昨日、私の祖母が永眠しました。

享年94歳でした。




ここからは私のブログということでいつも通りの
言葉で綴ろうと思います。

老健施設の方の話によると、

おばあちゃんは昨日の朝4時頃に吐いて、

そのため朝食を抜かし、様子を見ていたところ

朝10時過ぎに意識が朦朧としているところを施設の方が発見し、蘇生処置としてAEDや心臓マッサージをしばらく行ってくれていたらしいんだけど
残念ながら息を吹き返すことがなく
私達が施設から2度目の連絡を受けた際には
心肺停止のため亡くなった。

1度目の連絡は10時過ぎくらいだったと思う。

私は起きるのがいつも遅いのに昨日は珍しくパッと目が覚めて、
廊下で母が普段とは違う様子で電話しているのがなんとなく気になってウトウトしてた。
そしたら、母から
おばあちゃんが意識が朦朧としてるらしいと報告を受けた。

大慌てで支度をし、向かったものの
途中のコンビニの近くで亡くなったとの連絡を受けた。

母はフラフラ崩れ落ちそうになってた。

私は、自分こそしっかりしなきゃなって思ってた。

泣いてる場合じゃないなって。

というのも、学生時代の話になるんだけど
おばあちゃんが認知症になり始めた頃
認知症のせいで人格が変わったり
言ってることがコロコロ変わったりすることを知らなかったし、
母がいないときにおばあちゃんの食事や入浴や洗濯等の面倒を私が担当していたのもあって
私は結構な頻度でおばあちゃんとドンパチというか口喧嘩してた。
私も若かったから余裕がなかったんよね。
なんで私ばっかりこんな思いしなきゃならないのとも思ってたし。
私も歳を取ってからはおばあちゃんが認知症だということを知ったし、
できないことを攻めてもしょうがないなとか
おばあちゃんにできることがあるだけでありがたいとかよかったね!って思うようになって
良くも悪くも期待しなくなったから
口喧嘩はなくなったと思う。
たまーに、してしまうことはあったけどたまーにね。


まぁ、そういうこともあって
おばあちゃんとの関係性が
私の姉や弟とはまた違ったから
たぶん、訃報を聞いたらおばあちゃん子な2人は泣き崩れるんじゃないかと思ってだからこそ
私がしっかりしなきゃなって思ったの。
泣いてる場合じゃないな気張らなきゃって。
私ドライだからたぶん平気だろうなって。


だけどそんなの無理だった。
おばあちゃんの姿を見たら涙が溢れちゃって
とにかく、ごめんねって言葉しか出てこなくて。
ただひたすらにごめんねおばあちゃんって寝てるおばあちゃんを抱きしめてたな。
そしたらゲフってゲップみたいな最後のガスが出たっぽくてそれがなんともばーちゃんらしくて笑ってしまった。
そこからはありがとう、お疲れ様でした。
今まで辛かったね、これで楽な世界に行けるからね。
おじいちゃんと楽しく過ごしてねって言えた。

本当は最期の瞬間に立ち会いたかったけど
きっとたぶんトラウマになるかもだから
これで良かったのかも。

おばあちゃん、息を引き取った直後はきれいな肌してて温かくて柔らかかったな。
爪の先は紫になっていたけど。

老健の理事長でもある医師が来るまで20分くらい待ってた。
11時に亡くなりましたよってのを書いてもらって
そこからおばあちゃんは浴衣?に着替えて
傷むといけないからってお寺兼葬儀屋さんが来るまで冷房のガンガン効いた部屋で何十分か待ってた。

その間に私は施設の方にハサミをお願いして
もらって
母しかいないときにこっそりとおばあちゃんの目立たない部分の髪の毛をちょこっと頂いた。
安置所じゃ絶対無理と思って。

これ読んでる人からしたら
ドン引きされるかもしれないけど、
どうしてもおばあちゃんが生きていた証になるものが欲しかったんだ。
おばあちゃんが身につけているものとかじゃなく
そのものが欲しくて。

余談だけど
飼っていた犬達のときも毛をちょこっと拝借して今も大事に保管してるんだ。

だから大切にしようと思う。

弟もお守りとして欲しいって言ってたし。

※弟はこの日静岡だったか忘れたけど
車ででかけてて行けなかった


11時30くらいになるとおばあちゃんの顔は黄色くなってたな。
でも肌艶よくてシワもほとんどなくて
きれいな顔してるよねって母と話してた。


とまぁ、そんなこんなで
おばあちゃんを無事に見送ったあと
家に帰ってきて


ふと思った


私喪服持ってないじゃん!!


