昨日卓球の試合があり・・その前に奥の畑で雑草取り、かえって来てから神戸元町に・・
疲れているはずが・・何でか元気パワー全開だ
神さまに感謝しかありません。
では本題にはいります。
今日のメッセージはキリストの弟子のピリポにフォーカスしています。
使徒の働きは通称聖霊行伝とも言われています。だから今日の主役は聖霊様であって、ピリポは聖霊様の導きを素直に信じ、直ぐ行動に移した人、ゆえに聖霊様に豊かに用いられた人物です。聖霊様の導きに積極的に応答していく時、誰でもが今日のピリポのように、聖霊の力によって驚くべき輝かしい活躍をする事が出来ます。これは事実であり、私も聖霊様の導きにより勝利を獲得する事が今日も起こっています。
米国とイランの戦闘終結に向けた交渉を仲介するパキスタンのシャリフ首相は13日、合意が「今後24時間以内に成される見込みだ」とXに投稿し、14日までに実現する公算が大きいという認識を示していますが、 そんな中、合意が近づく中お互いの駆け引きも続いています。イランのメヘル通信は12日、米国などによる3000億ドル(約48兆円)規模のイラン再建案の提示などが盛り込まれた14項目の覚書案を報道。
トランプ米大統領は「フェイクニュースだ」と反発し、バンス副大統領も「合意署名だけでイランが現金を受け取ることはない」と強調、自国に有利な合意の成立に向けて主張を続けています。これまで何回も認識が覆る違反行為がありました。世の約束には全く信用できない。然し神さまの約束は決して変わる事がないのと違反行為はありません。
もし、違反が行為があるとしたらそれは全て人間側にあります。
それにメッセージをつくる際に気づいた事は、個人的に福音宣教者と名指しで呼ばれているのはピリポただ一人です。その働きぶりは、まさしく伝道者の名に相応しい働きと活躍です。彼は聖霊に導かれるがままに、あらゆる地へと飛び回り、イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けるために、サマリヤ→ガザ→アゾト→カイザリヤとイスラエルの南北を行ったり来たりしています。
ピリポの精力的な活動とその行動力に敬意を覚えます。
ピリポは決して特別な人間ではありません。同じ聖霊が注がれている私たちにも彼のような伝道者しての使命が与えられている事を忘れないように。福音宣教というもので、全てのクリスチャンに委ねられている責務であり、恵みの働きなのです。Ⅰコリント1:21「神はあえて弱き人を用いる宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになられました。」今日、特に注目すべきは、ピリポ自身は教会の指導的立場にあった使徒ではなかった。
彼は初代教会の一信徒であり、その中の執事、役員的な立場にあった人です。祈りとみことばの奉仕に専念する使徒たちと貧しき者、病んでいる者たちの食事の世話する愛の奉仕が彼の大きな役割でした。もちろん、彼は霊と知恵に満ちた評判の良い者です。それゆえ彼が執事として教会の中から選ばれたことが聖書には記されています。
彼の信仰はとても情熱に満ち、愛と思慮に満ちたものでした。しかし、このピリポはイエス様の十二弟子が奇跡を体験した人ではありません。イエス様から使徒たちのように直接、神の国について教えてもらったり、イエス様と宣教の旅を共にし、イエスさまが行われた奇跡を体験することも、特別な弟子訓練を受けた人でもなかった人です。それなのに、彼は誰よりも精力的に福音宣教のわざに励み、非常に多くの豊かな実を結んでいます。
これは福音宣教というものが、決して特別な訓練を受けた人や、聖書の知識が深い者でなければ出来ないことではない事が言えます。ただ聖霊が注がれ、イエス・キリストを主と信じ告白する者には誰でもが伝道ができるであって、全ての信仰者が福音をのべ伝える使命を実践出来ると言う事です。難しい言葉で語る必要は一切ありません。聖霊様の導きを受けるならごく自然に語るべき言葉が与えられるからです。伝道しなければと気張る必要はありません。
聖霊の導きに従って「今だ。」というタイミングが与えられます。
そのときに「イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられ、滅びから解放してくださったのだ。罪から救い出してくださったのです。」ピリポこの福音をシンプルに伝えています。聖霊さまの力ある言葉が自然に口から飛び出してくるからです。使徒8:26「さて、主の御使いはピリポに『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。 」
唐突で、しかも無茶振りのような天使の注文にピリポもさぞかし驚いたと思います。
ピリポが聖霊さまからのメッセージを聞くまでは、エルサレムより北にあるサマリヤに滞在していました。そこでは素晴らしい福音宣教が成功して、多くの信仰者が生まれたのです。福音を聞いて信じた人々とその町には、感謝と賛美で喜びがあふれていts事が使徒8:8と記録されています。
福音は、信じたその人、そしてそこから町全体に喜びを与えるからです。
つまり罪からの解放されると、心に喜びと感謝が溢れるからです。いってみれば、そのときのサマリヤはまさに聖霊に満たされて罪からの解放により町全体、民全体がノリに乗っていた最中で、更に多くの実りが結ばれる最も期待できる状況にありました。それなのに聖霊さまはピリポに「エルサレムからガザへ下る道に行け」と言われたのです。
そこは寂しい道であったと書かれてある通り、当時のガザは非常に荒れ果てた地でした。
寂しい道とは他の訳では荒野とさえ表現されています。そんな人がほとんど通らない。そんな場所に「なぜ、このタイミングで行かなくはならないのか?」ピリポも人間です。疑問に思ったと思うのですが、ピリポは素早く行動に移しサマリヤを後にします。
