今年もやってきました。朝から晴天☀️
平和記念式典、配信を見ながら想いを寄せたのは、祖母でした。よく生き残ってくれた、私に命のバトンを繋いでくれた。ありがとうってことと、私は何をしたらいいのかってことを8:15の1分間の黙祷で問いかけました。祖父の笑顔と祖母の笑顔と気楽に生きんさい、そのぐらいでいいよって教えてくれたような気がします。
今年の記念式典はなんか見るのがしんどかったので30分くらいを目処に、こちらへ想いを綴ることにしました。
これは、ブルーナさんが描いた障害を持つダーンと寄り添うミッフィー、肌の色が違うもの同士、差別を受けることはないと言うメラニーとミッフィー
どちらも『願い』です。
『現実』です。
この絵が意識されなくなった時、初めて平和が来る。
『気にならなくなった時』がその時、すなわち『平和』が訪れる。各々の中に平和を、と願ってきたけれど、願いではなくすでにある幸せに気づくことも一歩平和に向けて歩んでる気がする今日この頃です。
そろそろ手記載せます!
長いのでそれだけ伝えます。(笑)
『九死に一生』 ◯◯トクヱ
50年前の忌まわしい出来事、今までは、私個人で忘却の彼方のことを記憶に呼び戻しつつ、心の中に秘めて、青春の一頁として胸の奥底にしまっておくつもりでしたが、このたびの機会を得まして、あの悲惨な事実を味わった被爆者の生き証人の一人としてペンをとらせていただきます。
当時、私は二十歳でした。
私の家は、両親と、兄二人、弟一人、妹四人、私を含めて十人家族でした。
長男は陸軍通信兵として北方へ、二男は海軍航空兵として南方へと出征して、内地に残された、両親、弟妹のことを慈しみ、長女としての任務でもあり、二人の兄から留守居を預かっていたということで、両親が営んでいた農業と、家事の手伝いをしていました。
そのころは、家庭の事情がどうであれ、それぞれが与えられた教育を終えた後は職業を持っている人は別として、成人は軍事工場へ働きに行かなければならないことになっていたのです。
もっとも、農業に従事している者は、政府が食糧増産を重要視して許容していました。
ともかく、この命令に背く者は非国民と言われ、強制的に徴用がかけられていました。
あの運命の8日6日の日、私にも白羽の矢がたち、広島市家屋整理のために、義勇隊として召集令状が来て、現地、広島に赴くことになりました。(実家は大竹)
出発前夜は、今にして思えば虫の知らせだったのかもしれませんが、
言い知れぬ胸騒ぎがして、夕食も喉を通りませんでした。
しかし、国家の命令で絶対服従です。
やむなく当日の朝、大竹駅から午前6時50分、ギューギュー詰めの列車に乗車、7時50分、己斐駅に到着して、8時、目的地の天満町の作業場へ向かいました。
その途中の出来事です。
8時10分、旧己斐橋を渡り福島町電停近くの大木(センダの木)付近にさしかかった時、あたかも焼夷弾の直撃を受けたかのようにピカっと光が走り、そのまま前後不覚となりました。(8時15分B29原爆投下)
どれくらい時が経ったか、ハッと我に返りあたりを見回しましたが、今まで数百人の人が隊伍を組んで歩いていたのに人影はなく、私一人残されて猫の子一匹見当たらず、道路を歩いていたはずの自分が、50mくらい離れたところのそば畑へ横たわっていました。
心細さこの上なく、しばらく呆然としていましたが、やがてソーッと立ち上がりました。
戦時中は、其処彼処にセメントで造った防火用水が置いてありましたが、私の身体が爆風で飛ばされた際に、横たわっていたすぐそばの用水の角に引っかかり、左の下唇が避け、衣服は血まみれで、ぶら下がった唇を元の位置に押さえつけ、着ている物は焼けてボロボロ、やけどは身体一面ですが、得に顔面、のど、左側の頭から足首までと、左腕と手の指全体の皮膚が酷く焼けただれているという状態でした。
そうしているうちに、俄かに大粒の黒い雨が降り始めました。
その時着ていた真っ白いブラウスが悪臭を放ち、濁った薄い黒紫色をしていたそうです。