人が亡くなることを想定としてないし
ラッキーなのかなんなのか今までそういう出来事なかったから買うっていう概念がすっこ抜けてたから
最初ネットで買う?ってなったんだけど
すぐ届くかどうかも分からないし、
何よりこの時期に羽織りがないやつしか売ってなかったから
大慌てで近くのコルモへGO!!した。

そこで喪服取り扱っててくれてよかった。
(余談だけど選んだ喪服が航空会社のユナイテッドの制服みたいでかわいかったなって思うくらい最近さくらんばっかり見てるなって思った🤭笑
それと同時に11号が入るんだけど二の腕がキツくて13号になったのには地味にショックというかダイエット頑張ろうって思えた)

ここには数日前にたまたま母と服見に行ってたから
(私は買わなかったけど)
それで覚えてたらしい。
まるでそうなることを予期していたみたいだよねって母と話してた。

3/30に母が飲みに出かけていた日は元気でいてくれて
母が休みの3/31に亡くなったのも
母や叔父さん達なら休みの日であれば
きちんと手配してくれるだろうと
まるでおばあちゃんはそう思っていたかのようだよねって話してた。

2人いる叔父さんのうちの1人が来てくれて
(私にパソコンを買ってくれた叔父さん)

ファミレスでご飯食べつつしばらくしてから
弟がドライブから帰ってきて合流して、
そこから叔父さんは
いろんな葬儀屋に見積もり?聞いたり
日程とかの確認だとかいろんなことを
やってくれたのがすごく助かった。

途中ファミレスが混雑してきたから私達の家で
詳しい日程やら金額やらその他諸々を
電話で確認してたな。

おじさんも私達も
突然のことで頭がいっぱいでパニック状態の中

メモを取りながら聞きまくって
聞きたいことをメモにしてって作業の繰り返しで

葬儀や告別式の日取りを急いで決めて

それをもう1人の叔父さんと私の姉に連絡してってことを繰り返してたもんだから私達4人みんな頭が疲れた。
学生ぶりくらいに頭使ったねって笑
でもこうしてたまには使わないとねって話してた笑


まぁ、そんなこんなで
朝から22時までみんなしてよく頑張ったと思う。

姉も3日間休めるらしいし。



正直、お別れは寂しい。
たくさん喧嘩もしたけど
たくさん愛情をもらって
グレずに生きていけたのは
母はもちろんのこと
おばあちゃんが困ったときにいてくれたからだよなって思う。
何かと助けられた。
私の知らない面でも助けてくれてたみたいだし。
ありがとうを何回言っても足りないし
後悔したって遅いけれど
生きてるうちにありがとうをもっとたくさん伝えればよかったなって今になると思う。

それに、
私は姉や弟のような優しい孫にはなれなかったけど
でもその分、インパクトはあったんじゃなかろうか🤔
後半は一緒に散歩とかする関係で
仲良しだったから喧嘩してたの帳消しにならないかななんて思ったり笑

そういえば、入院中にネイル褒めてくれて嬉しかったな。
他にもおばあちゃんが元気だった頃に、
私のお気に入りの洋服だとか
私の描いた絵だとかたくさんたくさん褒めてくれて自信にもなったしすごく嬉しかったな。
おばあちゃんの褒めてくれる服は、
他の人に必ず好評だったニコニコ
それがなくなっちゃうのなんか寂しいな。

でも、
今日(2024/04/01)もおばあちゃんに会いに行くんだ。
会える限界まで会おうと思ってる。
今日はごめんねじゃなくありがとうをたくさん伝えたいな。



とまぁ、そんな感じで

忘れないためにダラダラその日あったことを記録しておきます。
思い出したらまた加筆修正するかも。

⇩母が施設の方の話をまとめた紙があったので備忘録用に




黄砂の酷いけれども天気が良くて28℃と暖かい日に
おばあちゃんは眠りについた。

その顔はまるで昼寝でもしているかのようだった。



これからは平和で痛みや苦しみのない快適であたたかな世界でおじいちゃんと楽しく過ごしてね。
そしてどうか、私達家族を空から見守っていてください。

2024/03/31