つくような嫌なニュースばかりです。
トランプ氏の「無条件降伏」要求から1日足らずで、イランは決して降伏しないとの強気の回答をしています。今後、世界各国がエネルギー争奪戦争となり、このまま第4次世界大戦に向かって行く事になるでしょう。聖書にはそのように書かれています。しかし、神の子どもたちよ。最後まで救われる人々のために忍耐と愛をもって、あきらめずに祈り、伝道に励んでいきましょう。
今日は、神への絶対的信頼について学んで行きましょう。
1節「神よ、わたしをお守りください。私はあなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにありません。」神への忠節と信頼の告白よりスタートしています。主こそが自身の最高の幸福であり、生きる全てであると宣言しているのはダビデです。この詩篇は、神に対する信頼を公に言い表す信仰告白の形を取り、祈り手が先ず、神の加護を乞い願う事から祈りが始まっています。
それと同時に、
他の神々、偶像を選ぶ者たちの末路についても言及しています。それが4節「ほかの神へ走った者の痛みは、増し加わりましょう。は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない」と述べ、人間の手によって作られた偶像礼拝を断固、拒絶し、唯一の神であるヤウエの神のみ礼拝の対象であることを表明しています。
それはダビデが逆境にあって、イスラエルの王であるサウロに命を狙われ逃げ惑って困っていているため、命の救いを神に求めているのではありません。
この詩にある意味は、こんな困難な状況に中であっても、神さまの守りと全ての必要が満たされ、敵から守り、導いてくださる神さまえの、感謝と喜びの詩篇です。この詩篇の祈り手はダビデです。ここで、神が今まで守ってくれたように、将来も守ってくださる事を信じて祈っているので、それゆえ、神殿の中には主の栄光の臨在で充満され、神の手によって自分が守られている事を実感しながらダビデが感謝の祈りを捧げているのです。
私も同じくです。
特に早朝で祈る時は、礼拝する場所にはだれもいません。しかし、ここに今、信じる者と共に働かれる聖霊さまが臨在されていると信じて語りかけ、信仰によって祈っています。それは、箴言3:6「あなたの行く所どこおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」だから私は、イエスさまの御前えは、複雑で解決出来ない難しい問題から、全てみな丸投げして祈ります。
そのように祈ると、時期が来たら問題は不思議です。解決済みです。どうしてと聞かれても答えは、兎に角、問題がいつ解決されたのか?知らないあいだに神さまが解決してくださるのです。だから主の御前で全て問題を丸投げして祈るのが日常です。主に絶対信頼で祈る祈りが大切だという事です。本当に厚かましいと思われるかもしれませんが、これが私の祈りのスタイルで、私が今まで祈って経験してきた事実に基づくものです。
神さまは色々な方法で人と関わり、みんな同じ扱いはされません。他の人と私とは、まったく違った方法で主が働かれる事は当然です。各自、体には多くの器官があるのですから、神さまから与えられた賜物が異って当然です。「耳が目の役割はできない」これと同じです。しかし、方法と手段はちがっていても、心に平安があれば大丈夫、安心してください。聖霊さまが確実に働いておられますから。。。。
全ての信じる者たちに、聖霊さまが秩序をもって働いておられるおです。このように、信仰によって、御言葉によって正しい歩みをする人は、罪を犯し続ける事が出来ません。なぜなら、「罪の支払う報酬は死である。」事を知っているからです。だから、過ちを犯したら、また、同じ罪を繰り返しても、神の御前で罪を悔いて祈るなら、再び、神と親子関係が成立しているので、ごく自然に親密に語り合う事が出来るようになります。
神との絶えざる交わりこそ、信仰に生きる者の自然な姿だからです。
5節「主は、私への譲りの場所、また私への盃です。あなたは、私の受ける分を、固く保っていてくださいます。」この信頼は、時代が変わっても、困難な時代にあっても揺らぐことのない確信へとつながります。8-9節「わたしはいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので私はゆるぐことがない。それ故、私の心は喜び、私の魂は楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」
私はいつも主が常に共にいてくださるという確信が、心に喜びと平安をもたらすからです。
「このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである」神と係わること以外、全てを排除することこそが真の幸福であるゆえに、異教の偶像との結びつきは、その人に不幸と悲しみをもたらすものとなります。まことの神であるヤハウェとの関係から生じないことは、すべて罪となるからです。この真の関係を潔く保つべしという要求は、人間性全体を包括する神との親密な交わりの中から生まれています。ダビデの思いは完全に神に向けられています。