ひどいやけどを負い、しかもジリジリと太陽の照りつける真夏の日で、のどの渇きに我慢ができず、手に持っていた水筒はどこへ飛んで行ったのか見当たらず、仕方無く黒い雨水の混合していた防火用水の水を、裂けた唇を押さえながら、手ですくって飲みました。
人間の命を支えている水、それがかわいた喉を通った時の微妙な美味、ありがたさは、筆舌につくし難いものでした。
恐怖におののき、再度の敵機襲来から逃れるため、避難場所へと瓦礫と電線の重なり合っている道なき道を、手探りで足を早めました。
みちすがら、上級に敵の偵察機が一機、旋回していましたが、それを尻目に旧己斐橋の手前に差し掛かった時、民家から火事が出ていて、そこの玄関らしきところに、50才前後の女性が柱の下敷きになって助けを求め、夫と思われる男性が、当時は物資不足の折、夏場でもあり下着姿で、その下着が破れけがをして出血しているところへ、折悪しく黒い雨に降り込まれ、血だるまになってあたかも目をおそうばかりの痛々しい姿で、妻を助けようとして必死の想いで、二、三歩、歩いては倒れ、次第にに近づいてはいたものの、その後は私の想像ですが、火に包まれ、夫婦もろともあの世の人になったのではないかと思われます。
お気の毒でしたが、手を添えるすべもなく、やっと己斐山の裾野に辿り着いたあたりで、朝鮮の人が寄り集まって、うずくまっているのに出会いました。
その人達は皆、上着を着ていなかったと見え、全身やけどで肩から手首へ皮膚がズレ落ち、あたかも幼児が靴下を下までずらしたようになっていました。
その中の乳飲み子を抱えた母親が母乳を含ませようとして、いたいけな子の肌に障ると、やけどで痛さのあまり悲鳴を上げて泣いている。
この母子の苦痛は如何ばかりだったことかと、今思い出しても胸が詰まる想いがします。
あまりにも悲惨な姿を目の当たり見て、まるで生き地獄さながらでした。
私も、みなどこへ行ったのだろうかと泣きながら、知らない土地の己斐山中へ吸い込まれる様に奥へ奥へと入っていくと、誰しも生き延びたい、命惜しさで、身を隠す場所は皆同じ、数多くの壕の中は息苦しい人、人、人、壕の奥の方からは微かな人のうめき声。
お寺の本堂へは、次々と陸軍兵士が戸板に乗せられ、虫の息で運ばれてきて、見る間に屋内に収容できなくなり、そのうち息が絶えた兵士は、庭にむしろを敷いて、その上に寝かせられ、天から干し、何と悲惨なことであろうと労しく、これが夢であってほしいと思いました。
一方、まだ息のある兵士は、皆、水を欲しがっていましたが、他の者も皆、明日をも知れぬ大惨事にあって、自分のことが精一杯で、要求に応じるものもないという、有様でした。
ジリジリと暑い炎天下、しかも、やけどを負い、苦痛に喘ぎながらお水を求め、奇しくもこの世を去って逝った人々に、せめてものご供養に、お水をたっぷり手向けてあげたいものと思います。
当時は、食量不足の絶頂、お弁当と言っても、麦飯に梅干し、これでも御馳走のうちでした。
しかし、ひどいやけどを負い、壕の中に入っている人々は、皆袋のような鞄にお弁当を入れ肩にかけたまま、一人として食べようとせず、お互いが疲れ果て目をつむり、恐怖におびえながら、あたかも坐禅を組むかのように、唯、沈黙を続けていました。
そうこうするうちに日暮れ近くになり、時刻をと左腕に目をやると、はめていた筈の時計は革バンドが焼け切れてなくなっており、たぶん5時前後ではなかったかと思います。
「大竹町からの義勇隊のお迎えのバスが来ました」という声が聞こえました。
このときは、地獄で仏に出会ったような天にも昇る心地でした。
小躍りするような気持で下山し、麓には4台バスが連結して停車していて、その中の前から2台目のバスに乗り込んだところ、何とも偶然にも千田町の広島貯金局庁舎内で被爆した妹が先に乗っていて、暑いガラスの破片で顔や腕にかなりの重傷を負って、白いブラウスが血まみれになっていましたが、人相だけはわかりました。
一方、私は麦わら帽子をかぶっていたので、後頭部は焼けのこり、前髪は丸坊主、口は膨れて土人のよう、口の切れた所はザクロみたい、目の玉があるのかないのかわからないくらい、顔一面、二倍、それ以上にも膨れあがって、牛肉の半焼けのような色をしていたそうです。
