
伊藤左千夫の小説『野菊の墓』にも出てくるこの渡し舟を見るために柴又に向かった。
まずは柴又駅で寅さんの像を見る。

いまだ『男はつらいよ』をしっかり見たことがないのだが、
全48本あるそう。せっかくなので今度1つ見てみようと思う。
(どれがおすすめなんだろう?)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花

¥3,591
そこから帝釈天を目指し、帝釈天参道を歩いていくのだが、歩いてすぐの角に面白い建物を発見。


1Fのハイカラ横丁には、昔なつかしの駄菓子などが売っている。
子供の頃に必ず食べたものばかりでかなり楽しめる。
2Fはおもちゃ博物館で、昭和レトロなおもちゃや、雑誌、ゲーム機などが置いてある。

こちらの展示品がこち亀に登場という張り紙にひかれて2Fにもあがってみる。
1Fで入場券を200円で購入し、2Fにあがる。
中は思ったよりせまかったが、
ケースの中にコロコロコミック創刊号や少年サンデーが並んでいた。


コロコロコミックは1977年4月15日に刊行されていた。これは僕の生まれた1年後になる。
ずっと昔からあったものだと思い込んでいたが、自分が生まれてからできたというのは
結構驚きである。
といってももう32年たっているわけだが、長いといえば長いし、短いといえば短い。
創刊号から表紙はドラえもん。
雑誌も最近廃刊があいついでおり、厳しい状況になっているが、コロコロは大丈夫だろうか。
がんばってほしい。
ちなみにこのおもちゃ博物館のおもちゃの数々は
黒沢哲哉さんという漫画原作者の方のもので、名誉館長もされている。
黒沢哲哉さんプロフィール
ブログはこちら
ハイカラ横丁、おもちゃ博物館の角を右に曲がると、帝釈天参道が続いている。

参道の右手、入ってすぐにある「大和屋」で天ぷらを食す。

あげているところはかなり美味しそう。

たれは関東風で濃い目だがガイドブックにも書いてあったがさっぱりしており、
しつこくない。並を頼んだが、海老とキスがのっており、十分な量である。

店内には寅さんの写真がいっぱい飾られていた。
さらに参道を歩くと、ロケ地に使われた店が。


建替えをしてはいるらしいのだが、この店で寅さんは撮影されたそう。
映画を見ている人だとかなり興味のわく場所だろう。
参道が終わり、柴又帝釈天で参拝した後、いよいよ矢切の渡しに向かう。

堤防をあがると見える風景。



大人1回100円で乗船。安い。元がとれるのだろうか?
使命感で家業をついだという船頭さんの声が新聞にのっていた。
夏は毎日やっているが、冬は土日のみだそうなので注意が必要。
また帰りは16時半で終わりなので、戻れなくならないよう注意。
矢切の渡し松戸市観光協会
わたりきるのはおよそ5分。ほんと目と鼻の先だが、
手漕ぎの船は風情がある。風が気持ちいい。
流れが東京湾とは反対に流れていたが、東京湾に向かって流れていないとおかしい気がした。
勘違いだろうか?
舟は手漕ぎでは流れで流されるため、最後はモーターも使う。
この矢切りの渡しと柴又帝釈天は、
環境庁が指定した将来に残していきたい「日本の音風景100選」にも指定されているそうだ。
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寅さんのふるさとでもある柴又帝釈天の参道は,いつも参拝客で賑わっている。川魚料理屋の生簀の水の音や飴屋がトントンと飴を切る音が聞こえ,境内に入ると,梵鐘が朝,昼,夕を告げる。
江戸川に出ると,船頭さんの手漕ぎの渡し船が,150メートルの向こうの対岸へと往復する。ゆったりと流れる江戸川の水に合わせるかのように漕いで行く。
川面をすべるように対岸に向かうギーッ,ギーッと船を漕ぐ櫓の音,そして春はヒバリのさえずり,夏のオオヨシキリのやかましく鳴く声,冬にはピーピーと鳴くユリカモメなどの声が聞えてくる。四季を通じて,多くの野鳥たちが集まってくる都心に近いオアシスだ。
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残したい日本の音風景100選 柴又帝釈天界隈と矢切の渡し より
この矢切りの渡しの歴史は看板に記載がある。
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◆柴又側の説明
『元和2年(1616)、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15カ所を定船場として指定、それ以外の地点での渡河を禁止しました。その1つが矢切の渡しで、この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。現在、都内に残る唯一の渡し場で、今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。』
◆松戸側の説明
『矢切の渡しは松戸市矢切と東京都柴又を往復する渡しでその始まりは三百八十余年前江戸時代初期にさかのぼります。
当時、江戸への出入りは非常に強い規則のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりでいわゆる農民渡船といわれるものです。
明治以降は、地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され現在では唯一の渡しとなっています。
この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり小説家でもある伊藤左千夫の小説”野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっておりその小説の中で美しく描かれております』
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江戸時代の関所は厳しかったというが、
ここはその関所を通らずに渡船できる場所だったようだ。
田畑を耕すためにはお上も許したということか。
この渡しを利用して農民のふりをして関所破りをする輩はいなかったのだろうか。
そういうシーンが出てくる歴史小説もありそうだ。
矢切の渡しは小説だけでなく、歌でも有名らしい。
矢切の渡し (細川たかし)
1983年に細川たかしで大ヒットしたようだが、
最初はちあきなおみが発売したそうだ。
渡し船は柴又から矢切側に到着。
20分ぐらい歩くと
『野菊の墓』の文学碑があるようなのでそこまで歩いてみることにした。
まず柴又側と矢切側のあまりの風景の違いにびっくり。


一面田んぼである。
こんな場所がちょっと川を渡るだけであるとは。
土のにおいがして、まるで田舎に里帰りしたようだ。
子供がザリガニ釣りをしており、自然を体験させるには絶好だなと思った。

堤防を降りてすぐに本の石碑が。
野菊の墓の文章が一部紹介されている。
野菊の墓 (集英社文庫)/伊藤 左千夫

¥360
Amazon.co.jp
どんな内容かまったく知らなかったが、悲しい恋物語だそうだ。
さらに「野菊のこみち」という道をいくと、文学碑にいけるようだ。


これが野菊のこみち。田んぼ道である。伊藤左千夫が小説を書いた頃のままなのだろう。
大きな地図で見る
このgoogoleマップの衛星地図をみてもらうとわかるが、矢切のこのへんだけが見事に田んぼ。
なぜここだけ残ったのだろうか。ほんとすごい。
田んぼ道を歩き、野菊の墓文学碑に到着。

階段では猫がお出迎え。

こちらが文学碑。
この場所が野菊の墓で伊藤左千夫が書いている「僕の家」にあたるのだろう。
青空文庫に原文があった。
僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切(やぎり)の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈(かいわい)での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。
ちなみに上で書いている「里見の崩れ」といっているのは、千葉安房を支配していた里見氏のこと。
この場所で「国府台戦争」という2度の大戦争があり、関東支配の野望をもって攻めあがってきた里見氏と
北条氏が争ったらしい。
結果的に、里見氏は破れ、二度と再起することはなかったそうだ。
安房からここまで2回も攻めてきていたとは・・・。
しかも上杉謙信と手を結んだり、謀略渦巻く戦国時代という感じだ。
うーん、歴史ロマン。

そこから眺める景色はもちろん田んぼだけである。
ベンチを占領していた猫のあくびも撮れた。

そしてまた矢切の渡しで柴又に戻った。

まるで舟によって過去へタイムトラベルをして、また戻るかのようだ。
都内からこんなに近い場所でひとときの時間旅行を楽しめた。