◆建築の圧倒的な存在力。その構造物を創り出す建築家たちの設計の力と技★

―――★ 世界に佇む建築。建築をめぐる旅に出かけよう ★―――

 

 <今回登場するキーワード>

・丹下健三 太平洋戦争後の日本復興期に世界の建築家に並んだ現代建築家

・日南文化センター 宮崎県日南市に丹下健三が1967年に建築した建物

・菊竹清訓 現代建築を長年にわたり引っ張り続けた建築家、若かりし日にメタボリズムを提唱。この人の設計事務所から多数の有名建築家が出ていて今につながる。

 

#日南市文化センター ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  南国宮崎県、その中でも南方に位置する日南市にその建物を探しに行った。

 写真では見て知っていたけどなかなか実物を見れていなかったその建築は

 <日南市文化センター>

 日南市の街中の交差点に突如、とんがったピラミッドのようなコンクリートの塊が

現れた。青空の中に三角形の建築の稜線がくっきりと見える。

 考えると、建築物を造る側、つまり工事側からは大変造りにくい形だったであろう。普通の設計者はこのような造形は諸般の事情を考慮し慮って、企画段階のアイディアだけで諦める。

 空から降る雨水の処理、とんがったコンクリート打設の難しさ、平面計画との折合いなどなど。NOという語だらけが浮上するが、それでもYESと押し切ったその力業によるこの造形。当時の建築家の力、建築の持つ時代背景、建築の自由を感じる。なんかいい感じ。

 その設計者は・・・・・・丹下健三。戦後日本の復興から世界に名をはせた日本建築界の巨匠である。戦後復興で日本人に勇気を与えたのは映画界では黒沢明がいる。建築界ではKenzoTangeなのである。

 しかしよく思い切った造形を成しえたものだ、東京から遠く離れた地だから思い切った表現ができたのか?例えば菊竹清訓等の当時の若い建築家が目指したメタボリズム建築と称された一群とどのような関連があるのだろうか?

 外観のコンクリート打ち放しは、積年の雨と埃で汚れ、真っ黒くなっていたが、見終えた後は造形や周辺の印象が残り建物の黒ずんだ印象は残っていない。

 とんがった造形と同様に設計者もとんがっていたに違いないのだ!

 

 リンク:

 https://www.tangeweb.com/works/works_no-26/ 日南市文化センター | 丹下都市建築設計 

  こちらで美しいモノクロームの公式な写真を見る事ができます。ゼヒ!

  このサイト以外にもいろいろとブログが有ります。

 

◆日南市文化センター :1962年(昭和37年)・地上2階建・・・・・49歳

◆設計者:丹下健三 <1913年(大正2).9.4 ~2005年(平成17.3.22 >

 ・広島平和記念資料館 ・国立代々木競技場 ・東京都庁舎(現庁舎及び有楽町に

   あった旧庁舎)  ・1970大阪万博お祭り広場大屋根

 ・東京カテドラル聖マリア大聖堂(丹下健三氏が眠っています)

<ちょっと寄り道>
 日南市の北側に、伝統的建造物群保存地区(1977年5月選定)の飫肥の町があり、

 飫肥天と厚焼き卵が有名で美味。ちなみに日露戦争の講和条約であるポーツマス条

 約で日本全権となった小村寿太郎の出身地です。

 南には油津漁港、東には鵜戸神宮があります。

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 <お時間のある人のために>もう少し補足

 世界的建築家として戦後の日本から未来都市を描く建築界の大スター、時代と共に大きくなりまたその子弟達が次の世界をリードしたと言えるでしょう。

 丹下健三は、その前の世代である前川國生などの大物を乗越えて、次の新しい世界を展開する、折しも戦後の新しい世代の代表となった。そして東京大学系統の日本建築界の極めて正統な流れの中に位置づけられる。

 時代は戦後の復興から立ち上がりつつある経済復興と歩調が重なり。その作品は多数で多彩、そして、大きい作物だ。その中で日南市文化センターは小さな建築物だが、思い切った造形となっている。

 広島平和会館(1952年)をコンペで勝取り、平和会館から崩壊しかけた原爆ドームを見通せる軸線を作り、現代建築とつないで見せた。過去(戦争・原爆)と未来(平和)をつなげて見通している。。

 その後、高松の香川県庁舎(1958年)では、ピロティを創り軍国主義から民主主義への移ろいを公共広場の解放という趣旨で自由を具体化した、また日本の木造の割付をコンクリート構造で表現したと言われている。戦争前の木に竹を接ぐ帝冠様式から、やっと和と洋の融合をスムーズに行うところまで来たのだ。

 そして日南市文化センター(1962年)、東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964年)、続いて戦後日本復興を世界にアピールする東京オリンピックの代表となる国立代々木競技場体育館(1964年)では吊り構造という特殊な構造形式を使い、印象的な形態を創り出しその復興を世界に印象付けた。世界の現代建築の中に躍り出たのだ

 続く、大阪万国博覧会のお祭り広場(1970年)では巨大なフラットな屋根を立体トラス構造で造り、西欧都市の広場を香川県庁舎の延長として民主主義な自由空間を造った。しかし凄いのは、この大屋根の中に岡本太郎の太陽の塔を迎え入れ、広場の大屋根を突き破って屹立させた。水平と垂直の交差。原始的形態と未来的構造大屋根という時間軸の交差。これら複数の対立する概念を物の組合せとして見せて、大変ユニークで素晴らしい👏

 大屋根は万博の目的を全うして、目的がなくなったのでその場から立ち去ったが、岡本太郎の爆発的な縄文時代のエネルギーで造られた土着的な太陽の塔は、移ろう時代の流れの中で公園の中にシンボルとして生き残っており、大変意味深く印象的だ。

 

 丹家健三の建築は今後も追加でフォロー予定です。  20230523()・0525(木)

 写真撮影:2020/11/22