こんな状態ですから、おばけ屋敷に出てくるお岩さんそっくりそのものだったそうです。
衣服と言えば、海苔であるわかめをまとったようで、妹も姉の判別がつかなかったと見え、私の方から声をかけました。
見る影もない私の姿に妹は驚き、涙にむせびながら、姉妹手を握りしめ、生きていたことの喜びをかみしめ合ったようなことでした。
以前にも、父親、息子、兄弟が、戦場でばったり出会ったということを耳にしましたが、世の中には、私が身をもって体験しただけに尚更のこと、偶然ということはあるものだなあと痛感しました。
帰路の間も妹は我が身の苦痛をも顧みず気を遣って、幾度となく大丈夫?と手に手を携えて労わってくれました。
病は気からと申しますが、そのとき、自分がどのようなみすぼらしい悲惨な姿になっていることか露知らず、むしろ、まわりの人々に同情するほどで、気分は確かなものでした。
やがて被爆者全員が乗車したことを確認して、しずかにバスは大竹へと向かい、途中、廿日市小学校へ一時停車して応急手当を受け、ここでも又、偶然にも手当に携わっていたスタッフの中に、当時は、銘々が住所、氏名、年齢を書いた名札を胸につけていましたので、お互いに気づいたのですが、私が小学校5年生の時教えていただいた女教師に会い、9年ぶりの哀れな姿の再会でしたが、温かい励まし慰めの言葉をいただえき、丁寧に治療をしていただきました。
それから廿日市駅から汽車に乗り、両親弟妹の待つ大竹へと向かいました。
到着した時には夕闇に包まれ、人の顔もおぼろげに見えるくらいで、家族や身内の人々が案じて、駅のまわりはごった返しておりました。
私は、どこのだれかわからない状態でしたが、妹が側についていてくれましたので、人ごみをかき分け、父が真っ先に走り出て来て、大変だったなぁと忍び泣く声は聞こえましたが、その後は、今までの緊張感が緩んだものか、父との対面の嬉しさ、安度か、意識不明となり、どこをどうして我が家に連れて帰ってもらったのか、記憶がありません。
以後12日間は、世間に波風が立っていることなど露知らず、昏睡状態に陥りました。
私が正気を取り戻してから聞いた妹の話では、帰路の車中で数人の死者が出ていたそうで、父たちは、あの人たちの後を追うようなことにならなければ良いがと、私を案じて狼狽したそうです。
他界した人達も、廿日市駅では何とか一緒に乗車したのに、家族を一目見て目をつむりたかったであろうにとお気の毒で、ご冥福をお祈りしました。
これからの話は、私は意識がなく、後から聞いたことなのですが、やっと自宅に落ち着き、家族は、皆で私の手当をしてやれるとおもったのもつかの間、数限りない敵機B29の襲来。
私の実家は、川を隔てて山口県との県境にあり、その日は、川向こうの陸軍燃料しょうを目的に、我が家の上空を次々と旋回しては爆弾を投下、父は、意識のない私を自宅の庭にある防空壕に避難させたまではよかったのですが、いつの間にか
私が行きはしているけれど全身が冷たくなっていたのです。
あわてた父は私の身を毛布に包み、自分も防空帽をかぶり、布団を頭からかぶって、敵の攻撃の真っ最中で爆弾の破片が飛び散るところをくぐりぬけて家に連れて入り私の垣になってくれました。
終戦の日の8月15日の早朝、岩国駅への激しい攻撃がありました。
意識のない私に母が厚い布団をかぶり、座敷のど真ん中で、死ぬ時(に)はこの娘諸共と、かぶさるようにして耐えましたが、上空では敵機B29の騒音、爆弾の炸裂する音、それに末の娘がそのとき1歳8ヵ月でしたが、父に抱かれて壕の中で泣きわめき、父はその妹をしっかりと抱きすくめておりました。
爆弾の騒音の中、唯々なすすべもなくまるで嬰児の手を捻られているようなありさまでした。
やがて昏睡状態から目覚めたとはいえ、目はかすみ、高熱におかされ、頭痛がして頭は割れんばかり、やけ残りの後髪はちょっと障ればパラパラと抜ける、体力も気力もない有様でした。
破れた唇は六針縫いましたが、当時は薬とてなく、お化粧の下地に機械用のワセリンを塗っていた時代ですから、食用油がやけどの唯一の治療薬でした。
