完璧主義を手放すためにいろんなことを試していますが、簡単なことでもないし短期で結果が出ることでもないので、早速すっきり手放すぞ!とこりゃまた完璧目指して追い込まないように気を付けています。


私の場合、定期的に意識したり振り返ったりしないと、いつもの完璧主義脳の癖で、こんなとこでさえまたもや完璧を求めていたか、なんて気付くことがけっこうあります。


 最近は小さな一歩として、

まずいつもの癖通り一度完璧にやってみています。

そして、その時の自分の気持ち(達成感など)は一旦切り離し、俯瞰してその瞬間の状況を見るように心がけています。


 「理想通り完璧に出来て確かに気分も出来もいいけど、この出来の90%の出来でもいいんじゃない?」

と、自分の中での妥協値を探すのではなく、完璧の範囲を広げる感覚で見つめ直してみます。


 大事なのは、ここまでなら妥協できるではなく、完璧のゾーンに入ると思えるかどうかという視点です。


 言葉は重要です。

私は妥協とかこれくらいでも大丈夫、とかそういうスタンスには抵抗があるので、完璧の中でギリギリ下位のゾーンを探っていくという意味合いで、完璧のゾーンを広げよう、といった言葉で振り返るようにしています。


 そうすると、自分のベストより下にフォーカスすることになるので、ありがちだった次はもっとより良く!の新たなハードルを追加しない世界線になります。


 そして、理想を掲げてる時には見えなかったどうしようもない部分や余計な部分が見えるようになります。

ベストを手に入れて満足しているし、疲れてもいるし、持ち前の完璧主義が無駄を許さないので(笑)、合理性はどうだったかなど、わりと冷静に分析できるのです。


 そこで、完璧のゾーンはどうやって広げるか、です。


 完璧主義だといろんな角度から見て合格点じゃないと嫌なわけですが、前記事でも触れた、一番欲しいものをこれと決めるということをやっています。


 今回は掃除についてなのですが、私の場合、掃除の精度と時間(手間、頻度)で随分迷っていたのですが、さらに深掘りしてみると、どうやら私は、掃除そのものの行為よりも、汚いものを見るのが嫌なんだ、と気付いたのです。


 視覚的に不快!とまでいかない気持ちよく過ごせる状態、というのを私の一番欲しいものだと決めれば、とても簡単に完璧ゾーンを広げることが出来ました。


おかげでそうじの頻度が下がり、時間にも精神的にも余裕が生まれ、穏やかに過ごせる日が増えました。


削ったタスクもありますが、代わりに得たものまで含めて評価すると、妥協点だと感じる部分は無く、むしろ完璧を手放した方が、想像し得なかった嬉しい副産物もあり驚いています。


 完璧主義って私の中では完璧を追い求めてるつもりだったのですが、全然完璧じゃなかったんだな、と拍子抜けです。


 完璧を手放せば世界が広がると言ったら大袈裟かもしれませんが、見落としていたことの多さに、なにを完璧ぶっていたんだ、見通し甘過ぎだろ、と笑っちゃうくらいです。


 掃除を、自分の快不快を基準にする(カビは見たくない、ホコリは固まる手前までしか見たくないなど)と決めると、家族のためという自己犠牲、我慢してやらされているという被害者意識、良き妻・母で在らなければという義務感ではなく、あ!自分のためだ!と気付いたのです。


自分の目に映る状態を心地よいものにしたい、それだけが動機となるわけですから当然ですよね。


 完璧主義は、おそらく想像力が働きすぎるがゆえに多くの外的なものに、内的な“私はどうなの?”という大切なコアの部分が埋もれてしまうのかもしれません

 

 私の一番得たいものは何なのか自分の内側を見つめ、一つに絞る練習が必要だと感じています。

 

 あれもこれもこれで合格!これで完璧!と思って猪突猛進していても、少し減速すれば、世界は1本の前後の道だけだと思っていたのが、世界はパノラマであることに気付けるし、そこには自分の認知を超えた穏やかだけどキラキラしているものがいっぱい落ちているように思います。


 それこそが1周回って完璧だったりして!


 だから、完璧主義を手放すって決して妥協するっていうことじゃないと思います。


 完璧を追い求めるのには疲れたし周りもキツイはず。でもだからといって、このエネルギーを鎮火して何にも頑張れなくなることが穏やかな毎日だとは思えない。

だから、少し手放すだけでいいのかもしれない。今の自分を全否定しないためにも。

少し手放すだけでも、新たに見える世界は確実に現れるし、そこで新たな何かを得て初めて体感することにワクワクや発見もあります。


 そこには、完璧じゃなくてもいいいんだ、というより、完璧じゃない方がいいのかも?という希望がありました。