本当に驚くべきことです。この行動に迷いや躊躇が一切ありません。
それは、彼は自分自身の知恵、考え、経験してきた事よりも、聖霊の導きを信頼していたからです。
福音宣教とは、聖霊の導きによりやることが成功の秘訣です。時には、効率や生産性を度外視して、常識的にもこれはおかしいやんかと思えるような事もやらなければならない時もあります。私自身経験済みであり。これからも続きます。主イエスは数多くの収穫以上に、まず迷える羊である一人の魂に常に注目されます。主が常に心がけておられる事は九十九匹の羊以上に、一匹の迷える羊の事を気遣われるのです。
豊かな実とは、私自身の力や能力、知恵、経験で結べる実ではなく、主イエスのぶどうの木に繋がって、初めて実が結ばれるのです。ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
このエチオピアの宦官はまさに、迷える一匹の子羊でした。
彼はユダヤ人に汚れた存在と見られていた異邦人、アフリカ人でした。聖霊様はこの迷える人、エチオピアの宦官の元にピリポを送られたのです。当時のエチオピアという国は、今でいうとエジプトの南、スーダンの北部にあたりで、エルサレムまでの道のりは非常に遠く、そして険しいものでした。しかし、それにもかかわらず彼はペンテコステ、七週の祭りに、神さまを礼拝するために遠路はるばる聖地エルサレムへとやってきたのでした。
つまり、彼は異邦人であったが、生けるまことの神を信じる熱心な改宗者の一人だったのです。
しかし、当時異邦人改宗者は、神殿の内庭にある聖所に入る事は許されず、ただ外側の庭での礼拝のみ許されていました。そんな差別化された扱いを受けていても、彼はエルサレムまで神さまを礼拝に参加するために遠方からやってきたのです。
礼拝をすませ、彼は帰りの馬車の中で一生懸命、イザヤ書を読んでいたのです。彼は神の救いを求める熱心な求道者だった事が良く分かります。
クリスチャンだと言っている人でも、日曜日しか聖書を開かないし、読まない人が大勢いる中で、兄弟姉妹、習うべきです。
ゆえに、神さまはこのエチオピアの宦官の切ない祈りと叫びを聞かれ、主の憐れみにより、宦官のもとにピリポを遣わされたのです。使徒2:21「主の名を呼び求める者は、みな救われるのです」聖霊はこの一匹の羊、エチオピアの宦官を救い出すためにピリポに「今直ぐにあの馬車を追いかけて行け!」しかし、人が馬車を追いかけて追くはずがないのに、無茶もいいところです。
しかし、ここでもピリポは躊躇することなく、馬車に向かって猛ダッシュ。彼の足が相当速かったのか?そうではありません。聖霊様が足を早めて下さったからです。とにかくピリポは馬車に追いついて、走りながら話しかけています。「その読んでいるイザヤ書の内容ってわかる?」と・・すると宦官は顔を曇らせ「教えてくれる人がいないから良く分かりません。もしわかるなら教えてくれませんか。」とピリポを馬車に引き上げたのです。走って追いかけてきた人は見ず知らずの男です。それにその人が善人か悪人かも分からないのに馬車にのせるかな?しかし、この行動には宦官の切実な心が痛いほど現れています。彼はそれほど霊に飢え乾いていたのです。
私は共に伝導しましょうと誘うことがあります。
すると私には人を導く手引きなんかはできませんとドン引きする人が多い。。まず私たちが伝える事はただ一つ、イエス・キリストの福音を語る事です。私たちは聖書学者ではなく、キリストの生きた証人なのです。イエス・キリストの救いを語り、私自身の救われた体験を語ればそれで十分です。
使徒8:32「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。」この苦難のしもべ、このメシアが誰なのかがわからない。このお方が誰なのかが私は知りたいのですと宦官はピリポに求めたのです。その問いに対してピリポは、神のひとり子である主イエス・キリスト、この方こそが苦難のしもべであり、あの十字架は私たちの罪の贖いなのだという福音を告げ知らせたのです。
この時、エチオピアの宦官はあの十字架のイエスは私の罪のあがないゆえのことだったのか。イエスはあなたの罪の身代わりとなって十字架で苦しみ、死に、復活されたのか。ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」極端な話、伝えるのはこれだけでいいのです。むしろ、これが全てだと言っても良いでしょう。実際、エチオピアの宦官はとても満足しました。これが知りたかったのだと言わんばかりです。彼は民族の壁を超えて全ての民に救いが開かれたというこの福音を信じ、罪からの解放を心から喜びました。
そして、自ら「ここに水があるのにバプテスマを受けるのになんのさまたげがあるか。」と言い、バプテスマを志願しったのです。そこに聖書があり、真理である福音へと手引きする者がおり、それを信じる者がいるのです。それは、そこに確かな聖霊の導きがあるからです。逆に、どれだけ聖書のことを知的に理解してもこの福音を信じていなければバプテスマを受けることはできません。
彼がイエス・キリストへの信仰によって救われていたことは、バプテスマを受けた後の反応を見るとよくわかります。
ピリポはなんと、この一匹の迷える羊の魂が救われると、また主の霊によって連れ去られてしまうのですが、水から上がった宦官の心には喜びで溢れていました。サマリヤの街の人たちと同じです。福音が心に注入された者の心には喜びが溢れているのです。彼にとってそこにピリポがいる、いないは関係ありませんでした。
それは、まことに彼が自分はピリポによってではなくキリストによって救われたのだという確信がそこにあったからです。私たちも彼と同様にこの福音宣教のわざに招かれた一人です。主の霊の導きに従って時には大胆に主に福音を届け、救いの証を語る兄弟姉妹であることを心に留めておくべきです。祈りましょう。