やけどの手当は、まず、油をぬったサラシ布を傷の各箇所に全部張りめぐらし
時間がたつ毎に青鼻のような固い膿が重い程サラシ布に浮き出ていて、それをソーっとはがし、膿を洗い流して洗濯をして、その布をまた使うという要領のくり返しをして、一か月もたつうちに膿も出なくなりました。
このようにして、私は、家族のものに至れり尽くせりの手当をしてもらいましたが、似島、海田方面に収容された被爆者は、介護が行き届かず、悪臭を放ったやけどのところへハエがとまり、膿の中へ卵を産みつけ、それが大きなウジ虫になりウジ虫が骨まで届かんばかり肉の中へ食い込んで、目から火が出るほど痛かったそうです。
私は次第に皮膚に薄皮ができ始め、両親はいつまでも隠していてもと思ったのでしょう、ある日、私の目につかないところへしまってあった手鏡をだしてくれました。
覚悟はしていたものの、自分の顔をうつした途端、まさかと思っていたことが現実の姿となってうつり、悲観のあまり隠し切れない悲痛の思いをどこへ投げうってよいのやら、今まで何のために必死の想いで苦痛を堪えしのんできたのか、前途が真っ暗闇になり、いっそ一思いにと思いましたが、両親は私のそぶりを蔭から見ていたのです。
母は、
一つしかない尊い命を大切にしなければいけない。誰でも悪いあとは良いことになる、夜の後には必ず朝がやってくるのだからと、
父は、
お前を救うことなら、お父さんの命にかえてもなんでもしてやるといって戒めてくれましたが、そのときは気分が高ぶっていて反抗し、両親の言葉など聴く耳持たずでしたが、冷静になって考えてみると、皆が一丸となり、九死に一生をもたらしてくれた恩に報いるためにもと、耐えしのびました。
自分も子を持つ親になって人生を歩んできた今にして思えば、わが子の苦しむ姿を見て、両親の気持ちはどんなだったろうかと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
話は元に戻りますが、12日間の昏睡状態の間は、当時は、点滴注射など及びもつかぬことでした。
しかし、生命を保持するには栄養補給をしなければならない。
やけどのために、二、三時間もすれば唇の上下が癒着して口を閉じてしまうので、父がカミソリの刃で切り離しては、両親が交互に流動食を口移しにして飲ませてくれて、命拾いをさせてもらいました。
親はもとより、肉親が心血を注いで介護にあたってくれたればこそ、今の自分があるのです。
もろもろのことに深謝すると共に、命の尊厳、肉親の情愛、深い絆の偉大さには、万感尽きぬ想いでした。
主人も千田町の貯金局庁舎内で被爆しました。
当時27歳、居場所が幸いしたのか、体には何の被害をこうむることもなく、主人の持って生まれた性格で、粉骨砕身、若さにかまけて献身的に被爆者の援護にあたり、しかも東奔西走の明け暮れだったそうです。
50年経った今、現在、平和な社会に生存している人たちには、人間世界にこんなことがあったなど、想像もつかないことと思われるかもわかりませんが、これまで書き述べましたことは、まぎれもない事実です。
天災ではなく、人類自らが下した、世にも稀な大惨事にさいなまれ惨死した人、
後遺症に苦しみ生きながらえている人々、こんな無残なことを、一概に人間の宿命として片付けられるものではありません。
二度とこのような過ちを繰り返すことなく、永遠に世界人類が平和で穏やかな社会に生きられるよう努力していくことの大切さを、平和の尊さを、次の世代を背負ってたつ若人たちへ、メッセージとして伝えることができれば、幸甚に思います。
あの日、あのとき、体験したこと、見たり聞いたり感じたことの、過去の出来事の苦い悲しい思い出が、若き日の郷愁の思いとともに、次から次へと、走馬灯の如く新たに脳裏に蘇り、恥を忍んで涙をそそりながら綴りました。
私も現在70歳の坂を昇らんとしています。
顔や肉体のやけどの跡はケロイドとなって残っていますが、人目を誘うようなものではなくなりました。
残された人生、自分なりの最善の努力をして、でこぼこ道を踏みしめ、踏みしめ、天真爛漫に天寿を全うしたいと望んでいます。