私も絶えず主を前に置いています、だから主は私の右におられるから、私は安心であり、私の心は揺らぐことがないのです。
強気で言いたいのですが?正直いって、私の心は大きく揺らぐことが多いです。正直言って・・・しかし、主の御前に全ての思い煩いを丸投げするようになってからは、あんなに悩んでいた事や不安でいっぱいだった心が「嘘のように跡形もなく取り去られて消滅しているのです。本当に不思議体験です。
ダビデも絶えず自分を神の眼の前におき、辛い出来事や、今、自分の経験している苦悩の全てを、神の託し、感謝と希望を抱きながら、絶えず祈っています。これは神の臨在と愛により圧倒された者の信仰の祈りであり、告白です。神との出会い、祈りにおける交わりの中から、神との生命の交わりが生まれて来ます。。だから、神が私たちの右におられる限り、私たちも決して、揺らぐことがないのです。
信仰者は、危機の最中で神の救いを確信し、神の助言と導きを確信することが聖霊によって示されます。だから「わたしの心は喜び、からだは安心して憩います」(9節)と歓呼の声をダビデは上げているのです。彼は自分のからだと魂が、将来においても神のみ腕に抱かれることを確信しているからです。
ダビデはこのとき、サウロの嫉妬と妬みにより命が狙われ、死に直面していたのです。しかし、その困難の中でも、彼は自分のからだと魂が、将来においても神のみ腕に抱かれるという喜びと確信のゆえに、心は喜びと感謝の賛美で満たされていたのです。素晴らしい証です。
「墓穴」とあります。ダビデは、死の克服を信じています。しかしだダビデは神との生命の交わりによって、死の恐怖から解放され、神と共に生きる”命”が全身全霊を包み込み、そのとき死は事実上、その拘束力を失ったのです。死によって一切が終わるとか替えている人生観をもっている人に対してのみ、死は猛威をふるうのです。詩人は、生命を授けたもう神の力に与かることが許されています。それゆえ死も陰府も、神との生命の交わりを妨害することは出来ないのです。
神より与えられるこの生命のうちに、死を克服する勝利の力があるからです。
詩篇16章10節は使徒2章25-27節に引用され、イエスの復活を預言する言葉として理解されています。しかし、この詩篇の文脈において、10節はイエスの復活を預言する言葉ではありません。しかし、新約における復活信仰と、この詩人の信仰は、同じ基盤のうえに立っています。どちらも神の生ける力に対する確固とした揺るぎない信仰を支えとしているからです。キリストの復活において死を決定的に克服したのは、神のこの力にほかなりません。
ダビデはここで「命の道を教えてくださいます」といって神への信頼を保っています。
「命の道」とは、この場合、死を越えて継続される神との生ける交わり、と理解されています。神ご自身が彼のために備えられた喜びは永久に続きます。この信仰は、死をも含めた生の全ての現実に対して、積極的な信仰をもってかかわることを可能にしています。この詩篇のクライマックスは、死と黄泉(よみ)に対する勝利の宣言です。
ダビデは、信仰の目をもって、死で終わらない希望を歌っています。10-11節「まことに、あなたは、私のたましいをよみにすておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に命の道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」この箇所は、復活の希望を力強く預言しており、イエス・キリストの復活を証明する預言として二度引用されています。
一度目はペンテコステの日のペテロの説教(使徒行伝2章25-28節)で、二度目はピシデヤのアンテオケでのパウロの説教(使徒行伝13章35節)です。彼らは、ダビデが歌ったこの「あなたの聖者に墓を見させられない」という希望が、ダビデ自身においてではなく、ダビデの子孫であるメシア、すなわちイエス・キリストにおいて完全に成就したのだと証言しています。
詩篇16篇は、魂が陰府(よみ)に捨て置かれず、聖者が墓で朽ち果てることを神は許さないという希望に満ちた言葉で締めくくられます。神が「いのちの道」を示し、神の御前には満ち溢れる喜びと永遠の楽しみがあると約束されています。
箴言 14:12-14 「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。 笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。 心のもとれる者はそのしわざの実を刈り取り、善良な人もまたその行いの実を刈り取る。」
このように詩篇16篇は、乱れた時代における神への揺るぎない信頼、主ご自身を最高の嗣業とする信仰、そして死を打ち破る復活の希望を歌い上げた、預言的な深みを持つ詩篇です。ゆえに、聖書は肉の食物を食べるように、霊の食物も日々食べるべし、それも良くかんで、味わって読むべしなのです。祈りましょう。
